第3話 還し屋の旅立ち
青年のどこか焦りの混じった声へ、イルダナは宥めるように声をかけた。
そうして、未だに緩慢な動きながらも暴れている不還の巨霊の正面までくると、その場の地面に〈三本足の大鴉〉の模様をした呪紋陣を黒杖で素早く描き出して、その中心に正座し、黒杖を持って掲げる。
「はじめましょう——還しの儀」
正座をしたまま、イルダナは両手で掲げた黒杖を地面に描いた呪紋陣に力強く突き立てた。すると呪紋陣から噴水の如く、淡い光が溢れ出す。
「万物を返し、帰し、還す者……我らは〈奉還の魔王〉が遣い、還し屋。不還の御霊よ、我らの声を聴き入れたまえ」
イルダナは晒された梟の片目を閉じて、地面に突き立てた黒杖から手を離すと、その両の手を軽く掲げる。そのまま、力強く拍手を打ち鳴らした。
カン。
まるで乾いた木片同士を打ち合わせたような、高らかな音色が広く鳴り響く。
それにあわせてイルダナは軽く口を開くと、言葉を紡がない、声音だけの歌を歌い始めた。
イルダナのいつも以上に高く滑らかな声は、地平線の向こうにまで響き渡りそうなほどの大声量であるにもかかわらず、讃美歌のような美しさと神秘さを兼ね揃えていた。
この歌声は、放牧された家畜を呼び寄せたり、狼や熊といった野の獣を追い払うとされる歌にもよく似ている。
そして、この歌声や拍手といった〈音〉には、万象の魂を震わせて鎮める〈まじない〉が組み込まれている。これを呪術の一種ともされる、〈歌術〉と呼ぶのだ。
そんなイルダナの〈歌術〉を真正面から受けた不還の巨霊は、ビリビリと黒い水の身体を震わせて、イルダナのもとへ誘われるかの如く、のそり、のそりと動き出した。
イルダナは素早く立ち上がって黒杖を引き抜くと、近くの倒壊しかけた建物の上へと身軽に跳び上がる。そして不還の巨霊が、光溢れる大鴉の呪紋陣の中に入ったのを見届けて、高らかに詠い上げた。
「薫風の踊り子たちよ、幸へたまえ。藍より青し育みの御霊たちよ、御守りたまえ。闇の水よ、祝いたまえ——大地に帰りし、不還の御霊たちへ。大いなる祈りをつむぐ」
まるで、イルダナの言葉に応えるように。不還の巨霊へと空から強風が吹き込み、辺りの木々や植物がざわめいて泣き出し、倒壊した建物の影がぞろぞろと不還の巨霊を取り囲んで蠢く。
すると、ぶるぶると激しく震えていた不還の巨霊がしんと静まり返って、空に差し出すように頭蓋の頸をもたげた。
イルダナは目を伏せて、一つ息を長く吐き出すと、手にある黒杖を不還の巨霊のもたげた頸へと向ける。
(頸獲り役が私に務まるか……否)
イルダナは無表情のまま小さく自嘲して、酷く蒼ざめた顔を横に振った。
(……もう、アランロドはいない。私が一人で成し遂げなければ)
イルダナは高く跳び上がると、不還の巨霊の頸目掛けて大きく黒杖を振るい——不還の巨霊の頸を、断ち斬った。
「大地へお帰りなさい——いましばらく、かの王の帰還を控え。鎮まりたまえ」
途端に不還の巨霊の巨体の全てが弾け飛び、黒い雨となって辺りに降り注いだ。
地面に描かれた大鴉の呪紋陣の上に降り立ったイルダナは、よろける身体を奮い立たせて、黒杖を支えに何とか立つ。イルダナの全身は、今にも倒れてしまいそうなほどに酷く震えていた。
手に持った黒杖を、かつて永く握った〈矛〉の柄と錯覚しそうになる。
そんな錯覚に陥るのと同時に、視界は霞んで歪み、強烈な吐き気と眩暈に見舞われて思いがけず激しく咳き込むと、イルダナは流れる冷や汗もそのままに胃の内容物を全て吐き出した。身体が、大きくガタガタと震える。
「げほっ、ごほ、ごほ! ……あー、無理、無理、無理……もう無理です。これ……怖い。気持ち悪い。寒い。怖い、怖い、怖い……」
未だやまぬ黒い雨に打たれながら、肩で荒い呼吸を繰り返して弱音をこれでもかと零しまくるイルダナのもとに、青年が静かに近づいてくる。
「随分と息が乱れている。満身創痍のように思えるが、問題ないのか?」
青年の問いに、イルダナは息も絶え絶えに、言葉を切らしながらも答える。
「……はい、問題はありません。ただ、お察しの通り……辛うじて心得ている杖術は多少扱えますが、基本的に私は荒事が非常に苦手でして。きみの身を守って差し上げることや……ましてや誰かを相手に戦うことなどは、できません。私は世界一の怖がりゆえ、武器を持つとまともに意識を保っていられないほど……恐怖で身体の自由が利かなくなります。このような不出来な還し屋ですが……依頼の遂行はこのまま続行ということで、大丈夫ですか?」
イルダナはようやく息を整えると、未だ蒼白いままの顔を上げて、目の前に立つ青年を見上げる。青年は一瞬も迷うことなく、深く頷いて見せた。
