第七節 『信仰』
「この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。」――ペテロの第二の手紙 第2章19節
「人は神を失った時、新たな神を欲した。」――失楽の書 第1章第7節
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白炎が揺れている。まるで都市全体へ敵意を向けるみたいに。
澪は右腕を押さえた。「やめて……。」
熱い。白炎が、マモンの言葉へ反応している。欲望、執着、信仰——それら全てを"穢れ"と認識しているみたいだった。
都市の空気は変わっていた。さっきまでの暴動とは違う。もっと静かで、もっと危険な熱。
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避難所の人々が、街頭モニターを見上げている。そこへ映るのは神崎玲央。整った顔、穏やかな声、安心を与える微笑み。背後では《YGGDRASIL GROUP》の巨大なロゴが輝いていた。
「食料は十分にあります。避難区域は拡張されます。皆さんは、見捨てられていません。」
その言葉へ、人々の表情がゆっくりと緩んでいく。
老人が涙を流した。「……ありがたい。本当に、助けてくれるんだ……。」母親が子供を抱きしめながら呟く。「もう大丈夫……神崎様がいるから……。」
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澪は息を呑んだ。
"神崎様"。その呼び方に、強い違和感を覚える。だが誰もおかしいとは思っていない。むしろ——自然だった。
政府は崩壊した。警察も機能していない。神も現れない。なら、人はどこへ縋るのか。答えは単純だった。自分たちを救ってくれる存在——それだけでよかった。
モニターの中で、神崎が微笑む。「欲しいと願ってください。生きたいと願ってください。幸福を求めることは、罪ではありません。」
優しい声。否定しない声。人々の弱さを全て受け入れるみたいな声だった。
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「……違う。」澪は小さく呟く。「そんなの、駄目だよ……。」
だが——何が駄目なのか、自分でも分からなかった。
実際、救われている人がいる。ユグドラシル・グループがなければ、もっと多くの人が死んでいた。神崎玲央は現実に人を救っている。それは事実だった。
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その時、避難民の一人が静かに跪いた。モニターへ向かって。
「ありがとうございます……神崎様……。俺たちを、救ってくれて……。」
それを見た周囲の人々も、次々に頭を垂れ始める。祈るみたいに。縋るみたいに。
「神様なんて、もう助けてくれない……。でも、神崎様は違う。俺たちを見捨てない。」
黒い靄が溢れ出す。レギオン。だが——もう誰も恐怖していなかった。怪物が生まれているのに、人々は安心した顔でモニターを見上げ続けている。
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澪の背筋が凍る。「なんで……誰も気付かないの……?」
するとマモンが、静かに口を開いた。
「気付いていますよ。その上で、縋っているんです。」
澪が目を見開く。
「人は、苦しみに耐えられない。だから救済を求める。神でも、金でも、他人でも——何でもいい。」彼は小さく笑った。「空っぽのままでは、生きられないんですよ。」
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澪は白炎を握り締める。その言葉を、否定できなかった。
人は弱い。だから誰かを求める。救いを求める。縋れる何かを欲しがる——それもまた、欲望だった。
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マモンは静かに両手を広げる。まるで崩壊した都市そのものを、抱きしめるみたいに。
「欲望とは、人間の祈りです。」
その瞬間、都市中のレギオンたちが咆哮した。黒い靄が空を覆う。欲望、信仰、救済——全てが混ざり合い、巨大な渦になっていく。マモンの魔力が、さらに膨れ上がった。
ビルが軋む。窓ガラスが震える。空気そのものが重い。都市全体が——彼の存在へ跪いているみたいだった。
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澪は震える。「これが……強欲の悪魔……。」
マモンは微笑む。否定も肯定もせず、ただ静かに。
「さあ。」黄金の瞳が、澪を真っ直ぐに見つめた。「あなたは、人類を救えますか?」
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白炎がどくり、と脈打つ。まるで——その問いへ応えるみたいに。




