第35話 儘ならない呼び声
◇◇◇
不還の巨霊と、肥大化したカロス王の肉体が混じり合ったような怪物。
それを前にしたイルダナは思いがけず目を瞠って、心の内で呟いたことが口をついて出る。
「これは……カロス王に、不還の巨霊が寄生している? 生者たるカロス王の魂と、死者の念が凝り固まった不還の巨霊に宿る無数の魂が、結びついてしまっていますね、おそらく。このような奇怪な現象……私も初めて目の当たりにしました」
カロス王はその巨体を大きく揺さぶり、巨腕を振るって、不快な絶叫を上げながらくるったように暴れ回る。カロス王の巨体の輪郭を、微かに見える目で辿ったのであろうハルミカが、カロス王を見上げて息を呑んだ。
「何という巨体だ……! このまま暴れ続けられれば、クノク砦が完全に崩壊し、僕たちもただでは済まぬぞ!? 如何にする、イルダナ!」
「……こうなったら、私の歌術を以て還しの儀を執り行うしかないでしょう。カロス王の魂にも影響が出てしまう可能性が高いですが、やむを得ません」
しかし、イルダナは僅かに眉根を寄せて思い悩む。
あの怪物と化したカロス王の中には、通常の不還の巨霊の個体よりも多くの——無数の魂が蠢いているようだった。あの数の魂を鎮めるには、最大出力で歌術の力を引き出す必要がある。
歌術を最大出力にするのに必要なのは、魂たちを引き留める「呪紋陣」と、言霊の力を持つ詩のある歌。
詩のある歌は言霊が響きやすい〈人〉への影響力が強いため、あまりイルダナは歌術に用いないのだが、今はそうも言っていられない状況だ。
問題は「呪紋陣」だ。今いる場所は石畳であるため、イルダナが渾身の力を込めて、矛で呪紋を刻むことは不可能ではないが、それでは砦が崩壊する可能性の方が高い。
そこまで思い至って、ふと、イルダナは隣に立つハルミカの背で燃えている炎の翼が目に入り、咄嗟にハルミカの片手を掴んだ。
びくりと身体を揺らしたハルミカが、イルダナに首を傾げて見せる。
「! 何だ。如何にした、イルダナ?」
「ハルミカ。きみの精霊魔法で——きみの炎で、この紋様は描けますか?」
イルダナが素早く指で、ハルミカの片手の掌に呪紋陣の紋様を描いて見せる。
ハルミカが口を開いて、イルダナに応えようとする前に、イルダナが確信めいた声で頷いた。
「やれますね。私とハルミカなら」
ハルミカに描いてもらいたい紋様は、複雑なものだ。炎の精霊魔法を緻密に操作して貰わなければならない。おそらく至難の業。それでもイルダナは、ハルミカであれば「できる」と即座に思った。信じられた。
イルダナの確信に、ハルミカが一瞬驚いたように眉を動かすが、すぐに呆れと笑いの混じった吐息を小さく吐いて、イルダナへと頷き返した。
「やれる。僕とイルダナであれば」
「ですね。それでは、はじめましょう——我らが、還しの儀」
イルダナは、カロス王の意識を己に引き付けるため、カロス王に向かって矛を手に駆け出す。
カロス王はすぐにイルダナに気が付いたようで、巨腕を滅茶苦茶に振るってくる。イルダナは両腕からの猛撃の数々を矛で受け流すと、一度高く跳躍して躱し、そのまま全身をぐるんと回転させて右肩辺りに矛を鋭く振り下ろす。カロス王の右腕が、どろりと石畳に落ちた。
「……く……!」
しかし、右腕を斬り落としたのと同時に、イルダナの視界がぐにゃりと歪んで、猛烈な吐き気に襲われた。矛を握る恐怖もあるが、先程アランロドと戦った際に、血を流しすぎたこともあるのだろう。イルダナの身体が、硬直する。
