第十節 『夜明け前』
「主よ、あなたは私をさぐり、私を知りつくされました。」――詩篇 第139章第1節
「炎は嘘をつかない。だからこそ、炎を持つ者は自分自身から逃げられない。」――失楽の書 第1章第10節
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夜が明け始めていた。
東の空の端が、わずかに白む。だがそれは希望には見えなかった。ただ——また新しい一日が、この壊れた都市へやってくるというだけだった。
レギオンの咆哮は遠くなっている。白炎の余熱が、まだ右腕に残っていた。熱くはない。ただ——重かった。白炎を解放した後特有の、骨の奥に沈む重さ。
澪は廃墟の中を、一人で歩いていた。
足元に瓦礫が散らばっている。割れたガラス、焦げた木材、曲がった鉄骨。その隙間から、朝露が光っていた。壊れた街の中で、それだけが普通だった。それだけが、昨夜の戦いとは無関係に、ただそこにあった。
澪は右手を見た。
白炎は今、灯っていない。静かだ。頭の奥の声も聞こえない。だが——炎の端が、ほんのわずかだけ、灰色に滲んでいる。
気のせいかもしれない。でも澪は、気のせいじゃないと分かっていた。
昨夜から、そこにある。少しずつ、確実に。
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昨夜傷ついた人々のことを、澪は思い返していた。
白炎の暴走に巻き込まれた人。瓦礫に押し潰された人。レギオンに追い詰められて泣き叫んでいた子供。
あの子供の顔が、今も頭にある。泣いていた。怖かったんだろう。当然だ。
だが——澪の胸の中は、静かだった。
怒りはある。レギオンへの、マモンへの、この状況への怒りは確かにある。あの子供が泣いていることへの怒りも。
でも。
悲しくない。
あの子が泣いていたのに。傷ついた人々を見たのに。なのに——胸に何も来なかった。
おかしい、と思う。思うのに——その「おかしい」という感覚すら、どこか遠かった。
澪は首を振った。疲れているんだ。それだけだ。白炎を使い続けた後は、感覚が鈍くなる。それだけのことだ。
でも——本当にそれだけか。
答えは出なかった。
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「澪——!」
声が聞こえた瞬間、澪の足が止まった。
振り返る。廃墟の角から、一人の少女が走ってくる。セーラー服。乱れた髪。息を切らせながら、それでも顔には笑みを浮かべている。
鳴瀬ほのかだった。
「よかった……! 見つけた……!」
ほのかは澪の前で立ち止まり、膝に手をついて息を整えた。頬が赤い。相当走ってきたらしかった。
「ずっと探してたんだよ。連絡も繋がらないし、避難所にもいないし——」
「……なんでここにいるの。」
「そっちのセリフ。」ほのかは顔を上げた。「こんなとこ一人でうろうろして、危ないじゃん。」
澪は答えなかった。
ほのかの顔を見る。心配そうな目。いつもと変わらない、明るくて少し騒がしい親友の顔。だが——その目の奥に、何かが混じっていた。安堵と、それから——隠しきれない、何かが。
「……大丈夫だから。」澪はそれだけ言った。
「うん。」ほのかはすぐに頷いた。「知ってる。澪は大丈夫だもんね。」
その言葉は、責めていなかった。でも——どこか、悲しそうだった。
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二人で並んで歩き出した。
行き先は特にない。ただ、壊れた街を歩く。焦げた建物の前を通り過ぎ、割れたアスファルトを踏んで、どこかから漂ってくる食料の匂いに気付いて足を止める。
「避難所で炊き出しやってるって聞いた。」ほのかが言った。「行く?」
「……うん。」
「よかった。私、朝から何も食べてなくて。」ほのかは少し笑った。「澪は?」
澪は少し考えた。
いつ最後に食べたか、思い出せなかった。空腹かどうかも、よく分からなかった。以前なら、お腹が空けばすぐに分かったはずなのに。
「……食べてない。」とりあえず、そう答えた。
「じゃあ行こう。」ほのかが澪の袖を引っ張る。その感触は温かかった。
温かい——と、澪は思った。感じる。ちゃんと感じる。
でも——それだけだった。
以前なら、ほのかに触れられると何か別のものが込み上げてきた気がした。嬉しさとか、安心感とか。今はただ——温かい、という事実だけがあった。
澪はその違和感を、胸の奥へ押し込んだ。疲れているんだ。それだけだ。
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炊き出しの列は長かった。
避難民たちが黙って並んでいる。子供を抱えた母親。老人。怪我をした男性。誰もが疲れた顔をしていた。それでも——前へ進んでいた。
ほのかは列に並びながら、周囲をきょろきょろと見渡している。「なんか……みんな頑張ってるよね。」小さな声で言った。「こんなになっても、ちゃんと生きようとしてる。」
澪は答えなかった。
ほのかの言葉は正しい。でも——それを聞いて何かを感じるべきなのに、澪の中は静かなままだった。感動するべき場面だと、頭では分かる。でも胸に何も来なかった。
怒りはあった。こんな状況を作り出したマモンへの怒りが。でも——この人たちが必死に生きていることへの、胸が締め付けられるような感覚が——なかった。
おかしい。
また、その思いが浮かぶ。
でも言葉にできなかった。
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食事を受け取って、二人で瓦礫の端に腰を下ろした。
温かいご飯。味噌汁。それだけだったが、ほのかは「美味しい」と言って食べた。澪も口に運ぶ。味はした。温かさもした。でも——「美味しい」という言葉が出てこなかった。
「ねえ。」ほのかが箸を止めた。「最近、どう?」
「普通。」
「そっか。」ほのかはそれ以上聞かなかった。
少しの沈黙。ほのかがまた箸を動かす。澪も食べる。壊れた街の中で、二人で味噌汁を飲んでいる。それだけのことが、ひどく遠い話みたいな気がした。
「ねえ、澪。」ほのかが前を向いたまま言った。「何かあったら——言ってね。言えなくても、いるから。」
澪は何も言わなかった。
言えなかった。言える言葉がなかった。白炎のことも、感情が削れていくことも、昨夜の戦いのことも。全部、ほのかには関係のない話だ。関係させたくなかった。
「……うん。」
それだけ答えた。
ほのかは頷いた。それ以上何も言わなかった。ただ隣で、温かいご飯を食べ続けた。
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食事を終えて、しばらくそこに座っていた。
朝の光が、壊れた都市に差し込んでくる。ビルの残骸が影を作る。遠くで、誰かの声がする。生きている声だった。
ほのかが空を見上げた。「晴れてるね。」
「……うん。」
「こんな日は、なんか——大丈夫な気がするよね。」ほのかは小さく笑った。「根拠ないけど。」
大丈夫な気がする。
澪にはそう思えなかった。でも——ほのかがそう言うなら、そうなのかもしれないと思った。そう感じようとした。
感じようとして——感じられなかった。
右腕の白炎が、かすかに揺らめいた。静かに。穏やかに。
灰色の端だけが、朝の光の中で——昨日より、少し濃くなっていた。
澪は右腕をそっと袖で隠した。
ほのかには、見せなかった。




