百八十三
聖樹を登り始めて丸一日が経った頃。ようやく休めそうな枝を見つけて私は腰を落ち着けていた。
持っていた干し肉は地下書庫でほとんど食べ切ってしまった後なので魔術で集めた水くらいしか口にできるものがない。体力も魔力も底なしというわけではないからもう少し休憩は挟みたいのだけど。思い返せば最初にキラーマンティスの群れと戦ってから今までほとんど戦い通しだった。
(そこら中虫型の魔物ばっかりだ。多すぎてなかなか進まないよ。今は根本から約三割ってところかな)
(エルでも苦戦しているのね。でも、現れた魔物は低ランクのものばかりなのでしょう?この先はもっと大変そう。心配だわ)
(思ってもないことを……とにかく、今のところ問題なのは魔物の量だけだ)
種類も大きさも違うがスパイダー系の魔物は一度に出現した数がざっと五十は超えていたし、アント系はあちこちに群れを作っていて幹の割れ目から突然飛び出してくる。数はもう数えていない。モス系の魔物は視界を埋め尽くすほどだった。他にもありとあらゆる虫型の魔物が住み着いているようで、逆にこれで聖樹は大丈夫なのかと心配になったくらいである。
まぁ、おそらく奴らが食糧にしているのは、木というよりもその魔力なのだろうけども。あれだけの数の魔物に魔力を食われても問題ないと考えるとやはり聖樹は規格外と言う他ない。
そんなことを考えてふと思う。聖樹は幻獣の転生のために魔力を溜めているのだという。だとすると今回は約千五百年をかけてこの量の魔力を溜めたのだろうか。それは本当に可能なのだろうか。本来なら千年で使われるはずだった魔力が余計に五百年分溜まった程度で結界が生成されるのだろうか。ただでさえ魔力を食っていそうな魔物がこれだけ多く集まっているというのに。
(そもそもこの量の魔力をいったいどうやって……)
「あっ!エラがいる!エラが帰ってきた!」
(エラ?)
(エラ……!?)
――なんだ?
突然聞こえてきた幼い声にも驚いたが、それ以上に頭の中に響くトロップの声が一瞬動揺したように聞こえたのが気になった。どうかしたのかと聞こうとして、素早く動き回る光が二つ視界に飛び込んできたせいでそれどころではなくなってしまう。
「本当にエラだ!わーい!」
「おかえりエラ!どこに行ってたのー?」
「なんだこいつらっ」
鬱陶しくて手で払いながらもよく見れば光はどちらも人型をしていた。それも私の手のひらに乗るくらいの大きさで、ひらひら揺れるドレスから体、背中の薄い羽までもが白い魔力でできている。魔物というよりは妖精か精霊の類だろう。
そんな奴らが「エラ」と私を呼びながら頭の周りをぐるぐると回り続けるのだ。鬱陶しい上に腹が立ってきた。そもそも誰だエラって。そのうち髪を一房掴んでグッと引っ張り始めるものだから、我慢の限界に達した私は手に持っていた結晶体を収納袋に押し込んで交信を一方的に終わらせその場に立ち上がっていた。
「あー、もう!やめろ!私はエラじゃない!」
ぴたり。私の言葉は理解できているようで、空中で薄い羽をパタパタと羽ばたかせながら静止した二人が顔を見合わせている。かと思えばずいっと顔に寄って目を覗き込んでくるものだから、私は少しのけ反るような大勢で眉を寄せてそいつらを見ていた。
「エラじゃないの?でもエラだよ?」
「見た目も一緒。声も一緒。魔力は……ちょっと違う?あれ?エラじゃない?」
こいつらはいったい何を言っているんだろう。私と同じ容姿のエラという人物が居るとでも言うつもりなのか。もしそうだとしてもそんな気味の悪い話信じられるはずがない。この世には自分と似た容姿の人間が三人は居るだとか、出会ったら死ぬだとか、そんな迷信の存在は本で読んで知ってはいるが私は信じていないからな!
