第36話 きみを見つける
◇◇◇
イルダナが、カロス王に取り込まれる直前。
ハルミカは突き飛ばされた後のすれ違いざまに、イルダナに耳打ちされていた。
「飛べ。ハルミカ」
もうそれ以上、二人の間に言葉は要らなかった。言葉無くとも、ハルミカにはイルダナの声が聴こえてくる。
『大地を割るほどに踏みしめた後、飛び立ちなさい。その翼で、上へ昇る風を手繰ってゆけばいい。さすれば、あの大空へは行けるでしょう』
以前教えられた、イルダナの語る飛び立ち方が脳裏を過る。ハルミカは反射的に、イルダナの教えに従った。
地を力の限りに蹴り飛ばし、炎の翼の火力を最大限にまで上昇させ、大きく羽ばたかせる。ハルミカの炎の翼が更に巨大な翼となって顕現して、高熱によって生じた上昇気流を掴み、真上へと飛び立つ——空へと飛び立ったハルミカはそのまま、くるりと身体を回転させて、崖下に落下してゆくイルダナを追った。
だが、ハルミカの呪われた目では、見えない。流れていく景色の輪郭が、世界の光が速すぎて、今の目のままでは追いつけない。イルダナを、見つけられない。イルダナに、追いつけない。
(見えろ——見えろ、見えろ、見えろ、見えろ、見えろ!)
ハルミカは歯を食いしばって、唸った。
『ハルミカちゃん自身が魂の底から「何かを見たい」っていう、呪いも吹っ飛ばすくらいの激情に近い思念を抱くことができれば、その強力な呪いが解ける可能性も無きにしも非ずだけど……』
いつかのディンデルの言葉が、蘇ってきた。
ハルミカは、己の魂が爆ぜるような感覚を覚えて、轟く咆哮を上げる。
「イルダナは、何処だ!」
刹那。パキン、と甲高い音が響いて、ハルミカの両目を縫い閉じていた呪いの糸が光と成って弾ける。ハルミカの視界が、一瞬だけ真っ白に染まり——ハルミカの黄金の双眸が、露わとなる。
すぐそこには、落下するカロス王の肉体が迫っていた。
そして、ハルミカが生まれて初めて、その〈太陽の目〉で目にしたものは——現在の空を燃えるように染め上げる、暁の太陽の光。そして、それらと同じ色をした、完全に取り込まれる寸前のイルダナの右目であった。
◇◇◇
ハルミカが、底なし谷に落下していくカロス王にすぐさま飛び掛かって掴むと、その巨体を何とかクノク砦の屋上へと引き上げる。
戻ってきたハルミカには目もくれず。アランロドがカロス王に駆け寄ると、一切の躊躇もなく、その巨体の中にずぶりと己の身体の半分を埋め込んで、何かを探すように両腕を掻き回した。
すると、カロス王の黒い水の塊でできた肉体から、アランロドがすぐさまイルダナの両脇を抱えて引きずり出す。
イルダナは何度か咳き込んで、ふらつきながらもアランロドの腕を片手で掴んで何とか立ち上がり、ハルミカとアランロドをけろっとした真顔で見回した。
「ありがとう。ハルミカ、ついでにアランロド。おかげで助かりました」
「……はあ~……あんた、ほんと……絶対いつか殺す……最悪。死ね……」
アランロドが盛大なため息と共に悪態を吐きながら、片手で頭を抱えるように目を覆う。
一方ハルミカは、ほっとしたように一度頷いて見せると、すぐに背後に広がる夜明けの空——燃えるような朝焼けを見渡して、どこか興奮冷めやらぬ様子で独り言ちる。
「……本当に、同じ色をしている……」
空を仰ぐハルミカの黄金の目は、子どものように無邪気で、きらきらと光を迸らせているようだった。
そんなハルミカの横顔を満足げに眺めながら、イルダナはハルミカの肩を叩いて尋ねる。
「どうです? 初めて目にしたこの世界の夜明けの空は。最高でしょう」
