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3. 緞帳が落ちてまいりました

 〈本日の栞〉 麦の月八日 侍女マルテ記 七項目


 一、六時 出立  二、七時 王都座 着  三、七時半 開演


 四、九時 幕間にて果実水(かじつすい)  五、十時 終演


 六、十時半 帰邸  七、十一時 お父様へご報告


 王都座は、王都でいちばん古い芝居小屋である。


 わたくしは十九年で二度、ここへ連れて来られている。二度とも、席に座って、微笑んで、幕が下りたら帰った。何を観たかは、覚えていない。


 覚えていないのは、観ていなかったからである。あのころのわたくしは、舞台ではなく、自分がどう見えているかを見ていた。


 本日は、三度目になる。


「エルナ嬢。お足元に段が」


「はい!」


「その、あまり急がれると」


「急いでおりません。弾んでおります」


 彼が半歩、こちらへ寄った。


「弾むと、段でつまずきます」


「では、ゆっくり弾みます」


 彼が黙る。マルテが袖を引く。


 桟敷から見上げると、緞帳(どんちょう)を吊る滑車(かっしゃ)が見える。溝が、片側だけ白く()り減っていた。


「公爵様。あちらの滑車、溝が減っておりますね」


「……よくお気づきに」


「わたくし、最近、そういうところばかり見てしまいます」


 彼が小さく笑った。笑うと、灰の目が少しやわらかくなる。


「本日の想定は、十一通りでございます」


「ゲルトさん。三日前より減っておりますね?」


「屋内でございますので」


「屋内は、安全ですの?」


「屋根が、ございますので」


 その屋根の縁を、わたくしは目でたどった。


 桟敷の上に、(とい)の口が三つ並んでいる。まん中の一つだけ、落ち葉が黒くつまって、縁から水がしみ出していた。外はもう降りはじめている。


「あちらの樋、詰まっておりますね」


「……エルナ嬢」


「はい」


「あなたは、この芝居小屋で、いったい何をご覧になっているのですか?」


 開演の鐘が鳴る。


 灯りが落ちて、(ろう)の匂いが濃くなった。役者が出てくる。台詞が始まる。人いきれと、木の床の軋みと、隣のご婦人の扇の音。


 わたくしは初めて、芝居を面白いと思った。


 筋は他愛のない喜劇である。取り違えと、勘違いと、駆け落ちの失敗。それなのに、客席が笑うたびに床が細かく震えて、その震えが足の裏から上がってくる。自分が笑うと、その震えの一部になれる。


 二幕目の途中で、滑車が鳴く。


「あ」


 緞帳が落ちた。


「きゃぁぁぁ!」「うわぁぁぁぁ!」「ひぃぃぃぃ!」


 役者ごと、である。舞台の上に紅い布が(やま)のようにかぶさり、中で人が三人ほどもがいている。客席が笑い、それから笑いやんだ。立ち上がった客の重みで、古い桟敷が長く軋んだからである。


 そして、天井から水が落ちてくる。


「雨漏りだ!」


(とい)が詰まってやがる!」


 外は夕立である。さきほどの樋が、屋根の水をそっくり桟敷へ回していた。


 公爵様が鞄を開ける。


「油紙を。上座のご婦人方の頭上へ」


「はい!」


 わたくしは油紙を抱えて桟敷を走った。三度目である。もう息は上がらない。


 それから彼は笛を吹く。短く二回、長く一回。人の声より、笛のほうが通る。


「落ち着いて、右手の戸口から順に!」


「マルテ、そちらのご婦人を!」


「お嬢様、わたくし、油紙を三枚持っております!」


「三枚! 足りますね!」


 客が動き出した。わたくしは油紙の端を持ち上げて、ご婦人方の髪を守る。


 誰も怪我をしなかった。ただ、本日は休演である。


       ◇


 通りへ出ると、雨はもう上がっている。


 濡れた石畳が、街灯を長く映していた。客たちが帰りかね、役者たちが濡れた衣装のまま出てきて、座長が頭を抱えている。


「エルナ嬢。……申し訳ない」


「なにがでしょう?」


「七項目、ひとつも残りませんでした」


 わたくしは役者たちを見て、それから、積んである樽の山を見る。


「では、外でやりましょう!」


 わたくしは、そう申し上げた。


 全員がこちらを見る。マルテが「お嬢様」と小さく叫ぶ。


「幕は落ちましたが、お話は落ちておりません。皆様、続きをご存じないままお帰りになるのですか?」


 座長が口を開け、それから、笑い出した。


「よし、やるぞ! 樽を持ってこい!」


「公爵様、樽をお願いいたします!」


「……わたしが、でございますか?」


「いちばん力がおありです!」


 わたくしは濡れた石畳を走って、樽のところまで行った。四度目である。


 数えているのは、たぶん、わたくしだけだ。


 樽が舞台になる。街灯が照明である。役者が三人足りなかったので、通りの若い衆が二人と――なぜか、わたくしが一人。


「侍女役でございます。台詞は三つ」


「三つ! できます!」


「お嬢様、おやめくださいませ!」


「マルテ、三つですのよ。三つ」


 できなかった。


 一つ目で噛み、二つ目で声が裏返り、三つ目は完全に飛んだ。


 通りじゅうが笑う。役者が笑い、客が笑い、マルテが顔を覆い、鶏を抱えた子どもまで笑っている。


 笑われている――。


 わたくしは、樽の上で立ち尽くしていた。


 十九年、わたくしは一度も笑われたことがない。うまくできない自分を、人前に出したことがなかったからである。


 顔が熱い。耳まで熱い。息が浅い。指先だけが、なぜか冷たい。


 これは恥というものだと思う。恥は、こんなに体の中を勝手に走り回るものなのか。


 それなのに。


 この笑い声は、わたくしを刺していない。


「もう一度!」


 わたくしは叫んだ。


「もう一度、やらせてくださいませ!」


 笑い声が、拍手に変わっていく。


 二度目も噛んだ。三度目でようやく言える。言えたときの、通りじゅうの声。石畳に響いて、街灯の下で膨らんで、わたくしの胸のところまで押し寄せてくる。わたくしは樽の上で、両手を握りしめていた。


 桟敷の柱にもたれて、公爵様がこちらを見ていらっしゃる。


 目が合う。彼は何も言わず、ただ、うなずく。


「最高です!」わたくしは樽から手を伸ばす。「公爵様、次は、どこへ行きましょう?」


 そこへ、座長が上機嫌でやってきた。


「いやあ、お嬢さん、助かったよ。あんた、運がいいねえ」


 わたくしの手が、伸ばしたまま止まる。


 通りの笑い声が、急に遠くなった。


 喉の奥が、また狭くなる。何か申し上げなければと思うのに、頬が動かない。ずっと動かしてきたはずの、この頬が。


 運が、いい。


 二百三十一回、言われてきた言葉である。言われるたびに、わたくしは微笑んできた。微笑む以外に、何をすればいいのか教わっていない。


 柱のほうで、灰の目が、わたくしを見ていた。

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