第八節 『聖女』
「彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アーメン。」――ローマ人への手紙 第1章第25節
「人は祈りによって救われるのではない。救われたいと願うことで祈るのだ。」――失楽の書 第1章第8節
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都市は静まり始めていた。だが、それは平穏ではない。疲弊だった。
暴動、飢え、黒い怪物、崩壊した社会——人々はもう、怯える力すら失い始めていた。だからこそ、救済が必要だった。
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避難区域の巨大スクリーンに、《YGGDRASIL GROUP》のロゴが映し出される。白い世界樹。その光景はまるで、新しい時代の象徴みたいだった。
配給トラックが並ぶ。食料、医薬品、毛布、簡易発電機。泣いていた子供が、ようやく笑顔を取り戻す。
「ありがとうございます……。本当に、助かりました……。」
人々は涙を流していた。その感謝はもう、見えない神へ向けられてはいない。
「ユグドラシルがなかったら、俺たちは死んでた……。神崎さんが、助けてくれたんだ……。」
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黒い靄が、ゆっくりと広がっていく。
澪はそれを見た。レギオン。欲望から生まれる黒き異形。だが避難民たちは気付かない。あるいは——気付いていても、見ないふりをしていた。
「……おかしいよ。助かってるのに、なんでこんなに嫌な感じがするの……。」
白い炎が右腕で揺らめく。まるでこの空気そのものを、拒絶するみたいに。
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その時だった。避難区域の奥から、悲鳴が上がる。
「化け物だ!」「逃げろ!」
人々が一斉に後退する。黒い異形が、配給区域へ現れていた。人型に近いが、全身が歪んでいる。顔はない。その代わりに、胸元に巨大な口があった。
「ホシイ……タリナイ……モット……。」
異形が呻く。まるで人間の欲望そのものが、形になったみたいに。
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《YGGDRASIL SECURITY》の黒い装甲服を纏った警備員たちが前へ出た。
「避難民を下がらせろ! 対象を制圧する!」
警棒が振るわれる。閃光、轟音。だが効かない。怪物が腕を振るうと、車両が吹き飛んだ。悲鳴、ガラスの割れる音、血飛沫。
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澪は反射的に走り出していた。「やめて!」
右腕が熱を帯びる。白い炎が灯った。
怪物が咆哮する。だが白い炎へ触れた瞬間、黒い身体が崩壊した。音もなく、灰すら残さず——存在そのものを否定されたみたいに。
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静寂。
誰も動けなかった。避難民たちはただ呆然と、白い火を纏う少女を見ている。
「……白い火。」「怪物が……消えた。」「助けてくれた……。」
震える声の中に、別の感情が混ざり始める。安堵、期待、依存。
子供を抱えた母親が、涙を流しながら澪を見た。「お願い……助けてください……。」別の男も、震える声で続ける。「俺たちを……救ってくれ……。」
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澪の呼吸が止まる。
違う。自分はそんな存在じゃない。ただ助けたかっただけ——それだけなのに。
人々が少しずつ澪へ近付いてくる。祈るみたいに。
白い炎がどくり、と脈打つ。歓喜するみたいに。
頭の奥で、あの声が響く。「救済せよ。浄化せよ。」
澪の顔から血の気が引いた。
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その時、後方から静かな拍手が聞こえた。
マモンが立っていた。黒いコート、黄金の瞳。その表情は、どこか嬉しそうだった。
「素晴らしい。人類は、奇跡を求めている。」彼は静かに微笑む。「神を失えば、人は新しい神を探し始める。彼らは弱い。だから縋れるものを欲しがる——安心を、救済を、許しを。」
「違う……! 私は、神様なんかじゃない!」
マモンは小さく笑った。「ええ。ですが彼らにとっては、違う。」
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避難民たちが、なおも澪を見つめている。希望を見る目で。祈る目で。
その瞬間、澪は理解してしまう。
人は——絶望の中で、必ず何かを神にする。
白い炎が揺らめく。まるでその祈りを、受け入れるみたいに。




