第十二節 『神崎玲央』
「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。」――コリント人への第二の手紙 第11章14-15節
『人が新しい神を選ぶ時、その神は必ず人の弱さを知っている。』――失楽の書 第一章第十二節
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翌日の昼過ぎだった。
避難区域の中心に設置された巨大スクリーンが、突然点灯した。
ノイズ。それから——画面が安定する。映し出されたのは、演台に立つ一人の男だった。
白金のスーツ。整った顔立ち。穏やかな、どこまでも穏やかな笑み。
《神崎玲央》
テロップがそう表示された。
《ユグドラシル・グループ代表取締役》
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澪はその場にいた。
炊き出しの列に並んでいた時、突然スクリーンが点灯して、周囲の人々が一斉に顔を上げた。ほのかも隣にいた。「なんだろう。」ほのかが呟く。
澪は黙っていた。
画面の中の男を見ていた。白金のスーツ。穏やかな笑み。
マモンだった。
読者と澪だけが知っている。あの男は、マモンだ。人類の欲望を組織化し、レギオンを育て、都市を欲望の器に変えようとしている強欲の悪魔が——今、復興支援の代表として演台に立っている。
澪の右腕が、かすかに熱を帯びた。
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「皆さん。」
神崎の声が、スクリーンから流れ出す。
低く、落ち着いた声だった。怒鳴らない。急かさない。ただ——静かに、確実に、言葉を届けるような声。
「今日も生きていてくれて、ありがとうございます。」
最初の一言で、周囲の空気が変わった。
澪には分かった。人々の肩から、何かが降りていくのが見えた。力が抜けていく。緊張が解れていく。
「皆さんは今、信じられないほど過酷な状況の中にいます。それでも諦めず、家族を守り、隣の人を気にかけながら、今日まで生き延びてくれた。」神崎は続ける。「私は——そのことを、誇りに思っています。」
誰かが、小さく泣き出した。
「大げさだ、と思わないでください。」神崎は微笑む。「生きることは、それほど尊いことです。どうか——自分を責めないでください。食料を求めることも、安全を求めることも、誰かに助けてほしいと思うことも——全て、当たり前のことです。あなたたちは何も悪くない。」
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ほのかが、澪の袖を引いた。
「ねえ。」小さな声で言う。「この人、良い人だね。」
澪は答えなかった。
「なんか——本当に心配してくれてる感じがする。」ほのかは画面を見上げながら続ける。「政治家とか、そういう人たちの言葉って、なんか遠い感じがするじゃん。でもこの人は違う。ちゃんと——届く気がする。」
届く。
ほのかの言葉が、澪の胸に引っかかった。
確かに届いていた。周囲の人々に。老人が涙を流していた。子供を抱えた母親が、唇を噛みながら画面を見ていた。男たちが、黙って頷いていた。
全員に、届いていた。
澪にだけ——届かなかった。
怒りがあるからだ、と澪は思った。あれはマモンだと知っているからだ。それだけのことだ。
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「ユグドラシル・グループは、本日より都市全域への支援を拡大します。」
神崎の言葉が続く。
「食料の配給量を三倍に増やします。医療チームを追加派遣します。避難区域を拡張し、より多くの方が安全な場所で過ごせるよう、全力を尽くします。」
具体的な数字。具体的な行動。
人々がざわめく。安堵の声、感謝の声、涙の声。
「これは——私からの約束です。」神崎は真っ直ぐに、カメラを見た。「皆さんを、見捨てません。」
ほのかが、小さく息を呑んだ。
澪の隣で、老人が膝をついた。「……ありがとう。」震える声で言った。「本当に、ありがとう……。」
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澪はその光景を、静かに見ていた。
怒りがあった。マモンへの怒りが。あの言葉が全て計算の上だという怒りが。人々の感謝が、レギオンの糧になっていくという怒りが。
でも——怒りだけだった。
人々が泣いていた。安堵して、感謝して、涙を流していた。その光景を見て——澪は何も感じなかった。胸が痛まなかった。悲しくなかった。
おかしい。
またその言葉が浮かぶ。人々が涙を流している。救われたと思って泣いている。でもその涙が、いずれ誰かに利用されるということを——澪だけが知っている。
それなのに、胸に何も来なかった。
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演説が終わった後、しばらくほのかと並んで立っていた。
周囲の人々はまだ、さっきの余韻の中にいた。誰かと話している。涙を拭いている。
ほのかが静かに言った。「澪、あの人のこと——どう思う?」
澪は少し考えた。
「……分からない。」
嘘をついた。本当は分かっていた。あれはマモンだ。全部計算だ。でも——それをほのかに言えなかった。言ったら、ほのかがこの戦いに近付く。
「そっか。」ほのかは頷いた。「私は——なんか、信じたいな、って思った。信じていいのかどうか分からないけど。でも信じたい、って。」
信じたい。
その言葉が、澪には眩しかった。
信じたいと思える。その感情が、今の澪には薄かった。怒りはある。でも——信じたいという温かさが、遠かった。
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その夜。
人々が眠りについた頃、澪は避難所の外へ出た。
月が出ていた。壊れた街の上に、普通の月があった。
「お疲れ様です。」
声が聞こえた。
マモンだった。
いつの間にか、すぐ隣に立っていた。黒いコート。穏やかな表情。昼間の神崎玲央とは——別人のように見えて、でも同じ目をしていた。
「今日の演説を見ていましたね。」
澪は答えなかった。
「人々は希望を持った。」マモンは静かに続ける。「希望を持つほど——人は前へ進もうとする。欲しいものを求める。生きたいと願う。」
「それが——あなたの糧になる。」澪は言った。
「ええ。」マモンは否定しなかった。「人々が希望を持つほど——私は満たされる。」
その言葉を、マモンは穏やかに言った。まるで当然のことのように。まるでそれが——美しいことであるかのように。
澪は怒りを覚えた。あの人々の涙を、あの老人の「ありがとう」を、全部計算に入れていたということへの怒りが。
「……最低だ。」
「そうでしょうか。」マモンは微笑んだ。「人々は本当に救われている。食料は届く。医療も届く。希望も届く。」
「でも——それは全部、あなたの計画のためでしょ。」
「目的と結果は、別のものですよ。」マモンは穏やかに言った。「人々が救われるという結果は、本物です。私の目的がどうであれ——あの老人の涙は、本物だった。」
澪は黙った。
否定できなかった。それが、一番苦しかった。
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マモンが空を見上げた。月を見ていた。
「あなたの白炎は、今日も育っていましたよ。」静かに言った。「人々を守りたいという気持ちが、炎を強くする。」
「……それも、あなたの計算の内?」
「ええ。」
あっさりと、答えた。
「あなたが強くなるほど——人々は救われる。そしてあなたが強くなるほど——白炎は育つ。」マモンは澪を見た。黄金の瞳が、静かに澪を映している。「素晴らしいことだと、私は思いますよ。」
読者には分かる。
あなたが強くなるほど——白炎は育つ。白炎が育つほど——何かが削れていく。それがマモンにとって何を意味するのか。澪には届かない。でも——読者には、届く。
「……帰って。」澪は言った。
「ええ。」マモンは頷いた。「また明日。」
その言葉を残して、夜の闇へ消えていった。
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澪は一人、月を見上げた。
ほのかが言っていた。「信じたい」と。あの老人が言っていた。「ありがとう」と。
全部、マモンの計算の中にある。
怒りがあった。でも——悲しくなかった。人々が利用されていると知っても、胸が痛まなかった。
おかしい。
またその言葉が浮かんで——また、消えた。
白炎の端が、月明かりの中で灰色に光っていた。