ハルミカがイルダナを振り向いて、微かに薄い唇の端を吊り上げる。呪いが解かれた目は確かに笑っていて、ハルミカによく似合う不敵な笑みだった。
「いつぞやに、貴様が自慢してきた通り。夜明けの色は、本当にイルダナの瞳と同じ色だったか。最悪だな」
「アランロドにしろ、きみにしろ。ナーザ殿下以外の〈太陽王〉の末裔は皆、心とは裏腹のことしか口に出せないんですかね。難儀極まりない」
イルダナが小さく息を吐くと、不意に、クノク砦全体が、大きな音を立てて崖下の方へと傾き始めた。おそらくこのまま砦は全壊し、その全てが崖下にある谷底へと真っ逆さまだろう。
イルダナはすぐに意識を切り替えて、ハルミカを振り向く。
「ここはハルミカの飛行力に頼るしかありませんね」
「ああ。任せろ」
ハルミカと頷き合ったイルダナは、アランロドの方にも振り向いて、アランロドへと手を伸ばす。
「流石のおまえも飛べはしないでしょう。アランロド、行きますよ」
イルダナが差し伸べてきた手を、アランロドは一瞬沈黙を置いて見つめたが、すぐに首を横に振って肩を竦めて見せた。
「このまま飛べば、不還の巨霊と一体化したカロス王に、さっきのあんたみたいに容易く捕らえられちまうだろうぜ。カロス王の全てを道連れにしようとする執念は凄まじい。つまりここで、カロス王を留めておく役が必要になる——そんで。その役は勿論おれだ」
イルダナは思いがけず、大きく目を瞠った。
アランロドはイルダナに見せつけるように妖しい笑みを浮かべると、すぐに表情を消してそばにあるカロス王を静かに見つめる。
そして、カロス王へと長杖をかざして、カロス王の全身を己の影から生じさせた〈影の寄生木〉で固く縛り付けた。
「この王さまは紛れもない外道だが。己の弱さと醜さに絶望して、欲と禁忌に溺れた憐れな奴でもある。皮肉なことに、誰かさんと似た外道だ。だから、王さまのことはおれが引き受ける。こいつとも、まあ全然楽しくはなかったが、そこそこの外道仲間な付き合いだったし」
「……何、ですか。アランロド。らしくないことばかり言って……嫌です。私はアランロドを、置いて行ったりしない。したくない。アランロドじゃあるまいし」
イルダナは強くアランロドの腕を引くが、アランロドは器用にするりとイルダナの手から逃げ出して、いつもとは違った——滅多に見せない静かな笑みを浮かべて、イルダナを見下ろした。
「これまでおれは、好き勝手に生きた。今この瞬間も、そのつもり」
アランロドが、イルダナの身体をハルミカの方へと突き飛ばす。
それと同時に、アランロドとイルダナの間の石畳に大きな亀裂が入って、轟音が響いた。
「あんたも、もっと好きに生きて見せろ。そんで──さっさと死んじまえ。ばーか」
アランロドのその言葉が合図となったかのように、砦が真っ二つに別たれて、崩壊する。アランロドとカロス王がいる側の足場が、谷底に向かって落ちてゆく。
遠のくアランロドは、いつもの軽薄な笑みではなく──僅かに眉を顰めた、初めて見るような、どこか歪にも思える下手くそな笑みを浮かべていた。
「アランロド!」
イルダナは今までにないほど声を張り上げて、アランロドを呼ぶ。
アランロドへと、必死に手を伸ばす。
しかし、イルダナたちの足場も崩壊し始めて、イルダナは咄嗟にハルミカに抱えられて空へと飛び立った。
「アランロド……!」
もう、どんなに手を伸ばしても、アランロドには届かない。
イルダナとハルミカが飛び立った直後、クノク砦の全体が完全に崩壊し、その残骸の全てがアランロドたちと共に、谷底へと消えていった。




