第一節 『白炎の聖女』
「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。」――ルカによる福音書 第12章第49節
「その炎は、救済として天より与えられた。」――失楽の書 第1章第1節
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雨が降っていた。
夜の都市を冷たい雨が静かに濡らしている。
テレビ塔の光。
濡れたアスファルト。
赤色灯。
怒号。
街は数時間前から混乱していた。
原因不明の暴動。
地下鉄での集団失踪。
「黒い影を見た」という通報。
SNSではデマだと言われ、ニュースは「都市機能障害」としか報道していない。
けれど実際には…
もう世界は壊れ始めていた。
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朝の駅前は人で溢れていた。
スーツ姿の会社員。
眠そうな学生。
旅行客。
赤信号へ苛立つクラクション。
いつもの街。
いつもの朝。
大型モニターではニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げている。
『昨夜未明、都内各地で発生した集団暴動について――』
『警察は薬物使用の可能性も視野に――』
通り過ぎる人々はほとんど画面を見ていなかった。
誰もが、自分の日常の方が忙しい。
それが普通だった。
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「やばっ……!」
少女が人混みを縫って走る。
天城澪、十六歳。
遅刻寸前だった。
「絶対間に合わない……!」
肩で息をしながら改札を抜けようとした瞬間。
小さな泣き声が聞こえた。
澪は思わず立ち止まる。
駅の柱の陰。
幼い女の子がしゃがみ込んでいた。
迷子だ。
周囲の大人たちは誰も気付かない。
いや。
気付いていても急いで通り過ぎていく。
澪は一瞬だけホームの時計を見る。
遅刻確定。
でも。
「……どうしたの?」
結局、声を掛けてしまう。
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「ママがいないの…」
涙目の少女。
澪は困ったように笑った。
「大丈夫、一緒に探そっか」
その時。
ぞわ、と。
妙な寒気が背中を撫でた。
澪が顔を上げる。
駅の向こう側。
一瞬、人混みの中に黒い影が見えた気がした。
次の瞬間には消えている。
「……?」
疲れてるのかな。
澪は小さく首を振った。
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学校へ着いた頃には一時間目が始まっていた。
「天城…お前また遅刻かー?」
担任が呆れた声を出す。
教室が笑いに包まれた。
澪は「うぅ…すみません…」と頭を下げながら席へ向かう。
窓際の席。
そこへ親友の少女、鳴瀬ほのかが小声で囁く。
「また人助け?」
「…なんで分かるの」
「顔に書いてある」
にやにや笑う彼女へ、澪は苦笑した。
普通の教室。
普通の会話。
でもどこか、空気が落ち着かない。
教室の後ろでは、生徒たちがスマホを見ながら騒いでいる。
「見た?昨日の動画」
「黒い化け物映ってるやつ?」
「CGじゃね?」
「でも失踪事件、また増えてるって」
オカルト話みたいに笑い合っている。
誰も本気にしていない。
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昼休み。
澪は購買帰りの廊下を歩いていた。
窓の外ではヘリが飛んでいる。
妙に多い。
最近ずっとだ。
その時、前から歩いてきた男子生徒と肩がぶつかった。
「あ、ごめ――」
言いかけた瞬間。
男子生徒のスマホが床へ落ちる。
画面には株価チャート。
真っ赤な数字。
男は舌打ちした。
「クソ……また下がった……」
その目が、妙に血走っていた。
澪は少しだけ息を呑む。
男の足元。
黒い靄みたいなものが、一瞬だけ見えた。
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放課後、空はどんより曇っていた。
澪は商店街を歩いている。
母から頼まれた買い物袋を抱えながら。
夕暮れ時なのに人通りが少ない。
シャッターの閉まった店も増えていた。
ニュースの影響だろうか。
不安が街全体へ広がっている。
その時だった。
突然通りの向こうで悲鳴が上がる。
「きゃあああっ!」
人々が逃げ惑う。
ざわめき。
怒号。
そして。
黒い何かが、街灯の下で蠢いていた。
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それは、人間ではなかった。
無数の腕。
歪んだ顔。
溶け合った影。
まるで「欲望」そのものが形になったみたいな異形。
「ほしい」
「たりない」
「もっと」
無数の口が囁く。
その異形に触れられた男が突然叫び始めた。
「返せ!! 俺の金だ!!」
別の女が狂ったように商品棚へ飛び付く。
パニック。
地獄。
街の日常が、音を立てて崩れ始める。
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澪の呼吸が浅くなる。
逃げなきゃ。
そう思った。
でも。
瓦礫の下で小さな子供が泣いていた。
昼間、駅で助けた女の子くらいの年齢。
周囲の大人は自分が逃げるので必死だった。
