第十三節 『ユグドラシルの根』
「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」――テモテへの第一の手紙 第6章第10節
「根が深いほど、木は高く伸びる。そして根が深いほど、引き抜くことができなくなる。」――失楽の書 第1章第13節
---
神崎玲央の演説から三日が経っていた。
都市は変わり始めていた。
---
変化は静かだった。
最初に変わったのは、食料だった。
配給所の前に並ぶ列が、以前より短くなった。ユグドラシルの大型トラックが、都市のあちこちへ食料を届け始めたからだ。米、パン、缶詰、粉ミルク。種類も量も、以前とは比べ物にならなかった。
次に変わったのは、医療だった。
ユグドラシルの医療チームが、避難所を一つずつ回り始めた。白いユニフォームを着た医師たちが、怪我の処置をして、薬を配って、話を聞いた。「大丈夫ですか」という言葉を、丁寧に、一人一人に向けた。
その次は、通信だった。
都市のあちこちに、ユグドラシルの通信設備が設置された。スマートフォンが繋がるようになった。家族と連絡が取れるようになった。「生きてる」という言葉が、都市の外へ届くようになった。
---
澪はその変化を、外から眺めていた。
良くなっている。客観的に見て、都市は良くなっていた。人々の顔から、少しずつ絶望の色が薄れていた。子供たちの笑い声が戻り始めていた。老人たちが日向ぼっこをする余裕が生まれていた。
実際に救われている人がいる。
その事実は本物だった。
でも——澪にはその構造が見えていた。
ユグドラシルが食料を届けるほど、人々は感謝する。感謝するほど、神崎玲央への信仰が深まる。信仰が深まるほど、欲望が組織化される。欲望が組織化されるほど——レギオンが育つ。
救済と搾取が、同じ形をしている。
だから——止める手段がなかった。
「あなたには止められませんよ。」
---
声が聞こえた。
澪は振り返る。マモンだった。
昼間なのに、その気配は夜みたいに静かだった。黒いコートが、風に揺れている。
「なぜなら——」マモンは壊れた街を見渡しながら続ける。「人々が救われているのは、本当のことだから。」
「分かってる。」澪は言った。「だから腹が立つ。」
「怒りは健全ですよ。」マモンは穏やかに微笑んだ。「感情がある証拠だ。」
その言葉が——なぜか、澪の胸に引っかかった。
感情がある証拠。
怒りはある。確かにある。でも——。
「人が満たされることを、私は望んでいる。」マモンは続けた。「飢えた人が食べられる。怪我した人が治療を受けられる。家族と連絡が取れる。それは——本当に良いことだと思っていますよ。」
「でもその裏で、レギオンを育ててる。」
「ええ。」マモンは否定しなかった。「人が満たされるほど、次の欲望が生まれる。それもまた、人間の本質だから。」
---
澪は黙って、配給を受け取る人々を見た。
列に並ぶ人々の顔は、三日前より穏やかだった。食料を受け取りながら、「ありがとうございます」と言っていた。その言葉は本物だった。感謝は本物だった。
でも——その感謝の先に、マモンがいる。
「あなたは。」澪は口を開いた。「人々を愛してるって言うけど——本当に?」
「本当ですよ。」マモンは即座に答えた。「人間の欲望は美しい。飢えるから手を伸ばす。失いたくないから守ろうとする。満たされたいから前へ進む。その全てが——私には愛おしい。」
澪は怒りを覚えた。その言葉が——嘘に聞こえないことへの怒りが。
「だから利用するの?」
「利用。」マモンは少しだけ考えるように間を置いた。「難しい言葉ですね。」
「難しくない。」
「そうですか。」マモンは穏やかに微笑んだ。「では——あなたは人々を守るために戦う。その戦いで白炎が育つ。白炎が育つことで、より多くの人を守れる。あなたにとって、人々は利用していますか?」
澪は答えられなかった。
---
マモンは続けた。
「私はユグドラシルを通じて都市を支える。人々は満たされ、感謝し、欲望を持つ。その欲望が私を強くする。」彼は澪を見た。黄金の瞳が、静かに澪を映している。「目的と過程と結果が、全て繋がっている。それを利用と呼ぶかどうかは——あなたが決めることですよ。」
澪は歯を食いしばった。
反論したかった。でも——言葉が出なかった。
マモンの言っていることは、論理的だった。正しいかどうかは別として——論理として成立していた。その論理の隙間に入り込んで、否定できなかった。
それが一番、苦しかった。
「……あなたは。」澪はようやく言葉を絞り出した。「結局、自分のためにやってるんでしょ。人々のためじゃない。」
「ええ。」
マモンはあっさりと頷いた。
「私のためでもあります。」穏やかに、当然のことのように言った。「ですが——それで救われる人がいる事実は変わらない。」
---
その日の夕方、ほのかと合流した。
ほのかは嬉しそうだった。「ねえ澪、聞いた? 明日から医療チームが第三避難所にも来るんだって。私のおばあちゃん、足が痛いって言ってたから、診てもらえるかもしれない。」
澪は頷いた。「……そうなんだ。」
「ユグドラシルって、本当にすごいよね。」ほのかは続ける。「なんか——悪いことばっかりが続いてたから、こうやって助けてもらえると、本当に嬉しくて。」
嬉しくて。
ほのかの目が、少し潤んでいた。泣きそうなのを堪えているような目だった。
澪はその目を見た。
泣きそうになっている。ほのかが、泣きそうになっている。
澪には——なかった。
ほのかのおばあちゃんが診てもらえるかもしれない。それは良いことだ。頭では分かる。嬉しいことだと思う。でも——目が潤む感じがしなかった。胸が温かくなる感じがしなかった。
おかしい。
またその言葉が浮かぶ。
「……よかったね。」澪は言った。
「うん。」ほのかは微笑んだ。「よかった。」
---
夜、一人になってから、澪は右腕を見た。
白炎の端の灰色が、また少し広がっていた。
何かが削れている。
怒りはある。苦しさもある。でも——悲しいという感覚だけが、薄い。ほのかが泣きそうになっていても、人々が感謝の涙を流していても、胸に何も来なかった。
何かが削れている。
でも——何が削れているのか。
まだ、分からなかった。
右腕を袖で隠した。月が出ていた。壊れた街の上に、普通の月があった。




