第2話 還し屋と不還の巨霊
イルダナは青年の脅すような低い声を静かに受け止める。しかし、変わらず淡々とした声で青年に尋ねた。
「国盗りですか。随分と大事ですね。それに見合う対価は?」
「アイティナラント・ルグ」
イルダナは思いがけず、小さく息を呑んだ。
〈アイティナラント・ルグ〉とは太古よりラナリエン大陸各地で伝承されている大陸の至宝を指す。その正体はどの伝承においてもはっきりとしていない。
莫大な財宝。清らかな風と雨雲を呼び、大地を浄化する伝説上の精霊。大陸全土を火の海にできるという古代兵器——様々な諸説が存在する。
イルダナにとってアイティナラント・ルグは、アランロドに教えてもらった夢のひとつであった。大陸全土で伝承される至宝でありながら、大陸各地を長く旅してきたイルダナはその真実を知る者に一度たりとも会ったことがない。神秘的で、どこか恐怖も感じる——アイティナラント・ルグという大いなる謎に魅せられて、イルダナはアランロドと共に大陸各地の様々な伝承を学びながら旅をしてきたのだ。
それにアイティナラント・ルグにかかわるこの依頼を引き受ければ、もしかすると……行方をくらましたアランロドを見つける手掛かりを、何かしら掴めるやもしれない。
そこまで思い至って、イルダナは「いや、あんな屑男の顔。もう見たくもないはずでしょう。私はとにかく、長年求めたアイティナラント・ルグを追いたいだけ」と、内心で咄嗟にそう取り繕った。こちらが心からの本心であり、目的なのだと。
「貴様がアイティナラント・ルグを求めて旅をしているということはカシュガルより聞き及んでいる。そして、現在のカロス王は……アイティナラント・ルグと呼ばれる強大な兵器を手に入れたという情報を我々は掴んだ。そのうえカロス王は、かの兵器を駆使し、大陸の国々で締結されている休戦協定を崩すことを目論んでいる」
「……」
「カロス王が戦犯となり、かつての大英雄〈奉還の魔王〉がようやく収めた大陸大戦が再び勃発すれば……いくら強大な兵器があろうと、現在の我が国では確実に南部の列強国に攻め滅ぼされてしまう。何としてもそれだけは避けねばならぬ」
青年は更に声を低め、真剣な面持ちをイルダナへ真っ直ぐに向けてきた。
青年の言う「大陸大戦」は十数年前にラナリエン大陸全土の国々が永く、血で血を洗うような争いを繰り広げた戦争だ。
当時、その収拾がつかなくなっていた大規模戦争を終結させた英雄こそが、還し屋の創始者であり、イルダナと兄弟子アランロドの師匠にあたる〈奉還の魔王〉と呼ばれる人物である。
そのため、大陸大戦の再発に関わることは〈奉還の魔王〉に縁の深いイルダナとしても見逃してはおけない案件であった。
イルダナは鞭に打たれながらもしばし、考え込むような素振りをしたかと思えば、「大陸大戦にアイティナラント・ルグ……そうですねえ、それにもう一押し、こう……」と真顔のまま、生来抑揚のない声へともったいぶるような色を滲ませて呟く。
それを耳聡く拾ったのであろう青年があからさまに眉を顰めつつも、一つ沈黙を置いて付け足した。
「……報酬は、金銭も弾む」
「承知。喜んでお引き受けいたしましょう。いやあ、私をここへ売り飛ばした屑野郎に全財産を奪われていましたので。非常に助かります」
調子よく、イルダナは相変わらず抑揚のない声を連ねながら頷いて見せる。一方青年はどこか呆れたように「梟というより、狐か……」と呟きながら、未だ鞭に打たれ続けているイルダナへと背を向けた。
「ならば、貴様にはさっさと斯様な場所から出てもらわねば。見世物屋より貴様を買い受けてくる。見世物屋にしろ奴隷市にしろ、全てこの手で尽く潰してしまいたい限りだが、今はそうもゆかぬゆえ……しばし待て」
「ああ、その必要はないですよ。見世物小屋を出る算段は、ここに来た時からついていましたので。それに依頼人のお手を煩わせるわけにはいきません」
イルダナはそう淡々と言うと、青年から離れ、見物客に見えやすいように土が盛られた小高い檻の中の中央へと立つ。
「きみは運がいい。この日の、この時間帯に——私が何をせずとも。この檻を破ってくれる機会がちょうど現れる予定でしたから」
そこで、頭から被っていたボロボロの外套を脱ぎ捨てた。すると、一つに括った銀灰の髪が鈍くきらめき、奴隷商人たちがどうやっても剝ぎ取れなかった、呪いの燕尾裾装束が露わとなる。
顔半分を覆っている一つ目紋様のまじない布は、日の光を浴びてもなお不気味だ。イルダナはおもむろにその不気味な一つ目に指を掛ける。併せて、よく通る声を奴隷市中に響き渡るように、大きく発した。
