2. 馬車が逃げてしまいました
〈本日の栞〉 麦の月五日 侍女マルテ記 九項目
一、十時 出立 二、十時半 中央広場にて合流 三、十一時 麦の市を拝見
四、正午 昼餐 五、一時 菓子屋 六、二時 花市
七、三時 ご退出 八、四時 帰邸 九、五時 お父様へご報告
三日たっても、脇腹はまだ少し痛い。
わたくしはそれが嬉しくて、朝からずっと脇腹を押さえている。マルテには「お加減が」と三度心配され、三度とも「元気です」とお答えしている。
痛いところがあるというのは、何かをした証である。十九年、わたくしの体には証がひとつもなかった。
麦の市は、王都でいちばん賑やかな市である。
「エルナ嬢」
「公爵様!」
本日も鞄をさげていらっしゃる。大きい。重そうである。
「その鞄には、何が入っておりますの?」
彼が少し困った顔をなさった。ゲルトが横から帳面を開く。
「麻縄三十歩ぶん、添木二本、笛、油紙、火口と火打ち、晒四巻、香油、小さな鋸、砂の袋、替えの靴紐。以上、十品でございます」
「十品!」
「それに銀貨が二十枚。これは、人を雇うためのものでございます。合わせて十一品」
「人を、雇う」
「片づけに、人手が要りますので」
ゲルトの言い方があまりに当たり前だったので、わたくしは口を閉じる。
この方々は、片づけを予定に入れて出かけていらっしゃる。行った先で何かが壊れることを、朝の支度のうちに数えてある。そういう出かけ方を、わたくしは知らなかった。
「本日の想定は、十七通りでございます」
「十七!」
「お嬢様。そこは驚くところではございません」
「では、どこで驚けばよろしいの?」
「……驚かずにお済みになるのが、いちばんでございます」
市は、匂いでできている。
焼けた麦。干した果物。油。人。荷車の車輪が石畳を鳴らし、鶏が籠の中で騒ぎ、どこかで銀貨のぶつかる音がする。声が上から降ってきて、下から湧いてくる。
杏の砂糖漬けを並べた屋台の前で、わたくしは立ち止まった。
小さな硝子の瓶が、日を透かして琥珀色に光っている。
「あら……おいしそう」
「買いましょうか?」
「あとで! まだ二軒しか見ておりません」
通りの端に、荷馬車が停めてある。轅が不自然にたわんでいた。それから、屋台の天幕の杭が浅く、片側が浮いている。
と、思った次には、乾いた音がした。
轅が折れる。
積んであった麦の袋が、坂を転がるように崩れていく。馬が首を振り上げ、繋ぎの革を引きちぎって、馬車が走り出した。
「ひぃぃぃ!」「大変だーー!」「逃げろぉぉ!」「馬車が!」
馬車は市を突っ切り、浮いていた天幕の綱を引っかけていく。天幕が一枚、また一枚と倒れ、干した果物が宙を舞い、鍋がひっくり返り、鶏が三羽ほど大脱走をなさる。
人が悲鳴を上げた。誰かが「不運公だ」と言うのが聞こえる。
公爵様は、走っていらした。
いちばん近くにいた老婆を抱えて脇へ寄せ、次に子どもを二人まとめて抱え、それから倒れた天幕の下へ潜り込む。一度も止まらない。まるで、この順番を前から知っていたような動きである。
わたくしも走る。二度目である。
「公爵様! どちらですか!」
「こちらです。頭をお下げになって」
天幕の下は薄暗く、埃と麦の匂いがした。布ごしの光が黄色くて、潰れた屋台の主人が、腰を抜かして座り込んでいる。
「お怪我は」
「ね、ねえです。ねえですが、うちの品が」
公爵様が鞄から銀貨を出し、通りの若い衆へ声をかける。
「片づけに人手を貸してほしい。日当は出す」
わたくしは麻縄を受け取り、天幕の杭を打ち直しにかかった。
縄は思ったより太くて、掌に食い込む。杭は、木槌で叩くと乾いた音を返す。二本目で要領が分かり、三本目で少し楽しくなった。手が真っ黒になる。爪の際に土が入って、たぶんこれは今日じゅうには落ちない。
マルテが悲鳴を上げていらっしゃる。
「お嬢様、お手が!」
「マルテ、そちらの端をお願いいたします」
「お嬢様!?」
結局、市が元に戻るまで三時間かかった。栞の項目は、一つも残っていない。騒動で乗ってきた馬車まで逃げてしまっていて、わたくしたちは歩いて帰ることになる。
◇
帰り道は、祭りのようである。
助けた老婆が林檎をくださり、若い衆が荷車で送ろうとしてくださり、鶏を捕まえた子どもたちが後ろをついてくる。マルテは林檎を三つ抱えて怒っていた。
「わたくし、侍女でございます。荷運びではございません」
「マルテ、それ、おいしそうですね?」
「差し上げません」
わたくしは笑う。脇腹がまた痛む。
「エルナ嬢」
「はい」
「……申し訳ない。九項目、ひとつも」
「最高です! 次は、どこへ行きましょう?」
彼が、林檎を持ったまま止まる。
「ゲルト」わたくしは尋ねた。「公爵様のまわりでは、どうして、あんなに物が壊れますの?」
ゲルトは少し歩いてから、こう答える。
「三つございます。ひとつ、腕のいい職人は、旦那様のお仕事をお受けになりません。〈不運公〉の現場で事故を出せば、名に傷がつきますので。お受けになるのは、安くて雑な者だけでございます」
「まあ」
「ただし、それはお屋敷の中の話でございます。本日の荷馬車も、あの天幕も、旦那様とはなんの関わりもございません。あの亀裂は、去年からあったものでございましょう」
「では、なぜでございましょう?」
「ふたつ、旦那様がいらっしゃると、人が慌てます。慌てた人は、手を滑らせ、綱を放し、馬を驚かせます。一段目の事故より、二段目のほうが、いつも大きゅうございます」
わたくしはうなずく。
たしかに、轅は勝手に折れた。折れただけなら、荷を積み直して終わりである。馬が逃げたのは、崩れた荷に人が悲鳴を上げたからだ。
「みっつ」
ゲルトが、前を向いたまま言う。
「壊れた日だけが、数えられます。何も起きなかった日を、誰も数えません」
わたくしは、足を止める。
夕方の光が、通りの端を赤くしている。林檎の匂いがする。喉の奥が、ふいに狭くなった。
その数え方を、わたくしは知っている。
二百三十一回。晴れた日だけが数えられて、そうでない日は――。
「お嬢様?」
「……いいえ」
前を歩く公爵様の背中を見る。
鞄が、歩くたびに腰の横で揺れている。あれは片づけのための鞄なのだ。壊れたあとに、まだそこに居るための道具ばかりが入っている。
逃げるための鞄ではない。
「公爵様」
彼が振り向いた。
「では、何も起きなかった日は、わたくしが数えます」




