第四節 『欲望都市』
「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか。」――マルコによる福音書 第8章第36節
「欲望は人を堕とす。 だが同時に人を生かしてもいた。」――失楽の書 第1章第4節
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白炎が揺らめく。笑うみたいに。
澪は息を止めた。掌の中の火が、自分のものではない気がする。まるで別の意思が宿っているみたいだった。
巨大な異形が咆哮する。無数の顔、無数の腕。人々の欲望を押し固めた黒い怪物が、天井を突き破ったその巨体で避難所全体へ影を落としていた。
「アアアアア――!」
怪物の腕が振り下ろされる。轟音とともに床が崩壊し、悲鳴が上がった。人々が瓦礫へ飲み込まれていく。
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澪は反射的に走り出した。
「危ない!」
崩れた柱の下で、少女が泣き叫んでいた。澪はとっさにその子を抱き寄せる。次の瞬間、瓦礫が落下した。
白炎が弾ける。轟、と。純白の炎が、落下する瓦礫を一瞬で焼き消した。
少女が目を見開く。「お姉ちゃん……。」
澪の右腕が熱い。助けたいと思うたびに、白炎がまた強くなっていく。
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マモンはその様子を静かに見つめていた。黄金の瞳に映る白炎を、どこか懐かしそうに眺めながら。
「素晴らしい。人を救いたい、誰も失いたくない——だから力を求める。それこそ、最も純粋な欲望だ。」
澪の瞳が揺れる。否定できなかった。
その時、避難所の外からさらに大きな悲鳴が響いた。マモンが視線を上げる。
「始まりましたか。」
澪も振り返る。そして絶句した。
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街中で、黒い異形たちが生まれていた。
交差点。地下鉄。高層ビル。ショッピングモール。人々の影から、次々に怪物が這い出してくる。欲望、嫉妬、不安、飢え——それら全てが、都市そのものを侵食していた。
大型モニターが点灯する。ノイズの向こうに、神崎玲央の顔が映し出された。白金のスーツ、穏やかな笑み。完璧な救世主の顔だった。
「皆さん、不安になる必要はありません。欲しいと思うことは、恥ではない。生き残りたいと願うのは、当たり前のことです。」
その声は、恐怖すら安心へ変えてしまいそうなほど優しかった。
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避難所の男が、小さく呟く。「……そうだよな。俺だって、生きなきゃいけない。」
彼の腕には、幼い娘がしがみついていた。食料は少ない。全員へ配れば、明日には尽きるかもしれない。男の額から汗が落ちる。
モニターの中で、神崎が微笑む。「我慢する必要はありません。あなたが満たされたいと願うことは、誰にも否定できない。」
その瞬間、男の瞳が揺れた。
「……悪くないよな。」
男はゆっくり立ち上がる。積み上がった支援物資、震える避難民たち、そして自分の娘。「この子を守るには、必要なんだ。」
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男が食料へ手を伸ばすと、別の避難民が叫んだ。
「やめろ! みんなの分だぞ!」
「じゃあお前が、この子を飢えさせるのか!」
怒鳴り声が飛び交う。その瞬間、空気が変わった。黒い靄が人々の影から滲み始め、欲望へ呼応するように怪物たちが生まれていく。
だが、誰も"操られている"ようには見えなかった。皆、自分の意思で動いている。自分の正義で、自分の大切なものを守るために。
だからこそ、澪は息を呑む。「違う……こんなの……。」
否定したい。でも否定できない。誰も、最初から悪人じゃない。
マモンが静かに笑う。「ほら。人間は、美しいでしょう?」
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街中で悲鳴が爆発した。銀行へ押し寄せる群衆、スーパーを破壊する人々、道路で殴り合う男たち。SNSには憎悪が溢れ、都市全体が巨大な欲望の坩堝へ変わっていく。
黒い異形たちは、その感情を喰らいながら膨れ上がっていった。「もっと。」「ほしい。」「たりない。」無数の囁きが街中を満たしていく。
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澪は震える。「なんで……こんなこと……。」
するとマモンは、本当に優しい声で答えた。
「人類を愛しているからですよ。私は、人間の欲望を否定しない。飢えを否定しない。もっと幸せになりたいという願いを、醜いとは思わない。」
澪の呼吸が止まる。
マモンは街を見下ろす。崩壊していく都市を、狂乱する人々を——まるで愛おしい子供を見るみたいに眺めながら。
「だから私は、人類が好きなんです。」
沈黙。その言葉だけは、嘘に聞こえなかった。だからこそ怖い。澪は理解してしまう。この悪魔は、本気で人類を愛している。
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その時だった。白炎が突然、激しく脈打つ。視界が白く染まり始める。まずい、また暴走する。
頭の奥で声が響いた。
「浄化せよ。都市ごと焼き払え。」
澪の顔から血の気が引いた。「やめ……。」
白炎が膨れ上がる。街全体へ向かって。まるで——欲望ごと人類を消し去ろうとするみたいに。




