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第6話 一時の覚悟

 スレンによって落馬したイルダナは慣れた動きで受け身を取り、地面を転がる。そして、全身に走る軋むような痛みにも構わず、転がった勢いを利用してすぐさま立ち上がった。

 顔を上げた瞬間、スレンがイルダナへと剣を大きく振りかぶってくる姿が目に入る。イルダナは反射的に、背負っていた黒杖を構えて、剣を受け止めた。


 それでもスレンは、イルダナの頸を刎ね飛ばそうと猛烈な連撃を振るってきた。息を吐く間もなくそれらを杖術を以て受け止め、または受け流し続けるイルダナだったが、ついに黒杖がバキリと折れてしまい、盾となるものが無くなる。


 迫りくるスレンの剣と、己の死の予感。世界が恐ろしくゆっくりと動いているように思える感覚の中で、イルダナの脳裏に走馬灯の如く過ったのは、いつかの遠い日。どうにも軽薄で胡散臭い、男の低い声。


『アイティナラント・ルグって知ってるか? 昔、先生……〈奉還の魔王〉もずっと探していた代物らしい。気になるだろ? え、気にならない? いーや。あんたは絶対気になってる。だからさ、おれと宝探ししてみない? たぶん今は死にたくて堪らないあんたも、死んでられるか! ……って言っちまうくらいには、楽しくなるかもしれないぜ? 宝探しのロマンって、そういうもんだ。まあ、知らないけど』


 どうしてこんな時。

 いつも真っ先に、鮮明に蘇ってくるのは、もう顔も見たくないあんな憎たらしい男──アランロドの声と言葉なのだろう。


 イルダナは、無性に怒りに駆られた。それと共に、ずっと追い続けていたアイティナラント・ルグという「夢」への熱情も鮮やかに蘇る。


(……こんな所で、死んでいる場合じゃない)


 そんな思いが胸の内で熱と共に弾け飛ぶのと同時に。イルダナは己の肩に深々と刺さっていた短剣を引き抜き、眼前にまで迫っていたスレンの剣をすれすれで受け止めると、己の常軌を逸した怪力を以てスレンの身体ごと短剣を振るって吹き飛ばした。


 スレンが驚いたように大きく目を瞠りながらも、崩れた体勢を何とか立て直し、離れた位置に片膝をついて着地する。

 己の手の中にある短剣の柄から、スレンと剣を交えた時の重く痺れるような感触が生々しく伝わってくる。イルダナは全身から噴き出てきた冷や汗に震え、途端に視界を侵し始める眩暈と吐き気のせいで遠のく意識を何とか保ちながら、何度も肩で荒い呼吸を繰り返す。

 やはり武器を持つだけで、この身体はたまらなく絶大な恐怖に支配されてしまうのだ。


(ハルミカは……戻ってくる気配はない。良かった……しかし、何とか王都に辿り着いてくれればいいのですが……)


 イルダナは先ほど、満身創痍寸前と言ってもいい状態になってまでスレンと戦い続け、それでも自分を守ろうとしてくれたハルミカを思う。


 彼もまた、絶対にスレンに捕まるわけにはいかない理由があり、イルダナと同じ「夢」を持っているのだろうに。それでもハルミカは、イルダナを助けてくれた。

 還し屋の依頼人でもあるハルミカに——何より、自分を助けてくれた恩人に。これ以上甘え続けるわけにもいかない。煙幕も、強い風に流されて徐々に晴れつつある。

 未だに、イルダナの脳と肉体は恐怖に支配され、呼吸さえもままならない。


「痛い、寒い、気持ち悪い、逃げ出したい。こわい、こわい、こわい……それでも」


 イルダナはとうとう、覚悟を決めた。


「私が、ハルミカを守ります——ハルミカのもとへは、いかせない」


 イルダナは全身をぶるぶると震わせ、死人の如く顔を蒼ざめさせながらも、スレンへと短剣を構えて見せた。

 言うまでもなく、武器なんか触りたくもないし、戦いたくなどない。今すぐにでも逃げ出したい。怖くて、怖くて、堪らない。それでも——己が求め続けた〈アイティナラント・ルグ〉という夢を追うためならば。己を助けてくれたハルミカを守るためならば、今は殺されてやるわけにはいかない。


 ゆえにこの一時だけでいい。この一時だけは、戦うしかないのだ。


 息を切らし、死人のような顔色でふらつきながらも短剣の震える切っ先を向けてくるイルダナに、スレンが鋭く目を細めて、冷淡に言い放った。


「まるで、産まれたての小鹿。そんなあなたにスレンを殺すことなんて、できない。大人しく死んで。そしてハルミカ殿下は、スレンが見つけて絶対に城に連れて行く」

「やってみなさい、お嬢さん。小鹿を舐めると、痛い目を見ますよ」


 スレンが剣を顔の横に並ぶように構え、イルダナは地を這うような低い姿勢になると、手の中でくるりと短剣を回して逆手に持つ。

 二人が短く息を吸う音と、大地を一歩踏み込んだ音がぴったりと重なった。


 キィン。


 しかし、それとほぼ同時に、弦楽器の弦を弾いたような甲高い音が鳴り響いたかと思えば、イルダナとスレンの足が地面ごと凍り付いた。

 気が付けば、薄くなった煙幕はとうに消え、辺りは霧のような深く白い冷気に包まれている。


(この冷気は、まさか……)


 イルダナが内心でこの現象の心当たりがついた次の瞬間、スレンの足元だけに雪の結晶の魔法陣が淡い光を帯びて現れ、そこからスレンを覆い尽くすように幾重もの分厚い氷の壁が大地から生え伸びてきた。


