第十五節 『欲望の祭典』
「民はすわって食べたり飲んだりし、立って遊び戯れた。」――コリント人への第一の手紙 第10章第7節
「祭りとは、欲望を肯定するための儀式である。」――失楽の書 第1章第15節
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復興集会の告知が出たのは、演説から五日後だった。
《ユグドラシル・グループ主催 都市復興祭典》
《神崎玲央代表、直接登壇》
《全ての市民へ、希望を届ける夜》
避難所の壁に貼られたポスターを、ほのかが食い入るように見ていた。
「行きたい。」ほのかが言った。「澪、一緒に行こうよ。」
澪は答えなかった。
「なんか——こういうの、久しぶりじゃん。お祭りっぽいやつ。みんなで集まって、楽しいことするの。」ほのかはポスターを見ながら続ける。「ずっと怖いことばっかりだったから——なんか、嬉しい。」
嬉しい。
ほのかの声が、本当に弾んでいた。
澪は怒りを覚えた。あれはマモンの仕掛けだ。人々を集めて、感謝と信仰を一点に集める。欲望を増幅させる。レギオンを育てる。そのための祭典だ。
でも——ほのかには言えなかった。
「……行こうか。」澪は言った。
ほのかが、ぱっと顔を輝かせた。「本当に?」
その顔を見て——澪は、何も感じなかった。
嬉しそうなほのかを見て、嬉しくなれなかった。悲しくもなかった。ただ——行かなければいけない、という判断だけがあった。
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祭典は、都市の中央広場で行われた。
かつては噴水があった広場だった。今は噴水が壊れて、瓦礫が片付けられて、ユグドラシルのロゴが入った照明が立ち並んでいた。その光が、夜の広場を昼のように照らしていた。
人が多かった。
澪が驚くほど、人が集まっていた。避難民だけではない。まだ都市に残っている一般市民たちも来ていた。家族連れ、老人、若者。皆、思い思いの服を着て、久しぶりの「普通の夜」を楽しもうとしていた。
ほのかが澪の腕を引いた。「すごい人だね。」
「……うん。」
「なんか——活気がある。久しぶりに見た気がする。」ほのかは周囲を見渡しながら言った。「みんな、生きてるんだな、って感じがして。」
澪は人々を見た。
笑顔があった。子供が走り回っていた。食べ物の屋台が出ていた。ユグドラシルが提供したらしかった。人々が列を作って、温かい食べ物を受け取っていた。
活気がある。ほのかはそう言った。
確かに、そう見えた。
でも澪には——その活気が、どこか違って見えた。人々の足元に、うっすらと黒い靄が滲んでいた。レギオンの気配が、広場全体に薄く漂っていた。人々が喜べば喜ぶほど、その靄が濃くなっていく。
欲望が、集まっている。
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ステージが設置されていた。
広場の奥に、大きなステージ。そこへ向かって、人々が自然と集まっていく。まるで引き寄せられるみたいに。
やがて照明が変わった。
ステージが明るく照らされる。大きな拍手が上がる。
神崎玲央が登場した。
白金のスーツ。穏やかな笑み。颯爽と歩く姿が、照明に照らされて輝いていた。
拍手が大きくなった。歓声が上がった。「神崎さん!」「ありがとうございます!」という声があちこちから聞こえた。
澪の右腕が、かすかに熱を帯びた。
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「皆さん、今夜は来てくださってありがとうございます。」
神崎の声が、広場全体に響いた。
マイクを通しているのに、その声は温かかった。機械的な感じがしなかった。まるで——一人一人に向かって、直接話しかけているみたいな声だった。
「この街は、今も傷ついています。でも——皆さんはここにいる。笑っている。食べている。隣の人と話している。」神崎は言葉を続ける。「それが——希望だと、私は思っています。」
ほのかが、隣で頷いた。
「欲しいと願ってください。」神崎は続けた。「もっと良い明日を。もっと安全な場所を。家族と一緒にいられる日々を。そう願うことは——罪じゃない。むしろ——その願いが、この街を前へ進める力になる。」
