1. 生垣まで、ごいっしょに
わたくしの十九年は、栞でできている。
〈本日の栞〉 麦の月二日 侍女マルテ記 十二項目
一、八時半 出立 二、十時 ロートフェルス公爵邸 着 三、十時十五分 ご挨拶
四、十時半 東屋にて茶菓 五、十一時 庭園を拝見 六、十一時半 ご歓談
:
:
朝に一枚。侍女のマルテが、寝床の脇の小卓できれいな字をしたためて、それを帯へ挟んでくださる。八時半に出立、十時に到着、十時十五分にご挨拶。そのとおりに座り、そのとおりに微笑み、そのとおりに帰ってくる。
紙は手のひらほどの大きさで、栞のように薄い。指で触れると、今日はあと何項目、と分かる。分かると、安心する。
十九年で、二百三十一回。
進水式、棟上げ、船出、契約の席。〈晴れ女〉のエルナお嬢様がいらっしゃれば、その日は晴れる。だからわたくしは連れて行かれ、座らされ、「本日は、よき日にございます」と申し上げる。
走ったことは、ございません。
転んで傷がつくと縁起が悪いのだと、お母様がおっしゃっていた。廊下を小走りしただけで、乳母の顔色が変わる家である。だからわたくしの足は、十九年ぶんの歩幅しか知らない。
本日の栞は、十二項目――。
「お嬢様。本当に、よろしいのですか?」
向かいでマルテが小さくなっている。膝の上で両手を握って、ときどき窓の外を見ては、また膝へ戻す。
「何がでしょう?」
「その……〈不運公〉と申しますと」
「三度、婚約が流れたお方ですね」
「三度でございます。三度とも、お式の前に」
マルテの声が半分に落ちる。
「お嬢様が、四人目でございます」
「では、四人目のご挨拶に参りましょう」
「お嬢様!」
「マルテ。数え方まで、もう決まっておりますのよ。四人目、と」
マルテが泣きそうな顔をなさる。
「お嬢様は、こわくないのですか?」
「こわい? なにが?」
「その……お屋根が落ちてくると、もっぱらの噂で」
「まあ。落ちてまいりますの?」
「落ちるそうでございます」
わたくしは膝の上の栞を見た。
四人目。誰かが三度数えて、四度目にわたくしの名を書いたのである。父は数えるのが上手な人だ。船の本数も、樽の数も、娘が座った式の数も。
窓の外は、麦の匂いがする。青い匂いだ。初夏の風に乗って、麦畑ぜんたいが息をしているような匂いが、馬車の中まで入ってくる。
馬車で四十分。丘の上に、ロートフェルス公爵邸がある。
◇
東屋は白い。
柱が四本、蔦の絡んだ屋根。天井から硝子の飾りが吊るしてあり、朝の光を細かく割っている。床に落ちた光の粒が、風のたびにちらちらと場所を変えた。
きれい、と思って見上げる。
飾りを吊っている鎖の付け根が、白い粉を吹いていた。緑青である。青銅がそうなるのを、わたくしは港の錨で見たことがある。
「あら。あそこ、緑青が」
「お嬢様、はしたのうございます」
「マルテ、ご覧になって。粉が吹いております」
「見ません」
噴水も見る。石の継ぎ目から水がうっすら滲んで、下の敷石を黒く濡らしている。
きれいなお庭である。
そのとき、砂利を踏む音がした。
「バルテル嬢」
振り向く。
背の高い方が立っていらして、こちらを見て、なぜか一歩下がる。栗色の髪に、灰の目。目尻に、笑ったことのなさそうな硬さがある。
そして、大きな革の鞄をさげている。
朝の顔合わせに鞄をさげてくる方を、わたくしは初めて見た。しかも重そうである。持ち手のところの革が、白くなるほど使い込んであった。
「フェリクス・フォン・ロートフェルスと申します」
「エルナ・フォン・バルテルでございます」
「先に申し上げます。わたしの婚約は、三度流れております」
「存じております」
彼が鞄を持ち直す。
「四度目も、おそらく流れます」
「まだ何も起きておりませんが?」
彼が黙った。灰の目が、少しだけ丸くなる。
面白い方だ、と思った。断られ慣れた人の顔だったからである。断られ慣れた人は、こちらが逃げないと、こういう顔をする。
うしろで初老の方が咳払いをなさる。
「旦那様。ご挨拶の前に、本日の想定を申し上げてよろしゅうございますか?」
「ゲルト。今日はいい」
「かしこまりました。では、あとで」
「あとで、と申しますと?」
「外れた数を数えておきますので、それを申し上げます」
この方とも、気が合いそうである。
「バルテル嬢」
