朝焼けの誓いと、隣の特等席
朝。
カーテンの隙間から差し込んだ柔らかな光が、二人の暮らすマンションの寝室を静かに照らしていた。
窓の向こうでは、街がゆっくりと目を覚まし始めている。
遠くを走る魔導車の低い駆動音。通り沿いの店舗で稼働を始めた自動ドアの開閉音。建物の壁面に設置された魔導広告が、今日の天気と交通情報を淡々と表示している。
どこにでもある、ごく普通の朝。
けれど、この部屋で眠る二人にとっては、昨日までとは少しだけ違う朝だった。
昨夜。
満月の光が降り注ぐベランダで、二人は互いの未来について語り合った。
人間として生きてきた時間。
吸血鬼となって手に入れた、途方もなく長い時間。
そして、いつか周囲の人々が年老いていく中でも、二人だけは変わらずに生き続けるかもしれないという事実。
その未来を恐れなかったわけではない。
それでも二人は、互いの手を取り合い、これから先も一緒にいることを選んだ。
その誓いの余韻は、夜が明けた今も、確かにそこに残っていた。
「……ん」
先に目を覚ましたのは、照道雫だった。
雫はゆっくりと目を開ける。
寝起き特有のぼんやりとした意識の中で、まず感じたのは、すぐ隣にある温かな気配だった。
かつての雫なら、眠っている間に誰かが近くへ来れば、気配だけで目を覚ましていたかもしれない。
山で暮らしていた頃、眠りは決して完全な休息ではなかった。
風向きの変化。
草木を踏む小さな音。
遠くで鳴く獣の声。
そうしたものを無意識に拾い上げながら、次の危険に備えていた。
しかし今は違う。
ここは、魔物の気配に怯える必要のない自分たちの家だ。
隣にいるのは、警戒すべき何者かではない。
大切な人だった。
「……澪」
小さく名前を呼んでみる。
返事はない。
澪は雫のすぐ隣で、穏やかな寝息を立てていた。
赤い髪が枕の上に広がり、朝の光を受けて、ところどころに淡い輝きを帯びている。
普段は感情豊かで、よく笑い、よく喋り、時には大げさなくらいに騒がしい少女。
けれど、眠っているときの澪は驚くほど静かだった。
雫はその寝顔をじっと見つめた。
「……かわいい」
ぽつり。
誰に聞かせるつもりもない、素直な感想だった。
雫はそっと手を伸ばし、澪の髪が顔にかからないように整えてやる。
指先が赤い髪をすくう。
さらりとした感触が伝わった。
それだけのことが、なんだか嬉しかった。
「……私のお嫁さん」
昨夜、自分で口にした言葉を、雫はもう一度つぶやいた。
特別な意味を込めたつもりだった。
少なくとも、雫自身はそう思っていた。
ただし、その言葉が相手にどれほどの威力を持つのかについては、相変わらず理解が追いついていない。
雫は満足そうにうなずくと、澪を起こさないよう、静かに枕へ頭を戻した。
もう少しだけ。
このまま隣にいよう。
急いで起きる理由は、どこにもなかった。
窓の外では、街が少しずつ明るさを増していく。
けれど雫は、朝日よりも、時計よりも、隣で眠る澪の存在を優先していた。
そのまま、しばらく。
静かな時間が流れた。
――そして。
「…………んぅ」
澪の眉が、ぴくりと動いた。
意識がゆっくりと浮上してくる。
温かな布団。
柔らかな枕。
聞き慣れた部屋の音。
そして、自分のすぐ近くから感じられる、深紅の魔力とは異なる、静かで澄んだ気配。
それが誰のものなのか、考えるまでもなかった。
「……しずく?」
「……ん」
「……いる?」
「いるよ」
短い返事。
それを聞いた澪は、安心したように息を吐いた。
そして、ゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、こちらを見つめる雫の顔だった。
近い。
いつもどおり近い。
けれど、昨夜の出来事を思い出した瞬間、澪の意識は一気に覚醒した。
月明かり。
ベランダ。
つながれた手。
そして。
『私のお嫁さん』
「――っ!?」
澪の顔が、一瞬で赤くなった。
「お、おおおおはよう、雫っ!」
「……おはよう、澪」
「うん! おはよう! いや、うん、朝だね!?」
「……朝だね」
「そうじゃなくてぇっ!」
澪は布団をぎゅっと握りしめた。
言葉がまとまらない。
何か言わなければと思うのに、昨夜の雫の表情が脳裏に浮かぶたび、頭の中が真っ白になってしまう。
あのときの雫は、いつもと同じように無表情だった。
それなのに。
自分の手を握り、まっすぐにこちらを見つめながら、迷いなく言ったのだ。
これからも一緒にいる、と。
私のお嫁さん、と。
あまりにも自然に。
まるで、明日の天気を話すのと同じくらい当たり前のことのように。
「…………」
澪は布団の端を、さらに強く握った。
嬉しい。
とてつもなく嬉しい。
それなのに、恥ずかしさが追いつかない。
そもそも、雫はどうしてあんな言葉を平然と言えるのだろう。
自分だったら、言おうと考えただけで心臓が大変なことになる。
いや、そもそも吸血鬼になってから心臓の鼓動を以前と同じ感覚で捉えられるのかは、まだよくわかっていないのだけれど。
少なくとも今の澪は、身体の内側で紅蓮の魔力が落ち着きなく揺れているのを、はっきりと感じていた。
「……澪?」
「な、なに!?」
「……顔、赤い」
「雫のせいだよっ!」
「……私?」
「そうだよっ!」
雫は首をかしげた。
本当にわかっていない顔だった。
澪はその表情を見て、思わず枕に顔を埋めた。