その隙を狙って、カロス王が残った左腕を振るい、イルダナの身体を凄まじい勢いで張り飛ばした。吹き飛んだイルダナの身体は、砦の石壁に大きな窪み穴が開くほどの衝撃を以て、叩きつけられる。
イルダナは石壁に埋まったまま、激しく咳き込んで、血を吐く。それでも、矛を握る手は、絶対に離さなかった。
「イルダナ!」
ハルミカがこちらを振り向く気配もなく、イルダナを呼ぶ。
イルダナを、信じてくれているのだ。
それがわかって、イルダナは重い目蓋を持ち上げて、目を大きく見開いた。
カロス王の足元には既に、ハルミカの炎によって「三本足の大鴉の呪紋陣」が描かれていた。炎の呪紋陣からは、黄金と白銀の火花を散らした光が噴水の如く、溢れんばかりに迸っている。
それを目にした瞬間、イルダナは石壁を蹴って飛び出し、カロス王目掛けて目にも留まらぬ疾さで駆け出した。併せて、始まりの祝詞を唱える。
「万物を返し、帰し、還す者。我らは〈奉還の魔王〉が遣い、還し屋。不還の御霊よ、我らの声を聴き入れたまえ」
カロス王が左腕を振り下ろしてくる。イルダナはそれを寸前で躱すと、カロス王の左腕へと飛び乗り、その上を風の如く駆け抜けて、カロス王の頭上へと高く跳躍した。
『いざたまえ 炎の御子よ 我らが王 その御魂を燃え揺らせ
詠えや 詠え 影の御子よ 我らが王 その御魂に安らぎをもたらせ
光と闇を生みし末の枝葉 双生の神子 かの地に帰しとき
我らが王 巨いなる胎動を始む
応えや 応え 双生の神子らよ 我らが王 その御魂のもとへ還りたまえ』
この歌は、「王」にかかわる歌だ。おそらく、〈太陽王〉に執着するカロス王の魂に最も響きやすい歌だろう。そう見当をつけて、イルダナは歌術を歌い上げ、怪物と化したカロス王の頸を矛で刎ね飛ばす。
「大地へお帰りなさい——いましばらく、かの王の帰還を控え。鎮まりたまえ」
すると、カロス王の巨体は大きく傾いていき、轟音を立てて屋上へと倒れ込んだ。
これで、不還の巨霊を——カロス王を鎮めることはできたのだろうか。
イルダナは倒れたカロス王を注意深く観察しつつも、着地する。しかし、矛を振るった恐怖の反動とカロス王から受けた傷が相まって、イルダナは身体をぶるぶると震わせ、血と胃の内容物を吐き出した。
矛を支えに立つイルダナのもとに、ハルミカが駆け寄ってくる。
「無事か!? イルダナ!」
「はい……こちらは問題ありません。助力ありがとうございます、ハルミカ」
「おーおー。流石は還し屋。今回も見事、不還の巨霊を鎮めてくれたな。ありがたい、ありがたい」
不意に、すぐ近くから聞き覚えしかない男の声がかけられて、イルダナとハルミカは弾かれたように声がした方を振り向く。
そこには、屈み込むように屋上の石壁の上に乗った、アランロドの姿があった。
イルダナとハルミカが唖然として声を上げる前に、アランロドが倒れたカロス王の巨体を眺めながら、どこか面白がるような口調で語り始める。
「カロス王は生まれつき病弱な体質でな。諸侯連中には穢れと疎まれて、王位継承権も無いに等しかったんだと。そんで、そんなカロス王が頑健な身体を手に入れられたのは、どうにも不還の巨霊を自分の体内に寄生させたおかげらしい。加えて、他の個体の不還の巨霊をも操ることができるようになったとか。だが、そんな禁術じみた真似には当然、代償がつきものだ。カロス王の魂は徐々に不還の巨霊に食い潰されていっていた。終いには、今見る限り、その肉体ごと乗っ取られたみたいだな? いやあ、実に興味深いお人だぜ。この王さまは」
アランロドがにたりと怪しげな笑みを深める。
