#17. 伝えなければならないこと。
反射的に白い何かを受け止めたまではいいが、状況がうまく呑み込めなかった。この男は誰だ? いったいどこから……。
(まさか?)
エルナの視線が、白い男の向こう側にあるベッドへと向かった。あまりにも当然のようにもぬけの殻となっているベッド。ならばこの男は……。
(さっきの狐じゃないっ?! 一体なぜ獣人の姿に戻っているの? いや、獣人の姿であってる? なんか変だけど)
極度の混乱で頭がくらくらした。その瞬間だった。
「お嬢さん? 悲鳴が聞こえたけど大丈夫か?」
(あっ!)
エルナの悲鳴を聞きつけたホリが、テントのすぐそばまで来ているのが感じられた。ホリの気配に、エルナの背筋を冷たい汗が伝い落ちた。
獣刑に処された獣人は「人間としての権利」を剥奪された存在ゆえ、絶対に獣人の姿に戻ってはならない。
戻ること自体が重罪であり、獣人の姿に戻ったところを他の獣人に見つかった瞬間、その獣人には罪人を「処刑しなければならない」義務が生じる。
ホリはエルナに対して非常に好意的だが、罪人を庇う義理などないし、罪人を庇うこと自体が重罪だ。
(この男をホリの手で死なせるわけにはいかない)
彼が気絶する直前、はっきりとザハードの名を呼んでいた。
なぜザハードの名前を呼んだのか、彼とどういう関係なのか、エルナは知らなければならない。
そのためには……。
「何でもないわ! 裾が引っかかって収納棚が倒れちゃったの。下着とかが散らかってるから、中に入らないでちょうだい!!!」
「お、おう?! あ、わかった! 入らないから安心してくれ!」
「ごめんなさい! すぐ終わるから、もう少し待っててね」
ホリの気配が遠ざかるのを確認したエルナは、すぐに男を抱き起こした。
受け止めたときから違和感は覚えていたが、こうして見ると確かに違和感を覚えるのも無理はない。
(獣人って凄まじいとは聞いていたけれど……本当だったの?)
抱き起こした男は耳と尻尾こそ獣のものだったが、それ以外は人間のものと酷似した外見をしていた。
それは獣人たちの姿の一つであり、力の弱い獣人ほど人間に似た姿をしていると聞いたことがある。
だからこそ獣人たちにとって人族は蔑みの対象であり、逆に獣に似た外見をした獣人を人間たちが軽蔑するのだと――。
(ゼニュードから聞いてはいたけれど、本当に美しいわね。こんなに美しい人を見るのは久しぶりだわ)
透明なほど白い肌と長い睫毛。小さな顔にバランスよく配置されたパーツは、美しい容姿に見慣れているエルナですら一瞬息を忘れるほどだった。
放浪が長かったのか体はひどく痩せ細っていたが、残された細かな筋肉から、かつてはかなり引き締まった体をしていたことが推測される。
血行不良で青白く衰弱しているにもかかわらず、この容姿とは……。
(いや、こんなこと考えている場合じゃないわ。エルナ、まずはこの状況を何とかしなきゃ)
エルナはテントの入り口を一瞥してから魔法の障壁を張り、テント内に防音魔法を施した。
どれほど耳の良い獣人であっても絶対に聞き取れないよう、何重にも魔法を重ねがけする。
(次は……この獣人を狐の姿に戻さなきゃ)
あいにく、獣人たちの外見を他人の魔法で元に戻すことは不可能だ。
つまり、彼が目を覚まさない限り狐の姿に戻ることはできないというわけだ。
「無理やり覚醒させるしかないかしら」
エルナは常備薬の入ったバッグから覚醒剤を取り出した。
この覚醒剤はどれほど瀕死の状態の人間であっても確実に目を覚まさせる薬であり、持続時間は長くないものの副作用がないため、医療業界で主に使われている薬だ。
エルナは迷うことなく覚醒剤を口に含んだ。そして狐の唇に自分の唇を重ねた。
零れ落ちた薬が彼の唇伝いに伝っていった。エルナは非常に手慣れた様子で、覚醒剤を狐の口の中へと流し込んだ。
一度、二度。三度。
気道を塞がないよう数回に分けて覚醒剤を流し込むと、ほどなくして固く閉ざされていたまぶたがふるふると震えた。
透明なほど美しい赤い瞳にエルナの姿が映り込んだ。
「あなたは……」
「気がついた? 悪いけれど外に獣人がいるの。狐の姿に戻ってくれるかしら?」
エルナの答えに狐の目が見開かれた。彼は何かをためらうような表情を浮かべると、エルナの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「見ず知らずの私を、信用できないとお思いでしょう。しかし私は……あなたに、お伝えしなければならないことがあります。お願いです。私を獣人たちに……引き渡さないでください」
震える声から、頼る者のいない者の切なさが感じられた。切なげな彼の表情に、エルナは大丈夫だと言い聞かせるように彼の手をしっかりと握り締めた。
「安心して。私は絶対にあなたを見捨てたり、誰かに渡したりしないわ」
「私を……信じてくださるのですか?」
「もちろんよ。ザハードの知り合いなら、私は無条件であなたを信用するわ。だからあなたも私を信じてくれるかしら?」
エルナの言葉に、狐の赤い瞳に透明な涙が溜まった。エルナの手を握り返した狐が、祈るようにエルナの手におでこを寄せた。
「あなたを信じます。人間の御方。どうか……再び目を開けたとき、あなたにお会いできますように」
瞬く間に狐の姿へと戻った彼の姿に、エルナはまだ目元に残っている湿り気を拭いながら言った。
「心配しないで。あなたからザハードの話をすべて聞き出すまでは、絶対に手放したりしないから」
一刻も早く村へ行かなければならない理由ができた。狐を抱いたエルナは、すぐにベッドを片付けてテントの外へと歩みを進めた。
「お待たせしてごめんなさい、ホリ。だいぶ待たせちゃった?」
「いや、いいさ。それにしても服は大丈夫だったのか? 収納棚に引っかかったって言ってたけど」
「問題ないわ。心配してくれてありがとう。じゃあすぐに出発しましょうか?」
「道が険しいからさ。お嬢さんは荷物が一つ増えたんだし、他の荷物は俺が持ってやるよ」
「あら。じゃあご好意に甘えさせてもらうわね。ありがとう」
高級な収納バッグだからそこまで重くはなかったが、一日も早く村に行きたい気持ちから躊躇なくバッグを手渡し、エルナは言った。
「身体強化魔法をかけておくから、私のことは気にせず本来のペースで走っていいわよ」
「大丈夫か? 強化魔法って魔力をめちゃくちゃ消耗するんだろ?」
ホリの言葉にエルナは口角を持ち上げた。ホリは二度聞き返すこともなく、村へ向かって駆け出した。
エルナは遅れをとることもなく、ホリの後を追って走り出した。