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崩れた建物の下。
澪は泥だらけになりながら瓦礫へ手を伸ばしていた。
下敷きになった男の子が泣いている。
周囲では人々が逃げ惑っていた。
遠くから、何かの悲鳴が聞こえる。
警察も消防ももう機能していない。
「お姉ちゃん…」
「大丈夫、絶対助けるから」
澪は震える手でコンクリート片をどける。
怖かった。
本当は今すぐ逃げたかった。
でも……
見てしまった以上、置いていけなかった。
その時だった。
空気が変わる。
雨音が消えた。
澪がゆっくり顔を上げる。
道路の向こう。
周囲からさらに大量の異形が溢れ出す。
黒い群れ。
欲望の濁流。
そして無数の口が、同時に囁いた。
「――くれ」
「ほしい」
「おれのだ」
「ころしたい」
澪が男の子を庇うように背を向けた。
その瞬間。
閃光。
世界が白く染まった。
轟音。
次の瞬間、黒い群体が炎に包まれる。
悲鳴。
いや、それは人間の声ではなかった。
白い炎が異形を一瞬で焼き尽くしていく。
澪は呆然と顔を上げる。
空が…裂けていた。
暗雲の向こうから光が降り注ぐ。
そして。
その中心に、「天使」がいた。
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純白の翼。
燃える剣。
黄金の瞳。
人の形をしていながら人とは比較にならない圧倒的存在感。
彼女が地上へ降り立った瞬間空気が震えた。
異形たちが怯えるように後退する。
その天使は静かに剣を振るった。
白炎。
ただそれだけで影の怪物は消滅した。
雨すら蒸発するほどの熱。
なのに不思議と、澪には暖かく感じた。
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男の子が呟く。
「……天使、さま?」
その言葉に澪も息を呑む。
本当に…
神話の存在がそこにいた。
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天使はゆっくりと澪へ視線を向ける。
黄金の瞳。
感情が読めない。
まるで何かを測定しているような視線。
澪は身体が動かなかった。
怖い。
なのに目を逸らせない。
天使は静かに口を開く。
「生存確認」
「白炎適合率、基準値を突破」
意味が分からない。
澪が困惑している間にも、周囲では新たな異形が集まり始めていた。
黒い群れ。
無数の囁き。
「ほしい」
「ほしい」
「ほしい」
天使はそれを見ても動じない。
ただ、澪へ手を差し伸べた。
「名を告げよ」
澪の喉が震える。
「…天城、澪…です」
すると天使は頷いた。
「汝に使命を与える」
「世界を浄化せよ」
その瞬間。
白い炎が澪の胸へ流れ込んだ。
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熱い。
違う。
痛い。
身体の内側を炎が駆け巡る。
心臓が燃えているみたいだった。
「いや…!あつ、い…っ…」
澪は悲鳴を上げ、膝をつく。
でも。
その炎の奥に不思議な感覚があった。
優しい。
暖かい。
澪は涙を流していた。
誰かを抱き締めるような光。
白炎が、彼女を包み込む。
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雨が止む。
光の羽根が舞う。
澪の制服が、純白の衣装へ変わっていく。
腕に炎の紋様が刻まれる。
そして彼女の手の中へ、白い火が灯った。
小さな炎。
なのに…世界そのものを焼けそうな力。
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異形たちが一斉に襲い掛かる。
澪は恐怖で震える。
逃げたい。
泣きたい。
でも、後ろにはまだ守るべき人がいる。
だから彼女は…炎を握り締めた。
「来ないで!」
白炎が爆発する。
光。
熱。
そして黒い群体が、夜の中で焼き消えた。
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静寂。
雨雲が割れ、月光が差し込む。
人々が呆然と澪を見ていた。
誰かが震える声で言う。
「助かった……」
その瞬間。
澪の目から、涙が零れた。
生きている。
守れた。
その事実だけで、胸がいっぱいになる。
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白炎が、 澪の掌へ灯る。
新しい聖女の誕生。
人々は歓声を上げる。
救世主だと。
だがその光を遥か下層。
獄炎の底から、 静かに見つめる存在がいた。
そこは地獄だった。
黒い空。
灰の雪。
崩れ続ける巨大都市。
無数の亡者。
燃え続ける黒炎。
そして世界の中心に巨大な玉座。
玉座へ座る男がいる。
黒く焼けた六枚の翼。
夜闇のような暗い長髪。
燃え尽きた星のような黄金の瞳。
その背後では六つの玉座が静かに並んでいる。
まだ空席もある。
まるで、 いずれ訪れる災厄を待つみたいに。
男は地上に生まれた白炎を見つめる。
その光は かつて自分が持っていた炎と同じだった。
沈黙。
そして彼はどこか疲れたように目を閉じる。
「…また始めるのか」
誰へ向けた言葉なのかもう彼自身にも分からない。
神へ。
世界へ。
あるいはかつて白炎を持っていた、 自分自身へ。
その瞬間。
地獄の空で黒い炎が揺らめく。
まるで新たな終末を歓迎するように。