拍手が上がった。
「我慢しないでください。」神崎は微笑んだ。「あなたたちは十分、頑張ってきた。だから今夜くらいは——楽しんでいい。食べていい。笑っていい。それが——生きるということだから。」
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ほのかが、澪の袖を引いた。
「ねえ。」小さく、震えた声で言った。「なんか——泣きそう。」
澪は横を見た。
ほのかの目が、潤んでいた。唇を噛んでいた。泣くまいとしているのが、分かった。
「なんでだろう。」ほのかは続けた。「ちゃんと言葉にできないんだけど——なんか、許された気がして。頑張ってきたねって、言ってもらえた気がして。」
許された。
その言葉が、澪の胸に刺さった。
ほのかは許された気がしている。頑張ってきたねと言ってもらえた気がしている。その言葉を届けたのはマモンだ。全て計算の上だ。でも——ほのかには本物の言葉として届いている。
怒りが込み上げた。
あの言葉が嘘だという怒りが。ほのかを——こんなに温かい気持ちにさせながら、その感情を糧にしているという怒りが。
でも——悲しくなかった。
ほのかが泣きそうになっているのに。騙されているのに。それでも——胸が痛まなかった。
おかしい。
また、その言葉が浮かぶ。
「……うん。」澪はほのかに言った。「頑張ってきたよ、ほのかは。」
ほのかが、ぱちぱちと瞬きをした。涙をこらえながら、笑った。「澪が言うと、なんか——本当な気がする。」
その笑顔を見て——澪は、何も感じなかった。
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祭典が終わった後、ほのかと別れた。
「楽しかった。」ほのかは言った。「久しぶりに、楽しいって思えた。」
「……よかった。」
「澪は?」
「……うん。」澪は頷いた。「楽しかった。」
嘘だった。
楽しかった、という感覚はなかった。でも——そう言うべき場面だったから、そう言った。
ほのかは少しだけ、澪の顔を見た。何かを言いたそうな目だった。でも——また、何も聞かなかった。ただ「またね」と言って、人混みの中へ消えていった。
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人々が帰っていく。広場が静かになっていく。
澪は一人、ステージの跡を見ていた。照明が消えていく。ユグドラシルのスタッフが片付けを始めている。
さっきまで熱狂していた広場が、急速に普通の廃墟へ戻っていく。
「良い夜でしたね。」
マモンだった。
いつの間にか、隣に立っていた。神崎玲央の仮面は剥がれている。黒いコート。黄金の瞳。
「今夜、あなたは何人救いましたか?」マモンは穏やかに聞いた。
澪は答えなかった。
「レギオンは出なかった。人々は笑った。食べた。許された気になった。」マモンは続ける。「それは——良いことでしょう。」
「あなたの糧になった。」澪は言った。
「ええ。」マモンは頷いた。「人々が希望を持つほど——私は満たされる。今夜は特に。」
その言葉を、穏やかに言った。
まるで——収穫の報告をするみたいに。今夜集まった人々の感謝と信仰と欲望が、どれほどマモンを満たしたか。その報告を、澪に向けて、穏やかに語った。
読者には分かる。
あの老人の涙も。ほのかの「許された気がした」という言葉も。子供たちの笑顔も。全部——マモンの糧だった。
澪には怒りがあった。
でも——悲しくなかった。
人々が利用されていても。ほのかが騙されていても。胸が痛まなかった。
「……帰って。」澪は言った。
「ええ。」マモンは微笑んだ。「また明日。次の節が、近づいています。」
その言葉の意味を、澪はまだ理解していなかった。
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夜が深まっていく。
広場は静かになった。照明が全て消えた。月だけが、壊れた街を照らしていた。
白炎の端の灰色が——また少し、広がっていた。
澪は右腕を見た。見て——悲しくなかった。
ただ、そこにあった。