「この王さまの肉体と魂、あまりにも〈理〉から逸脱しすぎてる。だから、どーーーしても、この王さまの魂と肉体を弄り回し……調べたくてな? 還し屋の誰かが王さまを追い詰めて、不還の巨霊として王さまを鎮めてくれるのをずっと待ってたんだよ。歌術が使えないおれには無理だから。助かったぜ」
アランロドは呪術師であるのと同時に、あらゆる事象に興味関心を抱かずにはいられない、所謂「異常研究者気質」だ。もしかすると今回、アランロドがカロス王についていたのは、世界の破滅でも何でもなく、ただカロス王に寄生した不還の巨霊を調べたいという、そんな知的好奇心を満たしたかっただけなのかもしれない……これはあくまで、イルダナの憶測に過ぎないが。
故にアランロドは、カロス王を追い詰めさせる為だけにナーザを人質にまでとって、わざわざイルダナたちをこのクノク砦に呼び寄せたのだ。
そうイルダナが思い至ったところで、「あ。でも、ついでに世界滅亡もできたらよかったんだけどな?」とアランロドが軽薄な笑い声を上げる。
だが、笑っているはずのその黄金の目には、確かに残酷めいた冷たさが窺えた。やはり、この男の魔性にも似た危うさと破滅的な激情は、紛れもない本物らしい。
「つまり……全てはおまえの掌の上だったと? アランロド」
「さあな」
相変わらず、心はわかり易いが、考えが読みづらい男だ。イルダナは思いがけず、呆れたように息を吐く。
しかし、次の瞬間——倒れていたカロス王が、跳ね上がるように飛び起き、大気をびりびりと震わすほどの咆哮を上げた。イルダナたちは驚愕のままに振り向き、大きく目を瞠る。
(そういえば、頸を斬り落としても不還の巨霊の肉体が、黒い雨になっていない? 断ち斬った腕と頸は、再生していないが……)
起き上がったカロス王を瞬時に観察して、イルダナは即座にこう考え至る——不還の巨霊と化したカロス王には、歌術の効果が半減されている。再生は止められているようだが、完全に鎮めることはできていない。
「成程な。生者と不還の巨霊の複合体は、一人分の歌術だけじゃあ、完全に鎮めることはできないらしい。厄介な性質だ」
イルダナの思考の先を既に結論付けたアランロドが、再起したカロス王を、目を細めて見つめる。
「なれば、カロスを如何にして鎮めるか……ぐっ……!」
アランロドへと問いただそうとしたハルミカが、僅かに崩れた足元に気を取られる。そこで、ふと、カロス王がハルミカの方に巨体を向け、狂喜にも似た咆哮を上げると、ハルミカへと黒い水の塊を纏った無数の手を目にも留まらぬ速さで伸ばしてきた。
ハルミカが無数の手に捕らわれ、カロス王のもとに瞬く間もなく引き寄せられると、そのままカロス王の巨体が異形の大口を開けてハルミカを喰らおうとする。
しかし、その間に割って入ったのがイルダナだった。イルダナはすかさず、ハルミカを捕らえる無数の手を矛で全て断ち斬ると、ハルミカをカロス王の反対方向へ突き飛ばす。
その代わり、イルダナが無数の手へと捕らえられ、カロス王の巨体へと全身が呑み込まれていった。カロス王はそのまま、取り込みつつあるイルダナを道連れにするが如く、崩壊し始めた砦からその身を投げ出し、砦の真下にある底の見えない谷へと真っ逆さまに落ちてゆく。
「イル!」
遠くにいるはずのアランロドが、珍しく随分と焦った様子で——久々に、還し屋の兄弟子たちだけが呼ぶイルダナの愛称を、悲鳴に近い声で叫んだ。
カロス王の肉体である黒い水の塊に覆われていくイルダナは落下しながらも、アランロドの己を呼ぶ悲鳴じみた声を耳にして思いがけず、吐息だけの笑い声を小さく上げた。