「はい」
「……本日は、よく晴れておりますね」
「はい。よく晴れております」
言ってから、二人とも黙った。天気の話しか出てこない顔合わせである。
卓へ茶が運ばれ、杯が満たされる。硝子の縁で光が跳ねる。父に言えと言われた言葉を、わたくしは口の中で並べていた。本日は、よき日に――。
「では」
杯を持ち上げる、その音の上に、軋む音がかぶさる。
上だ。
白い粉を吹いた鎖が、ゆっくりほどけていく。ほどけるところが、はっきり見えた。時間が伸びたのだと思う。硝子の飾りが、光をこぼしながら傾いていく。
考えるより先に、腕を取られた。
「失礼!」
抱えられて、地面が飛ぶ。
背中で硝子が砕けた。卓が傾く。匙が飛び、スープが白い布の上を滑って、滝のように落ちていく。逃げようとした足の下で、床板が――抜けた。
わたくしは、走っている。
生まれて初めてである。
足が地を叩く。踵から膝へ、膝から腰へ、衝撃が順番に上がってくる。息が喉で鳴る。脇腹が痛い。走るというのは、こんなに痛いものなのか。
それなのに、誰も止めない。
誰も「お傷がつきます」とおっしゃらない。乳母もいない。母もいない。止める人がいない場所に、わたくしは十九年ぶりに立っている。
目の前に、生垣が来る。
「右へよけて!」
「無理でございます!」
二人そろって、緑の中へ突っ込んだ。
葉の匂いと、土の匂い。蜘蛛の巣が頬へ張りつく。細い枝が肩を撫でて、どこかで布の裂ける音がした。
転がった拍子に噴水の縁石が押されて、ごと、と鈍い音がする。
継ぎ目が割れた。水柱が上がる。朝の光の中で、それは驚くほどキラキラと輝いた。
頭から水をかぶって、わたくしは仰向けに倒れている。
泥と葉と水。心臓がうるさい。脇腹が痛い。頬が熱い。髪から水が伝って、耳の後ろを流れて、襟へ入っていく。冷たい。冷たくて、生きている感じがする。
隣で、彼が身を起こした。
「も、も、も、申し訳ない……お怪我……は?」
「ございません」
「腕を。……失礼」
彼はわたくしの腕を取り、肘から手首まで目で確かめていく。それから庭のほうへ声を張る。
「東屋から離れて! 鎖がもう一本ございます!」
使用人が三人、卓から飛びのく。生垣の向こうで、マルテが悲鳴を上げていらっしゃる。
「お嬢様ぁ!」
「マルテ、こちらです! 生垣です!」
「なぜ生垣に!」
「マルテこそ、ご無事ですの?」
「わたくしは卓の下でございます!」
その卓は、真っ二つに割れて芝生へ転がっている。
「マルテ。卓は割れておりますが」
「割れる前に入りました!」
誰も怪我をしていない。それを彼は三度数え、それからようやく、自分の袖を絞る。
「……申し訳ない」
◇
卓が割れてしまったので、茶は芝生の上で出し直しである。
敷布の代わりに油紙。無事だった杯は二つきりで、マルテとゲルトは立ったまま。菓子は泥をかぶって全滅した。
わたくしは濡れた裾を絞り、湯気の立つ杯を両手で持つ。
空が青い。水の粒が、まだ噴水から光の中へ落ちてくる。ひとつひとつが小さな硝子のように光って、芝の上で弾けていた。
脇腹が、じんじんと痛い。
この痛みを、わたくしは十九年知らなかった。走ると転ぶ、転ぶと傷がつく、傷がつくと縁起が悪い。そう言われてきた場所から、たった今、三十歩ぶん外へ出たのである。
息がまだ整わない。指の先が震えている。
こんなにうまくいかなかった日を、生まれて初めて、誰かと並んで座って眺めている。
ぷふっ――――。
わたくしは、笑っていた。
「あ、いや、これは……」
息が上がって、うまく言葉にならない。それでも申し上げる。
「最高です! 次は、どこへ行きましょう?」
彼が、こちらを見る。
「……え?」
濡れた前髪の下で、灰の目が、ゆっくりと二度瞬いた。何か言おうとして、言葉を探して、見つからなかったという顔である。
脇で、ゲルトが濡れた帳面を開く。
「……本日の想定は、二十三通りでございました」
「二十三!」
「二十三通り、ことごとく外れましてございます」
「ゲルトさん。それは、よいことですの?」
ゲルトは答えず、帳面を閉じる。閉じるとき、少しだけ口の端が上がっていた気がする。
わたくしは芝生に座ったまま、帯へ手をやる。
栞が、水を吸ってふやけている。十二項目の字が、端からにじんで、読めなくなっていた。