「凍結封印魔法……鹿人(ベイラ)族の仕業」


 スレンが氷の壁の向こうに閉じ込められる寸前、そんな淡々とした声が聞こえた。そうして間もなく、幾重も重なった氷の壁だったものはこの世のモノとは思えぬほど美しい「氷の鳥籠」と成って、完全にスレンを閉じ込めた。


「待たせたな、イルダナ」


 ふと、聞き覚えのある凛々しい声に呼ばれて、イルダナは声がした方向へと振り向く。そこには、立派な栗毛の馬を引き連れ、肩に抜き身の長剣を担いだ誰かが、こちらに向かって大股で歩いてくる姿が目に入った。


 氷のようなアイスブルーの髪に、翡翠色の鋭い双眸。そして、青鹿(カモシカ)の濃い灰色の毛並みをした長耳に、鹿の立派な枝角を生やした、勝気な笑みが眩しくも美しい女性。

 鹿や青鹿の特徴を併せ持ち、氷結や霜を司る封印魔法を創り出した異人類、「時守鹿(ときもりしし)の民」とも呼ばれる〈鹿人(ベイラ)族〉の彼女と目が合って、イルダナはほっと息を吐きながら彼女の名を呼んだ。


「やはり、きみでしたか——久しいですね、カシュガル」

「ああ。このわたしが直々に迎えに来てやったぞ! 喜べ、イルダナ!」


 カシュガルが胸を張ってにかりと笑うと、未だ足元を氷漬けにされているイルダナのもとへと足早に歩み寄ってきて、その肩を力強く叩いた。


「おい、ハルミカ殿下。早く殿下の炎でイルダナの足を溶かしてやってくれ」


 カシュガルが振り返った方には、未だ肩で息をして苦しげな顔をしているハルミカが、ゆっくりと馬を進めてきた。ハルミカの大層疲弊しきった様子に、カシュガルが揶揄うように鼻で笑って見せる。


「何だ。まだバテてるのか? 相変わらず体力がなくてひ弱だな、ハルミカ殿下は。もっと鍛えた方がいいぞ! それだから、イルダナの迎えはわたしの仕事が終わるのを待って、二人で行こうと言ったんだ」

「……」

「ま、ハルミカ殿下の帰りが遅かったから、結局わたしがここまで迎えに来てやったんだがな!」

「いい加減、黙れ。カシュガル……貴様こそ、何をイルダナまで凍らせている? 王国軍第四師団副長ともあろう者が、魔法の制御力だけでもその体たらくとは。笑わせてくれる」

「何だと!? ……ハルミカ殿下がナーザ殿下の可愛い弟じゃなかったら、迷わずぶっ飛ばしてるとこだが。わたしはやさしいお姉さんだからな。その可愛さに免じて許してやる。とにかく、早くイルダナを溶かせ。生意気坊主」

「……」


 鹿耳をピクリと動かし、カシュガルが子どもを相手するかのような口ぶりでハルミカに命じる。ハルミカは呆れたように大きくため息を吐きながら、イルダナの凍った足元を、馬上から火球を寄越すことで溶かした。

 魔法から解放されたイルダナは、小さく息を吐いて手に持っていた短剣をそこらに放ると、馬上にいるハルミカを見上げて声をかける。


「ありがとうございます、ハルミカ。先ほどから、きみの立ち回りには助けられました」

「……」


 イルダナが礼を述べるが、ハルミカは何やら沈黙したまま軽く唇を嚙んで「カシュガル、疾くイルダナを馬に乗せろ。ベルティナに帰還する」と早口で言いつけ、イルダナに応えることなく背を向けて馬と共に先へ行ってしまう。

 何だかさっきより様子が変わってしまったように思えるハルミカの背中を見つめたまま、イルダナは首を傾げた。


「無視されましたね。もしや王子さまへの礼は、おやつでも用意すべきだったのでしょうか」

「気にするな、イルダナ。ハルミカ殿下は成人してもまだまだお子様だから、いつもすぐに赤ん坊みたいに機嫌がころころと変わるんだ。今日も、おやつを食べ損ねたせいで機嫌が悪いんだろう」

「おやつは本当に食べてるんですね」


 カシュガルがイルダナに応えながら、軽やかに騎乗すると、イルダナに己の背後へと顎を振って見せる。


「さあ、お前はわたしの馬に乗れ。とにかく、第二師団に嗅ぎつけられる前に今は急いでベルティナに帰還しよう。半日もすれば、スレン第二師団長を封印したわたしの魔法も解ける。わたしたちの主、第一王子殿下も、お前のことを首を長くしてお待ちだ」


 イルダナは「わかりました。それでは、ベルティナまでよろしくお願いします」と一つ頭を下げて、カシュガルの後ろに騎乗する。


「すみません。カシュガル。道中、少しばかり……背中、貸して貰っても構いませんか? 先ほど、武器を持ったので……」

「ああ、わかってる。疲れたんだな。しばらく寝ていろ。肩の止血は済んだか?」

「はい。止血は問題ありません。ありがとう、ございます……」


 カシュガルの答えを聞き終えて、イルダナはすぐにカシュガルの腰に腕を回すと、彼女の細い肩へと寄りかかって間もなく、脂汗が滲んで死人の如く蒼ざめた顔のまま眠りについた。

 イルダナの「恐怖」を知るカシュガルが、己に寄りかかって眠るイルダナを横目で一瞥すると、柔く笑みを零した後に眉を顰めて、小さく謝る。


「可愛いな。そんなお前をこの戦いに巻き込んでしまうこと——どうか、許してくれ」


 カシュガルの謝罪を込めた独り言は、足を速めた馬の蹄の音に掻き消される。

 こうして、ハルミカとカシュガルの馬は王都ベルティナを目指して風の如く駆け出した。

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