初めての『おうち』と、お買い物
澪の家である2LDKのマンションに入った雫は、リビングの真ん中で借りてきた猫のようにおとなしく座っていた。無表情のままだが、その瞳は部屋のあちこちを激しく警戒している。
「じゃあ雫ちゃん、ご飯の前にまずはお風呂ね! 服も泥だらけだしさ」
「……おふろ」
手すりのついた白い部屋――浴室へ案内された雫は、浴槽に並々と注がれた湯を見て、顔をサッとこわばらせた。
「……罠? 大きな穴に、熱い水が、溜まってる。……拷問?」
「違うから! 体を綺麗にする温かいお湯! あ、このボタン押すと自動でお湯が溜まるんだよ。あとこれシャンプーね、泡立てて頭洗うやつ!」
「……っ! ボタンを押したら、壁から声がした。……呪い?」
「お湯が沸きましたってアナウンスだから怖がらないで!?」
澪に宥められながら、なんとかお風呂を済ませた雫。
お下がりとして渡された澪のパジャマ(少しサイズが大きくてブカブカしている)を着てリビングに戻ると、今度はキッチンから「チン!」と小気味いい音が響いた。
「……っ」
雫はすかさず身構え、服の中に弓矢を探す(お風呂上がりのため持っていない)。
「……今の音、なに。敵の、襲撃?」
「ただの電子レンジ! 冷めたおかずを温めてるだけだから!」
「……四角い箱が、光って、お肉が温かくなった。……すごい魔法」
さらに、洗面所の方からゴウンゴウンと激しい駆動音が聞こえてくる。
「……あっちで、獣が、唸ってる」
「あれは洗濯機! 雫ちゃんの汚れた服を洗ってるの!」
家の中にあるものすべてに無表情のままビビり散らかす雫を見て、妹の美月は「ふふ、雫お姉ちゃん可愛い」と楽しそうにクスクス笑っていた。
その後の晩ご飯では、電子レンジで温められた現代の料理を口にした瞬間、雫の箸がピタリと止まった。無表情のままだが、その目が限界まで丸くなっている。
「……おいしい。お肉、柔らかい。味、濃い。……山の実より、甘い」
「でしょー! いっぱい食べなよ!」
おとなしく、けれど猛烈な勢いでご飯をおかわりする雫。外の世界の文明に翻弄されながらも、その胃袋は完全に現代の美味に掴まれてしまったようだ。
翌朝。
すっかりお腹いっぱいになってぐっすり眠り、朝を迎えた雫だったが、一つ重大な問題が残っていた。
「うーん……やっぱり私の服じゃ、雫ちゃんにはちょっと大きいよね」
澪が腕を組んで、雫の姿を眺める。
雫が着ているのは昨日借りた澪の服だが、サイズが合わずに肩や袖がズリ落ちてしまっている。山から着てきた服はまだ洗濯中だし、そもそもボロボロで貧相な衣服しかなかった。
「……これ、動きにくい。袖が、邪魔。獣が来たら、逃げ遅れる」
「街中に獣は出ないから大丈夫。よし、決まり! 雫ちゃんの服を買いに行こ! 美月も一緒に行くよね?」
「うん! 美月、雫お姉ちゃんのお洋服選ぶの手伝いたい!」
「……おようふく、買う?」
よく分かっていない雫の手を引き、澪と美月は元気よくマンションを飛び出した。
そうして電車に揺られ(もちろん雫は電車のスピードと音に無表情のまま硬直していた)、到着したのは街で一番大きなショッピングモールだった。
見上げるほどの巨大な建物と、そこへ吸い込まれていく無数の人、人、人。
「さあ着いたよ! ここが私たちの街のショッピングモール! 何でも揃うんだから!」
「……家が、山みたいに、大きい。人間が、蟻の群れみたいに、たくさんいる……」
あまりのスケールの大きさと人の多さに、さしもの最強狩人も、完全に圧倒されて呆然と立ち尽くす。
これから始まる未知の「お買い物」を前に、雫の現代文明への驚きは、いよいよピークを迎えようとしていた。
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