第六節 『救済』
「あなたの宝のあるところには、心もあるからである。」――マタイによる福音書 第6章第21節
「人は飢えによって堕ちるのではない、満たされたいと願うことで堕ちるのだ。」――失楽の書 第1章第6節
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白炎が揺らめく。都市を焼き尽くそうとするみたいに。
澪はとっさに右腕を押さえ込んだ。「やめて……!」
熱い。骨の奥まで焼けるみたいだった。頭の中で、あの声が響き続けている。
「穢れを浄化せよ。欲望を焼き払え。」
だが街には、まだ人々の悲鳴が響いていた。コンビニを破壊する群衆、食料を奪い合う避難民、道路で殴り合う男たち。誰もが怯えていた。だからこそ——誰もが"自分だけは生き残りたい"と願っていた。
黒い異形、レギオンがその感情へ群がっていく。欲望、恐怖、飢え、憎悪——それらを喰らうたび、怪物たちはさらに膨れ上がった。
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「こんなの……地獄じゃん……。」
澪が震えながら呟くと、背後から静かな声が返った。
「ええ。」
マモンだった。燃え続ける街を見上げながら、どこか穏やかに微笑んでいる。「ですが、これが人間です。」
「違う!」澪は思わず叫んだ。「みんな、好きでこんなことしてるわけじゃない! 怖いからでしょ? 苦しいからでしょ?」
涙混じりの声。だがマモンは否定しなかった。
「ええ。その通りです。」
静かな肯定に、澪は息を呑む。
「だから私は、人類を愛している。」黄金の瞳が、混乱する都市を映していた。「人は弱い。飢える。満たされたいと願う。だから手を伸ばす。それの何が、醜いのですか?」
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澪は言葉を失う。
否定したい。でも——避難所の男の顔が浮かぶ。娘を守ろうとしていた父親。あれは本当に悪だったのか。
その時、街頭モニターが再び点灯した。神崎玲央の演説。避難していた人々が、縋るように画面を見上げる。
「安心してください。私は、あなたたちを見捨てません。」
その声は優しかった。あまりにも優しく——疲弊した人々の心へ、ゆっくりと染み込んでいく。
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画面が切り替わる。大型トラック、配給される食料、医薬品、避難施設。そこへ映る巨大な企業ロゴ。
《YGGDRASIL GROUP》――《ユグドラシル・グループ》
金融、通信、物流、医療、インフラ。現代文明の根幹へ食い込む、世界最大級の複合企業。そしてその頂点に立つ男こそ、神崎玲央だった。
政府も警察も機能を失った都市で、唯一インフラを維持している存在。それが——ユグドラシル・グループだった。
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避難民の男が涙を零す。「……助かった。娘が……助かったんだ……。」
別の女が、祈るみたいに呟く。「神様より……あの人の方が救ってくれた……。」
黒い靄が、人々の足元から滲み始める。レギオン。だが彼らは恐怖していなかった。むしろ——安心していた。
モニターの中で、神崎が静かに微笑む。「欲しいと願ってください。生きたいと願ってください。幸せになりたいと、願ってください。その願いを、誰も否定してはいけない。」
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群衆の表情が変わる。怯えが薄れ、代わりに熱が宿り始める。
「俺は悪くない。」「生き残るためだ。」「奪われる前に奪わなきゃ……。」「もっと必要なんだ。」
小さな呟きが、連鎖していく。レギオンが増殖する。人々の欲望へ呼応するように——都市全体が、巨大な悪意の培養槽へ変わっていった。
だが誰も操られてはいない。全員、自分の意志で選んでいる。だからこそ恐ろしかった。
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その時だった。老人が、モニターへ向かって膝をつく。涙を流しながら。
「ありがとう……神崎様……。あなたが、救ってくださった……。」
その声へ呼応するように、周囲の避難民たちも静かに頭を垂れ始めた。
「ユグドラシルがあるなら、まだ生きられる……。」「俺たちは、見捨てられてなかった……。」
そして誰かが、ぽつりと呟く。
「神様なんかより……神崎様の方が、俺たちを救ってくれる。」
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澪の呼吸が止まった。
それは祈りだった。絶望の果てに辿り着いた——新しい信仰。
黒い靄がさらに濃くなる。レギオンが歓喜するみたいに蠢いた。
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澪は震えながらマモンを睨む。「どうして……! どうしてそんなに、人の欲望を煽るの? みんな苦しんでるのに!」
マモンは少しだけ黙った。黄金の瞳が、崩壊していく都市を映している。
「煽る?」彼は小さく笑う。だがその笑みには、どこか寂しさが混じっていた。「違いますよ。私はただ、人間に"許可"を与えているだけです。」
澪が息を呑む。
「神は人間へ、清廉であることを求める。飢えるな、嫉妬するな、慎ましくあれ——。」マモンは街を見下ろした。欲望に飲まれ、壊れていく人々を。「ですが人間は、そんなふうには作られていない。」
黄金の瞳が細められる。「人は飢える。満たされたいと願う。愛されたい、失いたくない、生き残りたい。」静かな声。けれどその言葉には、妙な熱があった。「それの何が罪なんです?」
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澪は言葉を失う。
「欲望があるから、人は文明を作った。欲望があるから、世界を変えた。満たされないから、手を伸ばした。」マモンは静かに目を閉じる。「私は、それを美しいと思う。」
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その瞬間、街中のレギオンたちが歓喜するみたいに咆哮した。黒い靄が都市全体を覆い始める。
澪は気付く。人々の欲望そのものが——マモンを強くしている。
「……あなた、まさか。」澪の声が震えた。
マモンは穏やかに微笑む。「ええ。人が欲望を抱くほど、私は強くなる。文明が発展するほど、私は満たされる。」
黄金の瞳が夜の都市を映す。ネオン、広告、株価、ブランド、終わらない消費——。
「現代は、実に美しい時代ですよ。」その声は、誇らしげですらあった。
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澪の白炎がどくり、と脈打つ。まるでマモンの思想そのものを、危険視するみたいに。
頭の奥で、再び声が響く。
「欲望は穢れである。故に浄化せよ。」
白炎が揺らめく。都市を、人々を、欲望そのものを焼き払おうとするみたいに。