「もおおおお……!」
「……?」
雫には、やはり理解できない。
自分はただ、思ったことを口にしただけなのに。
澪が大切だ。
これからも一緒にいたい。
ずっと隣にいてほしい。
その気持ちを、隠す必要があるとは思わなかった。
だから、言った。
それだけだった。
けれど、澪にとっては、それだけでは済まなかったらしい。
「……澪」
「……なに」
「……こっち、向いて」
「む、無理!」
「……どうして?」
「どうしても!」
雫は少し考えた。
それから、そっと澪の手に自分の手を重ねる。
「……手、つなぐ?」
「…………っ」
澪は固まった。
たったそれだけ。
指を絡めるでもなく、特別な言葉を添えるでもなく。
ただ、手をつなごうと尋ねられただけ。
それなのに。
「……つなぐ」
小さな声で答えると、澪は布団から手を出した。
雫の指が、澪の手を包み込む。
温度だけでは説明できない、不思議な安心感があった。
二人の魔力が、かすかに反応する。
雫の中にある深紅の気配。
澪の中で静かに燃える紅蓮の気配。
異なる性質を持つ二つの力が、互いを拒むことなく、穏やかに寄り添っていた。
それは、二人が初めて出会った頃には想像もできなかった光景だった。
山で一人、獲物を追っていた少女。
剣を握り、強くなろうともがいていた少女。
出会ったときは、まったく違う場所に立っていた二人。
それが今では、同じ家で目を覚まし、同じ朝を迎えている。
「……澪」
「……ん?」
「……今日も、一緒」
雫は、つないだ手をほんの少しだけ握り直した。
「……明日も。その次も」
「…………」
「……ずっと」
澪は、もう何も言えなかった。
ただ、雫の手を握り返す。
そして、ようやく顔を上げた。
「……うん」
赤い瞳に、朝の光が映る。
「ずっと、一緒だよ。雫」
今度は、澪から言った。
恥ずかしさは、まだ消えない。
けれど、それ以上に伝えたい気持ちがあった。
「だから……その……」
「……?」
「……これからも、よろしくね」
最後の言葉は、少しだけ震えていた。
雫は目を瞬かせたあと、こくりとうなずく。
「……うん。よろしく、澪」
それから、二人はしばらく手をつないだまま、朝の光を眺めていた。
特別なことは何も起きていない。
世界を揺るがす戦いもない。
命を懸けた決断を迫られることもない。
ただ、好きな人が隣にいる。
その事実だけで、こんなにも心が満たされる。
それは、どれほど強大な力を手に入れても、きっと変わらないものだった。
――もっとも。
「……お姉ちゃんたちー?」
寝室の外から聞こえてきた声が、二人の静かな時間を終わらせることになる。
「朝ごはん、できるよー!」
朝霧美月の声だった。
続いて、少し間を置いて。
「……あれ? 返事がない?」
とてとてと、廊下を歩く足音が近づいてくる。
「お姉ちゃーん? 雫お姉ちゃーん?」
澪の顔から、すっと血の気が引いた。
「ま、待って! 美月! 今、起きるから!」
「えー? もう起きてるのー?」
「起きてる! 起きてるから!」
「じゃあ、早く来てねー!」
足音が遠ざかっていく。
どうやら、美月はひとまずキッチンへ戻ってくれたらしい。
澪は、深々と息を吐いた。
「……た、助かったぁ……」
「……朝ごはん」
「うん……朝ごはんだね……」
「……美月、待ってる」
「そうだね……」
澪はゆっくりと上半身を起こした。
けれど、雫はまだベッドの上で、つないだ手を見つめている。
「……雫?」
「……ん」
「……起きないの?」
「……もう少し」
「もう少しって……」
雫は澪を見上げた。
「……澪と一緒にいたい」
「…………っ!」
澪は再び固まった。
朝から何度目になるのか、もう数えるのも嫌になってきた。
「……し、雫ぅ……」
「……だめ?」
「だ、だめじゃないけどぉ……!」
澪は片手で顔を覆った。
この少女は、本当に。
どうしてこうも、無自覚に人の心を揺さぶるのだろう。
しかも、本人は至って真剣なのだから、余計にたちが悪い。
「……あと五分だけだからね?」
「……ん」
「本当に五分だから!」
「……わかった」
そう答えた雫は、澪の手を離さなかった。
澪もまた、離してほしいとは言わなかった。
窓の外では、街がすっかり朝の賑わいを取り戻している。
今日もきっと、いろいろなことがあるだろう。
ギルドからの連絡が来るかもしれない。
新しい力について、調べなければならないこともある。
吸血鬼としての身体に慣れるために、練習することだって必要だ。
けれど、今はまだ。
この五分間だけは。
二人が、ただの少女として過ごせる時間だった。
永遠という言葉は、あまりにも大きい。
その長さを、今の二人が本当に理解できているのかはわからない。
それでも。
今日、隣にいる。
明日も、隣にいたいと思っている。
その積み重ねの先に、二人が誓った未来があるのだろう。
そして、五分後。
「――お姉ちゃんたち! 五分って言ったのに、もう十分経ってるよーっ!」
キッチンから響き渡った美月の声が、マンションの朝を鮮やかに彩った。
「……あ」
「……あ」
二人は顔を見合わせた。
そして、雫がぽつりとつぶやく。
「……もう五分」
「増やさないのっ!!」
朝霧澪の声が、今日も元気よく響き渡った。
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