第九節 『偶像』
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」――出エジプト記 第20章第3節
「人が神を作る時、神は人を喰らい始める。」――失楽の書 第1章第9節
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最初に動いたのは、子供だった。
母親に抱かれた小さな女の子が、澪へ向かって両手を伸ばす。「おねえちゃん……こわい……。」
澪はとっさにその手を取った。温かい。小さい。ただそれだけなのに——白炎がどくり、と脈打った。
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それを見ていた母親が、膝をついた。
「お願いします……。」震える声だった。「この子を、守ってください……。」
違う。澪は首を振ろうとした。私はそんなんじゃない。ただの高校生で、この炎だって自分でも制御できなくて——。
だが言葉が出なかった。
周囲の視線が、一斉に澪へ集まっていた。
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「助けてくれ……。」「俺たちを守ってくれ……。」「あの炎があれば……。」
声が重なっていく。一つ、また一つ。それはやがて、波になった。
人々が澪へ近付いてくる。祈るみたいに。縋るみたいに。
白炎がまた脈打つ。どくり、どくり。まるで歓喜するみたいに——その祈りを、喰らいながら。
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熱い。
右腕が熱い。さっきまでとは違う熱さだった。骨を焼くような痛みじゃない。もっと深いところから、滲み出てくるみたいな熱。
「救済せよ。」
頭の奥で声が響く。「浄化せよ。汝は選ばれた器である。」
違う。「やめて……。」澪は右腕を押さえた。「そんなの、やめて……!」
だが炎は止まらない。人々の視線が集まるほど、祈りが重なるほど——白炎は強くなっていく。
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マモンが静かに口を開いた。
「お分かりになりましたか?」黄金の瞳が、澪を見つめていた。「白炎は、信仰によって育つ。」
「違う……!」
「人々があなたを神と呼ぶ。あなたは人々を救いたいと願う。」彼は穏やかに続けた。「その循環が——炎を強くしているんですよ。」
澪の呼吸が乱れる。
「じゃあどうすればいいの……! 救いたいって思ったら駄目なの……!?」
マモンは答えなかった。ただ静かに微笑むだけだった。
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人々の輪が、狭まっていく。
「白い炎の人……。」「神様……。」「助けてください……。」
その言葉が刺さる。神様。違う。私は神様じゃない。でも——否定するほど、罪悪感が膨らむ。否定したら、この人たちは何を信じればいいのか。
白炎がさらに膨れ上がった。
右腕から、肩へ。肩から、背中へ。炎が這い上がってくる。視界の端が白く滲み始める。
まずい。
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「救済せよ。」声が大きくなる。「都市を浄化せよ。穢れを焼き払え。汝の炎は世界のためにある。」
「やめて……!」澪は耳を塞いだ。「やめてってば……!!」
白炎が弾ける。
轟、と。純白の光が、澪を中心に広がった。
人々が後退する。悲鳴。崩れる瓦礫。熱風が吹き荒れる。
「違う……こんなつもりじゃ……!」
助けたいのに。守りたいのに。なのに炎は——人々を焼こうとしている。
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その時だった。
空気が、変わった。
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冷たい。深い。底の見えない夜みたいな気配が、澪の背後から滲み出す。
白炎が——止まった。
声も止まった。頭の奥の命令が、まるで遮断されたみたいに、消えた。
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ひらり、と。
黒い羽根が、澪の目の前へ落ちた。
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澪は息を呑んだ。
また、これだ。あの時と同じ——何かがいる。誰かがいる。
白炎の熱が引いていく。骨の奥まで焼けるみたいだったあの感覚が、嘘みたいに消えていく。
澪は震える手で、黒い羽根を拾い上げた。ひどく軽い。冷たい。なのに——手放せなかった。
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マモンが、ゆっくりと空を見上げた。
黄金の瞳が細められる。その表情に、珍しく——読めない色があった。
「……今夜は、随分と過保護ですね。」
誰に言うともなく、呟く。
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澪は右手の羽根を見つめた。
白炎はもう揺らめいていない。人々の祈りの声も、遠くなっていく。だが——胸の奥に残った問いだけは、消えなかった。
救いたいという気持ちが、世界を焼く。
なら——私はどうすればいい。
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その答えを、誰も持っていなかった。
白炎も。マモンも。黒い羽根を落とした、名も知らぬ何かも。
夜だけが、静かに都市を覆っていた。




