お着替え人形と、あまい誘惑
ショッピングモールの服屋さんに連れ込まれた雫は、大きな鏡が何枚も並ぶ異空間で、完全に動きを止めていた。
「よし! 雫ちゃん、まずはこのへんの服から片っ端から試着してみよっか!」
「……しちゃく」
澪に背中を押され、雫は『試着室』と呼ばれるカーテンで仕切られた狭い小部屋へと押し込まれた。
外の世界を知らない雫にとって、布一枚で隔てられたこの空間は、まるで見えない敵から身を隠すためのベースキャンプのようだった。
「はい、まずこれ着てみて! 普通のTシャツとデニム!」
カーテンの隙間から、澪が次々と布の塊を放り込んでくる。雫は無表情のまま、首を傾げながらそれらを手にとった。
「……穴が、たくさんある。どこに、頭を通す?」
「あ、そっか。一番大きい穴から頭出して、横の穴から腕ね!」
カーテンの向こうからの指示に従い、なんとかお着替えを完了する。雫がおずおずとカーテンを開けて外に足を踏み出すと、待機していた澪と美月が「おおーっ!」と声を上げた。
「すごーい! 雫お姉ちゃん、お洋服がボロボロじゃないだけで、めちゃくちゃモデルさんみたい!」
「本当だ、ガチでスタイル良すぎ! ……あ、でもなんか、ちょっと素朴すぎるかな? よし、次はこれ! ちょっと可愛い系のひらひらしたワンピース!」
「……ひらひら。……葉っぱ、みたい」
再び試着室に引きこもり、今度はひらひらした布地と格闘する。
次にカーテンが開いたとき、そこにはフリルがあしらわれたガーリーなワンピースを着た雫が立っていた。おとなしめの顔立ちによく似合っているが、雫自身はスカートの裾を掴んでひたすら不満そうに眉をひそめている。
「……これ、だめ。裾が、スースーする。獣に、足を噛まれる」
「だから街に獣はいないってば! でも可愛いからこれもキープね!」
その後も、澪と美月の手によって完全に『お着替え人形』と化した雫は、ジャージ姿、パーカー姿、果てはフリフリのブラウスまで、無表情のまま次々と着替えさせられたのだった。
大満足の買い物を終え、いくつかの紙袋を抱えた3人は、ショッピングモールのフードコートへと足を運んでいた。
試着の連続でさすがに疲れ果て、魂が抜けたような顔をしている雫の前に、澪が「じゃーん!」と不思議な食べ物を差し出す。
「はい、雫ちゃんお疲れ様! これ、クレープっていうすっごい美味しいお菓子だよ!」
それは、薄い生地でたっぷりの白い泡と、赤くて丸い果実が包まれた、巻物のような形をした物体だった。
「……白い、泡。……狂犬の、よだれ?」
「生クリームだから! 甘くて美味しいやつ! ほら、食べてみて!」
雫は恐る恐る、その白い泡をペロリと一口だけ舐めてみた。
次の瞬間、雫の全身がビクッと硬直した。
「……っ!」
感情を滅多に表に出さない雫の瞳が、これまでにないほど限界まで大きく見開かれる。脳内を突き抜けるような、圧倒的な「甘み」。
「……なに、これ。とろける。あまい。……ハチミツより、濃厚。……ほっぺたが、落ちる、というのは、こういうこと?」
「あはは! 雫ちゃん、無表情だけどめっちゃ目が輝いてる! 美味しいでしょ?」
「うん。……すごく、美味しい。この泡、無限に、吸える」
おとなしめの天然な口調のまま、雫は夢中になってクレープを口に運んでいく。
イチゴの酸味とクリームの甘さが合わさり、山での過酷なサバイバル生活では絶対に味わえなかった幸福感が、雫の心をじんわりと満たしていく。
「ふふ、雫お姉ちゃん、お口の横に泡がついてるよ」
美月に優しくティッシュで拭かれながらも、雫はモグモグと口を動かし続けた。
こうして、初めてのお買い物と文明のスイーツを大満喫した雫。
美味しいお菓子という「外の世界の素晴らしいご褒美」を知ってしまった山の狩人は、無表情のまま、心の中でこっそりと「探索者になるのも、悪くないかもしれない」と思い始めるのだった。
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