「戦力を期待していなかったといえば偽りとなるが、承知した。僕は荒事には慣れている。そして己の身は、己で守れるゆえ。……それにしても、僕が貴様を見世物小屋から救出するつもりだったのだが、まさか逆に借りを作るとは。貴様の脱出の仕方は常軌を逸している。世界一の怖がりなどと大噓を吐くな。貴様は只者ではない」
そう断言する青年に、イルダナは小首を傾げて肩に黒杖を担いだ。
「別に、大したことはしていませんよ。あの不還の巨霊は、今日のこの時間帯に目覚めそうだとあらかじめ見当をつけていただけです。そこに演出として、私の〈梟の忌み仔〉の肉体を以て、人々の恐怖の対象を私に挿げ替えました。不還の巨霊は、恐怖の念が向けられるものに引き寄せられます。おかげで、誰一人傷つくことなく脱出を果たせたわけです。梟の忌み仔のような迷信やら伝説といった謎多きモノは人を魅了もしますが、恐怖をも植え付ける——〈謎〉は私が持ち得る、生き残るための術の一つです」
「……それを、大した事だと言っている」
「そうですか。きみはこれを、ずる賢いと言わないのですね。意外です、王子さま」
青年はイルダナの発言に、どこか怪訝そうに眉根を顰めているが、すぐに小さくため息を吐いて、イルダナへとどこか不機嫌な色が混じった声で言いつけた。
「……黙れ。いい加減その呼称はやめろと、何度言えばわかる」
「私、きみの名前を知りませんから」
「……」
青年は一度沈黙を置くと、鼻から細く息を漏らして、被っていた外套のフードを脱いだ。
その瞬間、不還の巨霊の残骸である黒い雨が止み、白銀の陽の光が青年の顔を淡く照らし出す。絹のように艶やかな黒髪が風に揺れており、たとえ両目を呪いで縫われていようと、青年の精悍かつ、美しい顔立ちは全くもって損なわれていなかった。
「僕はエーディーン王国が第二王子。ハルミカ・オラティル・エーディーン。ハルミカと呼べ。それ以外の呼称は許さぬ」
王子ハルミカの名乗りに、思わずイルダナは茶々を入れたくなる。
「何です。やはりきみ、王子さまじゃないですか。どうりで不還の巨霊や、我々還し屋のこともよく存じておられないわけですね。箱入り殿下」
「……これ以上、虫唾の走る発言をしてみろ。殺す」
「不敬罪とは死罪にも値するものなのですか? 流石、最近のエーディーン王国は進んでいますね。王子殿下共々、何とも恐ろしい」
「やはり世界一の怖がりなど大噓だ……もう黙れ。そしていい加減、こちらが名を知っているとはいえ、礼儀として次は貴様が名乗る番だ。還し屋」
そういえば自分も詳細な自己紹介がまだだったかと、イルダナは小さく頷く。イルダナは己の目を覆っている一つ目紋様のまじない布を首元まで引き下ろし、その少年にも少女にも思える、どこか神秘さをも併せ持った、まさに中性そのもののような素顔を初めて晒した。
ハルミカには当然見えてはいないだろうが、それでもイルダナは真っ直ぐに梟の両目でハルミカを見据えた後、恭しく胸に片手を当て、深く頭を下げて見せた。
「私は〈奉還の魔王〉が末の弟子。還し屋七月卿の一角を名乗らせて戴いております。その名も〈貌漂しのイルダナ〉——ご覧の通り、ずる賢さと逃げ足が自慢の世界一の怖がりです」
イルダナは顔を上げると、ハルミカの片手を取って握手を交わした。ハルミカは突然のことに驚いたのか、びくりと身体を微かに揺らす。
「今この時より、ハルミカ第二王子殿下からエーディーン王国の国盗り及びアイティナラント・ルグ奪取のご依頼を請け賜りました。還し屋七月卿の名に懸けて、必ずや、きみのもとにお求めのモノの全てをお還しいたしましょう。以後、どうぞよろしくお願いします」
「……貴様の力を欲しいと指名したのは、我が兄である第一王子殿下だ。ゆえに僕ではなく、これから見えることとなろう次代の〈太陽王〉、第一王子殿下に尽くせ。それができなければ殺す」
ハルミカは脅すように声を低めると、イルダナの手を振り払った。
どうやら未だ、損ねた機嫌はなおっていないらしい。それとも、ささやかな警戒か。そんなことを思い知りながら、イルダナはハルミカの指示にいつもの如く表情筋が死んだ真顔のまま、淡々と頷いた。
「わかりました。では、第一王子殿下にはくれぐれも敬意を払うことにします。ということで、さっさとその第一王子殿下のもとへと案内しろ。ハルミカ坊。あと小腹が空いたから、おやつでも買って来いよ。走ってな」
「貴様やはり殺されたいか?」
こうしてイルダナは、己の生まれ故郷でもある、エーディーン王国の国盗りを企むエーディーン王国第二王子ハルミカと共に、新たな旅立ちを迎えた。




