百九十二
シロの羽とはまた違う滑らかな手触りの毛並みを暫しの間堪能した後、名残惜しいがそろそろ行かなければと私はようやくその場に立ち上がった。入ってきた穴から見上げた空はどこまでも広がる闇のよう。日も落ちきって今は夜か。この暗闇でグリフォンのいる聖樹を視界に頼らず登るというのは危険を伴う行為だろう。
けれど逆に言えば相手の視界も封じられるわけで、上手くいけばこのまま見つからずに頂上まで辿り着けるかもしれない。これはあくまでも可能性だからグリフォンが魔力で獲物を判別していたら全く意味は無いのだけど。その時はもう覚悟を決めて全力で相手をする他ない。
「お前たちはなるべく隠れていて」
「こっちでいい?」
「それともこっち?」
髪の中から顔を出したテテと、羽織っているローブの下から顔を出したトト。髪を勝手に結んだ件の反省を活かして一応聞いてくれるようになったのは大きな成長だと思う。
「ローブの方で。お前たちは少し発光しているから夜だと目立つ」
「はぁい!じゃあテテはこっち!」
「はぁい!じゃあトトはこっち!」
元気な返事と共に裾の中に左右に分かれて飛び込んできた二人だが、それは結局背中の辺りでぶつかるんじゃないだろうか。そう思っていたら、わっと驚く声が背中側から聞こえたのでどうやら予想通りだったらしい。何やってんだかとクスリと笑えるから私も睡眠を取れたことでだいぶ回復したようだ。
困ったのはここからだった。テテやトトを真似してローブの中に入ろうとしてくるペガサスを「流石にお前は無理だろう」と追い出すのは少し心が痛んだ。しょんぼりと首を下げる姿は言葉は分からずとも悲しんでいることくらいはわかるもので、思わず言葉に詰まってしまう。
「行っちゃうの?って言ってるよ」
「戻ってくる?って聞いてるよ」
「う……」
出会ったばかりだというのにこの後ろ髪を引かれる思いはいったいなんなのか。あまりにも触り心地が良くて愛着でも沸いたというのか。だとしたら我ながらちょろすぎる。
そもそも何故このペガサスはこんなにも私に懐いているのだろう。人間を見たことが無いと言うが、ペガサスなら自前の翼で空を飛んでどこへでも行けるはずなのに。
しかしテテとトトの通訳の内容から考えると、まるでこいつ自身がこの場所からは動けないとでも言っているようで、気になって目を向けた背の翼は確かに他の奴らよりも随分と小さいくて空を飛ぶには心許ない気もしてくる。
「まさかお前、飛べないのか?」
「くしゅんっ」
変な音を立てて鼻を鳴らしながら頷くような仕草が返ってきた。
なるほど、飛べないペガサスか。だからこんなところで仲間たちと休んでいたんだな。
もしかしたらこいつは生まれてから今までにここから出たこともないのだろうか。だとすると今回偶然鉢合わせた私に興味を持つのも頷ける。地上から遙か上空のこの場所では当然人間を見る機会などそうそうあるはずもなく、それどころか他に来訪者がいるのかすら怪しい場所だから。
当たり前に翼を持って生まれる魔物にも関わらず自由に空を飛ぶことはできない、なんて。
私がこいつを可哀想と思うのは一人よがりな考えなのかもしれない。でも一瞬でもそう思ってしまったのは事実だった。
幻獣の転生が始まり、エラの計画が完遂すれば、おそらく聖樹はその結界諸共消えることになる。実際は異空間に収納されるだけとはいえ、それは聖樹を住処にしているこいつのような魔物たちにとっては住処を失うに等しい。これをわかった上で聖樹を隠す必要があるのかと問われたら正直私はその答えを今すぐには出せそうになかった。
垂れた頭を撫でてやれば、しょんぼりとしたままのペガサスは甘えるように擦り寄ってくる。もし聖樹が無くなればこいつはきっと仲間たちとは違い、地に落ちるだけなのだろう。その事実に罪悪感を覚える資格は今の私には無い。
「ごめん。そろそろ行くよ」
だって、エラの計画を引き継ぐと決めたのは私自身だ。今更それをやめようとは思わない。私にとってはシロや仲間たちと共に今後も旅を続けることが何よりの優先事項なのだから。
その為にも厄介な貴族との因縁はここで断ち切ってしまいたい。何を犠牲にしてでも――と、いつもの私なら言っていたのだろうな。
ペガサスの黒い目を覗き込めばそこに映る自分がやたらと優しい表情を浮かべている気がした。こんな顔もできるようになったのか。我がことながら不思議なものだ。
「落ち着いたら王都の周りでも見て回ろうか」
私たちの旅は目的地のない放浪の旅だ。勇者パーティやミカエルとの取引きもあって幾つかやらなければならないことはあるものの、それ以外はどこへ行こうと私の自由であることに変わりはない。だから少しくらいこいつの為に時間を作っても構わないと思うのだ。
住処を奪ってしまう償いと言えばそうなのかもしれないけど。ただ、人間の国にいながら人間すら見たことのないこいつに、もっといろんなものを見せてやりたいと思ったのは本心だ。
私が辺境伯の屋敷から出たことで世界が広がったように、こいつの見る世界もこれからきっと大きく変化することになる。それがこのペガサスにとって良いものであるように。少なくとも私にはそれを見届ける責任があるはずだ。
「まぁ、一番は触らせてくれたお礼なんだけど」
言いながらまた手が伸びる。認めよう。ここまで手触りの良い毛並みが名残惜しくならないはずがない。たてがみをわしゃわしゃ掻き混ぜる私の行動はペガサスからしたら迷惑極まりないのかもしれないけれど。それでも一度触り出したらなかなか離れられないこの魅力……後でシロに怒られないかいろんな意味で心配なくらいである。
しょんぼりしていたペガサスは、私の言葉を聞いて一気に元気を取り戻していた。見て回ろうという提案はこいつにとっても良いものとして受け入れてもらえたらしい。くしゅんと鼻を鳴らしながら嬉しそうに擦り寄ってくるから私は思わずその首に腕を回して引っ付いていた。シロに怒られたらその時に考えよう。これは触り心地が良すぎるのが悪かった。
「それじゃあ、落ち着いたらまた会おう」
「またねー!」
「ばいばーい!」
「くしゅんっ!」
またしばらく毛並みを堪能して時間を忘れそうになっていたところに、いい加減にしようかというエラの言葉を精霊たちが届けたことで私たちの戯れは一先ず終わりを迎えたのだった。シロ以外にも怒る奴がいたか。というかお前は羨ましいだけだろう、その通り!とそんなやり取りがあったりなかったり。
入ってきた穴まで登って中を見下ろせば相変わらず端っこで休んでいる五体のペガサスとは別に、嬉しそうに駆け回りながら時折小さな翼をパタパタ羽ばたかせてほんの少しだけ浮いている小さなペガサスがいた。その様子に口元が緩むのを感じてまた和む。なんだか良い休憩になった気がするな。
そうして軽く挨拶を交わして外に出た私は、また風と強化を使いながらなるべく静かに飛び跳ねて進む。
聖樹の頂上に到達するまで、あと少し。




