第十四節 『侵食』
「人の心は何よりも偽りに満ちている。それは癒やしがたい。誰がそれを知ることができようか。」――エレミヤ書 第17章第9節
「失われていくものは、最初は気付かれない。気付く頃には、もう遅い。」――失楽の書 第1章第14節
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白炎を使うたびに、何かが削れていく。
澪がそれをはっきりと意識したのは、ある夜の戦いの後だった。
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レギオンが現れたのは、日没直後だった。
第四避難所の近く。住宅街の廃墟の中から、黒い影が這い出してきた。一匹、また一匹。人々の不安と欲望に引き寄せられて、じわじわと数を増やしていく。
澪は走り出した。
右腕に白炎を灯す。以前より、灯すのが早くなっていた。意識する前に、炎が応える。まるで——白炎が澪の意志を先読みしているみたいに。
「行くよ。」
誰に言うでもなく、呟いた。
白炎が弾ける。純白の光が夜を切り裂く。レギオンが絶叫する。黒い影が、焼かれて散っていく。
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戦いは、三十分ほどで終わった。
レギオンは全て消えた。避難所の人々に、大きな怪我はなかった。
澪は瓦礫の上に座り込んだ。息を整える。右腕が重い。でも——痛みが遠い。使い続けた後の疲労感が、以前より薄かった。
おかしい、と思った。
白炎を使えば使うほど、消耗するはずだった。最初の頃はそうだった。でも今は——使うほど、むしろ慣れていく気がした。炎が馴染んでいく感じがした。
それは良いことのはずだった。制御しやすくなっている。暴走しにくくなっている。頭の奥の声も、以前より遠かった。
でも——それと同時に、何かが薄れていく感じがした。
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戦いの中で、一人の老人が怪我をしていた。
レギオンから逃げようとして転んだのだ。膝から血が出ていた。大した怪我ではない。でも老人は痛そうにしていた。
澪は手当てをした。持っていた包帯を巻いた。「大丈夫ですか」と聞いた。
老人は「ありがとう」と言った。涙を流しながら。
澪はその涙を見た。
何も感じなかった。
怒りもない。嬉しさもない。ただ——老人が泣いている、という事実だけがあった。「大丈夫ですよ」という言葉が出てきた。でもその言葉は、感情から来ていなかった。ただ——そう言うべき場面だから、出てきた言葉だった。
それが、怖かった。
いや——怖い、という感情すら、薄かった。
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避難所へ戻る途中、澪は立ち止まった。
街灯の残骸が、かろうじて光を放っていた。その光の下で、右腕を見る。白炎の端の灰色。また少し、広がっている気がした。
何かが削れている。
今日の戦いでも感じた。老人の涙を見ても、胸に何も来なかった。人々が助かったことへの安堵が——薄かった。怒りはあった。レギオンへの怒り、この状況への怒り。でも——安堵も、痛みも、胸が締め付けられる感覚も——なかった。
怒りはある。怖さもある。
でも——悲しいという感情だけが、ない。
澪は初めて、そこまで言語化した。
怒り——ある。怖さ——ある。嬉しさ——薄いが、ある。悲しさ——ない。
ない。
確かに、ない。
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翌日、ほのかと会った。
ほのかのおばあちゃんは、ユグドラシルの医療チームに診てもらえたらしかった。足の痛みは、軽い炎症だと分かった。薬を処方してもらって、少し楽になったという。
「よかった——!」
ほのかは、本当に嬉しそうだった。目を潤ませながら、澪に報告した。「本当によかった。ずっと心配してたから。」
澪は頷いた。「……よかったね。」
「うん。」ほのかは笑った。「ありがとう、澪。なんか、聞いてくれるだけで嬉しい。」
澪は、ほのかの顔を見た。
目が潤んでいる。嬉しくて、安心して、泣きそうになっている。
澪には——なかった。
ほのかのおばあちゃんが良くなった。それは良いことだ。頭では分かる。良かったと思う。でも——胸が温かくなる感じがしなかった。目の奥が熱くなる感じがしなかった。
泣けない。
ほのかが「最近泣いてないよね」と言っていた。そうだ。泣いていない。泣けない。悲しいという感覚が——ない。
「澪?」ほのかが澪の顔を覗き込む。「どうしたの?」
「……なんでもない。」澪は首を振った。「よかったね、本当に。」
ほのかは少しだけ、心配そうな顔をした。でも何も聞かなかった。ただ——「うん」と頷いた。
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その夜、マモンが現れた。
澪が一人で廃墟の端に座っていた時だった。気配もなく、ただそこにいた。
「今日の戦い、見ていましたよ。」マモンは静かに言った。「上手くなりましたね。」
「……そう。」
「白炎の制御が、最初の頃とは全然違う。」マモンは続ける。「力が育っている。」
澪は右腕を見た。灰色の端を。
「マモン。」澪は言った。「白炎は——何を喰らって育つの。」
マモンは少しだけ間を置いた。
「感情ですよ。」穏やかに答えた。「あなたが感情を持ち続ける限り、炎は育ち続ける。」
「感情。」澪は繰り返した。「どの感情?」
「さあ。」マモンは微笑んだ。「白炎が選ぶことですから、私には分かりません。」
嘘だ、と澪は思った。分かっているはずだ。でも——教える気がないなら、聞いても無駄だった。
「ただ。」マモンは続けた。「一つだけ言えることがある。」
澪は顔を上げた。
「白炎は、感情を餌に強さを増す。」マモンの黄金の瞳が、澪を見つめた。「あなたが感情を持ち続ける限り——炎は育ち続ける。そしてあなたが強くなるほど、人々は救われる。」
読者には分かる。
あなたが強くなるほど——何かが削れていく。白炎が育つほど——何かが失われていく。マモンはその「何か」を知っている。でも言わない。澪には届かない。でも——読者には、届く。
「……人々が救われるなら。」澪は言った。「強くなるしかない。」
「ええ。」マモンは頷いた。「その通りです。」
その穏やかな同意が——なぜか、一番怖かった。
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夜が深まっていく。
澪は一人、空を見上げていた。
悲しいという感情が、ない。
怒りはある。怖さもある。でも——悲しさだけが、ない。
それがなぜなのか、まだ分からなかった。白炎が喰らっているのか。それとも、自分が壊れていくのか。答えは出なかった。
ただ——灰色の端が、今日も少し広がっていた。
澪はそれを見つめた。見つめながら——悲しくなかった。
悲しくないことへの恐怖すら、薄かった。
それだけが——一番、おかしかった。