「エラじゃないの?じゃあキミはだぁれ?」
「私はエル。お前たちの言うエラじゃないのは確かだよ」
帰ってきた、と先程こいつらは言っていた。ならばそのエラという人物はこの聖樹を登ったことのある誰かなのだと思う。それが私と同じ容姿というのは引っかかるのだけどもしかしたら前回の幻獣の転生時に火を灯した者かもしれない。だとすると既に滅んだ王国の民ということにもなるのだが……それはもう千五百年は前の話だぞ。少なくとも私個人と何か関係があるとは思えない。
目の前で飛んでいる二人は私の言葉を聞いてまた顔を見合わせる。その表情はもやっとしていて私からはよくわからなかった。
魔力が人の形をしている点だけを見れば思い出すのはスイストンの街でも現れた氷の魔術師だ。あれはシロの魔力の影響で現れた幻影であり、ここにはその魔力が溢れる程に存在する。だとするとこいつらも似たようなものなのだろうかと、観察目的で今度は私の方から目を細めて顔を寄せると二人はまたわっと声を上げ始めるから驚いた。
「エル!エルだってさ!」
「エラが言ってた!神様だ!」
「いや確かにそういう意味のある名前なんだけどね。こんなところでミカエルみたいなこと言われても困るんだが……」
神殿に残してきたミカエルの場合は関係上仕方のないところもあるのだと私は思っている。だからこそ勝手にしてくれて構わないと放置してきたのだ。けれどその他の奴に信仰されるのはまた別の話なわけで、できればやめてもらいたいのが正直なところである。
しかしそんな私の思いが伝わるはずもなく、神様だと騒ぎながら飛び回る二人に私は諦めて深い深いため息を吐いたのだった。
「それで、お前たちは何?」
「テテはテテ!エラがそう呼んでた!」
「トトはトト!みんなエラが呼んでた!」
「呼び名じゃなくて……いや、聞いても無駄そうだな……」
思考能力が人間とは違うのか?
基本的な会話は成り立っていると思うのだが、どうにもこいつらの言葉にはよくわからないところがある。それに加えて妙に幼いというか、人を疑うことを知らない純粋さが垣間見えているから非常に話しづらい。王都に来てからは欲まみれの人間とばかり触れ合っていたからか、白い色も相まって眩しく見える気さえする。
それはともかく、一先ずそれぞれテテ、トト、と名前があるらしいことだけはわかったので良しとしよう。見た目の違いは主に羽の枚数か。テテの方が四枚、トトの方が二枚。人で言う髪に見える箇所には少し違いはあるようだが、それは大したものではない。
正直ここまで来るのに散々虫型の魔物を見てきたせいか白い虫にも見える。この時ふと脳裏を過ったのはラグナの相棒、シルクモスのシルクだった。
「魔力が形を持ったものだとすれば精霊か……まさかこの聖樹の?」
魔物が魔力溜まりから発生するように、精霊も濃い魔力のある場所に発生すると伝えられている。それを考えればこれだけの魔力が一箇所に集まっている聖樹に精霊がいないはずがない。もっと言えばその精霊がこの二人だけとも考え難い。ならば。
「お前たち、仲間はいないのか?」
つい興味本位で私が口にしたその言葉にテテとトトはまた顔を見合わせて、それから嬉しそうに弾んだ声で話し始める。
後になってこの時の言動を後悔することになるとも知らずに、私はその姿を特に警戒することもなく眺めていた。
「いるよ!いーっぱい!あっ、神様が来たってみんなに知らせてあげないと!」
「そうだ!エラが言ってた神様だもん!みんなきっと喜ぶね!」
「――は?」
気が付いた時にはもう手遅れで。
突然こちらに向かって飛んできた二人が小さなその手を伸ばして私の額に触れた。その瞬間。
まるで天地がひっくり返るような感覚に襲われた私の意識はそこでプツリと途切れてしまったのである。