「皆々様。お望み通り、我が梟の耳目をご覧いただきましょう。しかし、どうぞお覚悟なさってくださいませ。周知のことかと思われますが……」
不思議と奴隷市にいる全ての人々の喧騒は静まり返り、皆イルダナの一挙一動に意識を奪われた。
「『梟の忌み仔の眼を目の当たりにした者には、禍が降りかかる』。このラナリエン大陸全土にて太古より伝わっております、世にもおかしき理は——私の手にも余りますゆえ」
指の掛けられた布がたくし上げられ、イルダナの右目が覗いた。
梟と同じ橙色の目は、差した白い陽光によって一瞬、黄金の如く鮮やかにきらめく。だが、か細い陽光はすぐに途絶え、梟の鮮やかな橙色の色めきは暗く沈んだ。
「……え?」
イルダナの目を覗いた人々は間の抜けた声を一斉に零す。なぜなら、イルダナの目が晒されたのと同時に、辺りが夜のように暗くなったからだ。イルダナは「ほら、きました」と淡々と呟く。
人々は恐る恐る、薄暗くなった空を見上げる。そこには、白銀の光が迸る白昼の太陽を隠すほど巨大な——何よりも巨大な、黒い水の塊のようなものを纏った屍の怪物が広場を覆っていた。
「……は、わああああ!? フォ、不還の巨霊だ!」
「な、なんだこれ……デカすぎる……まさか、あの梟の忌み仔が、こんな……う、あ、ああああ!」
「梟の忌み仔の災いだぁ!」
途端に人々は皆、悲鳴や言葉にならない奇声を喚き散らし、互いを押しのけて、怪物から逃れようと奴隷市広場を走り去る。さっきまで激しい剣幕だった見世物屋も腰が抜けたように何度も転びながら、上擦った悲鳴をあげて見世物小屋から逃げ出した。
広場はあっという間に、怪物を除いてほぼ無人の空間となる。
唯一その場に残った青年が、冷や汗を滲ませながら弾かれたように檻の中のイルダナへと振り返って大声を張った。
「不還の巨霊だと? ……まずい、還し屋! 逃げ……」
刹那、風が唸りを上げるような剛力を以て、イルダナと青年がいる見世物小屋が屍の巨腕によって薙ぎ払われる。瞬く間に見世物小屋は木っ端微塵となったが、青年は外套の首根っこを引っ掴まれて、イルダナと共にいつの間にか屍の背後へと跳んでいた。
「危ない危ない。だいじょうぶですか? 王子さま」
男にも女にも思える、高くも低くもない少年のような声がかけられて、青年が我に返る。屍から少し離れた位置にイルダナと共に着地した青年は地に片膝をついたまま、酷く驚いた様子で隣に立つイルダナへと顔を上げて見せた。
「貴様、いつの間に外へ……」
「どさくさに紛れて、転んだ見世物屋さんから檻の鍵をこっそり盗……拝借していましたので。お気になさらず、王子さま」
「……態度に見合わず、盗人らしい技術も心得ているようだ。だが、その呼称の仕方は今すぐにやめよ。不快極まりない」
「不敬罪ですか? 王族さまはやはり恐ろしいですね」
「黙れ。……それより不還の巨霊が現れたとは、まことか?」
青年がその場に立ち上がり、更に眉根へと深い皺を刻みながら辺りを探るように見回す。イルダナは目の前に佇む、屍の怪物——〈不還の巨霊〉を、黄昏時の陽光を煮詰めたような梟の右目で見上げながら、深く頷いた。
「はい。非業の死を遂げた者たちの負の思念、弔われなかった死体、魂などが凝り固まってそこらの小さな精霊と融合し、歪な影と成ってしまった異形。彼らは生者を羨み妬み、生者を無限に喰らおうと彷徨い続ける……それが不還の巨霊。もしや初めて見えますか? きみは」
「ああ……この目で見えはせぬがな」
「それは珍しい。大陸大戦終結後、突如大陸全土で次々と現れるようになった不還の巨霊は、今や現代の人々の安寧を侵食しつつある、身近な脅威の象徴の一つですよ。もしやきみ、箱入りさんですか?」
イルダナはそんな軽口を叩きながらも、どこからともなく長い黒杖を奇術の如く取り出し、それを肩に担いで不還の巨霊のもとへと歩き出した。青年はイルダナが離れる気配を感じ取ったのか、咄嗟といったように声を上げる。
「貴様、何をする気だ? 不還の巨霊は不死の怪物と聞くが」
青年の発言にイルダナは思わず「おや」と声を上げて、青年の方を振り向いた。
「ご存知ないんですか、王子さま。不還の巨霊を鎮めることができるのは世界で唯一、〈歌術〉と呼ばれる魂を司る術を扱える我々——〈奉還の魔王〉より『全ての不還の巨霊を鎮めよ』という使命を授かった、七人の還し屋しかいないのですよ。不還の巨霊の相手をするのは還し屋の最優先必須業務なんです。つまりは金にならないこちらが本業で、きみから引き受けたような還しの仕事は食い扶持を繋ぐための副業ですね。本業の方をサボると他の還し屋たちから殺……シバかれます。ですので、少々そこでお待ちください」
「な……!」
「ご心配なく。すぐに終わらせます」




