第十一節 『親友』
「友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。」――箴言 第17章第17節
「隣にいることしかできない時、人は最も深く誰かを愛している。」――失楽の書 第1章第11節
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ほのかと過ごす時間は、静かだった。
戦いの音がない。レギオンの気配がない。白炎の声もない。ただ——壊れた街の中に、二人でいる。それだけの時間。
澪にとって、それは今や珍しいものになっていた。
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避難所は、体育館だった。
天井が高い。床に敷かれた段ボールの上で、人々が思い思いに過ごしている。子供が走り回り、老人が壁にもたれて眠り、若い男性が携帯電話の画面を見つめている。電波は不安定だが、それでも繋がれば外の世界が見える。
ほのかは澪を連れて、体育館の隅の柱に寄りかかった。「ここなら少し静かだよ。」
確かに、喧噪が遠くなる。澪は壁に背を預けた。体が重い。昨夜から休んでいなかった。
「澪さ、」ほのかが膝を抱えながら言った。「最近いつ寝た?」
「……昨日。少し。」
「何時間?」
「三時間くらい。」
「少なっ。」ほのかが顔をしかめる。「倒れるよ、それ。」
「大丈夫。」
「全然大丈夫じゃないと思うけど。」
ほのかはそれ以上責めなかった。ただ、隣に座った。肩が触れるくらいの距離で。その体温が、澪の腕に伝わってくる。
温かい。
温かい——それだけだった。
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しばらく、二人とも黙っていた。
体育館の向こうで、子供が転んで泣き出す。母親が駆け寄る。「大丈夫? 痛かった?」そういう声が聞こえてくる。
ほのかがそれを見て、小さく笑った。「子供って、転んでもすぐ立ち上がるよね。」
「……そうだね。」
「なんか——強いな、って思う。」ほのかは続ける。「私だったら、この状況で泣き続けてると思う。でもあの子、もう走り出してるし。」
澪はその子供を見た。確かにもう走っている。さっき転んだことなど忘れたように。
強い。ほのかはそう言った。
澪にはその感覚が——薄かった。見ている。分かっている。でも胸に何も来ない。怒りもない。嬉しさもない。ただ——事実として、子供が走っている。
おかしいな、とまた思う。
でも何がおかしいのか、まだ言葉にならない。
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「ねえ。」ほのかが澪の方を向いた。「昔の話していい?」
「……うん。」
「中学の時、澪ってめちゃくちゃよく泣いてたじゃん。」
澪は少し考えた。「……泣いてた?」
「泣いてた泣いてた。」ほのかは笑う。「映画見るたびに泣いて、本読んでも泣いて。私が転んで怪我した時も澪の方が泣いてて、それで私が逆に慰める側になったこととかあったじゃん。」
「……そんなことあったっけ。」
「あったあった。」ほのかの声が少し柔らかくなる。「なんか——そういう澪のこと、好きだったんだよね。ちゃんと感じてる感じがして。」
澪は答えなかった。
ちゃんと感じてる。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。今の自分は——ちゃんと感じているのか。怒りはある。怖さもある。でも——。
「最近さ。」ほのかが少しだけ声のトーンを落とした。「澪、泣いてないよね。」
澪の呼吸が、わずかに止まった。
「怒ったりはしてる。でも——泣かない。なんか、前と違う気がして。」
ほのかは続ける。「気のせいかな。でも——ちょっと、心配で。」
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澪は、何を答えればいいか分からなかった。
泣いていない。言われて初めて、意識した。確かに——いつから泣いていないだろう。昨日の戦いでも、その前の夜でも、傷ついた人を見ても、涙が出なかった。
でもそれは、なぜか。
怒りはある。怖さもある。なのに——泣けない。
「……疲れてるのかも。」澪はそう言った。「疲れると、泣けなくなる気がする。」
「そうなのかな。」ほのかは頷いたが、納得した顔ではなかった。「……うん。そうだよね、きっと。」
それ以上聞かなかった。
ほのかはそういう人だった。聞きたいことがあっても、相手が話したくなさそうなら押さない。ただ——隣にいる。それだけを続ける。
澪はそれを分かっていた。分かっていて——何も言えなかった。
言いたかった。でも言えなかった。何かがおかしい、という感覚を。泣けない、という事実を。白炎の端が灰色に染まっていることを。
全部、ほのかには言えなかった。
言ったら——ほのかがこの戦いに関わってしまう気がした。
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「ねえ、澪。」ほのかが不意に言った。「終わったらさ、ファミレス行こうよ。」
澪は顔を上げた。「ファミレス。」
「そう。いつもの。駅前の。」ほのかはにこっと笑う。「ドリンクバーで何時間も粘って、いろんな話して。そういうの、またしたい。」
澪はほのかの顔を見た。
いつもの笑顔だった。明るくて、少し騒がしくて、でも——どこか必死なような。まるでその言葉を口にすることで、「終わった後」が確かにあると信じようとしているみたいな。
「……うん。」澪は答えた。「行こう。」
嬉しい、と思った。
思ったのに——じんとしなかった。胸が、温かくなる感じがしなかった。以前なら、こういう時に目の奥が熱くなった気がした。泣きそうになった気がした。
今は——嬉しい、という事実だけがあった。
それだけだった。
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昼過ぎ、ほのかと別れた。
「また明日来るね。」ほのかが言った。「連絡もしてよ。」
「……うん。」
「約束だよ。」ほのかは澪の手を一度、ぎゅっと握った。「絶対。」
温かかった。
澪はその温もりを感じながら——やっぱり、それだけだった。
ほのかの後ろ姿が遠くなっていく。人混みの中に消えていく。その後ろ姿を、澪はしばらく見ていた。
泣いてないよね、とほのかは言った。
その言葉が、まだ耳に残っていた。
澪は右腕を見た。袖の下に隠れた白炎。灰色の端。昨日より、少し広がっているように見えた。
何かが削れている。
でも——何が削れているのか。
まだ、分からなかった。




