第32話 わたしの鼓動
◇◇◇
目蓋を閉じれば、いつでも容易く、何よりも鮮明に思い出せる。
己が迷わず選ぶはずだった、この世界の全てを破滅させる運命。
全てを殺し尽くしたいという、何にも勝る強い衝動、欲求。
醜くて憎くて堪らない、最悪な世界。
そうとしか思えず、感じられず、万物が腐って濁ったような灰色にしか視えなかったはずの己の目を、大きく覆し、一変させた——己の運命と世界の全てを掌握した、「イルダナ」という特異点との最悪な出逢いを。
(ようやく……ようやくだ。ようやく、死ねる。楽になれる。何も考えずに、感じずに済む。無に成れる。全てが、おれを忘れ去ってくれる。死ねる、死ねるんだ。大陸中に、不還の大呪紋陣は張り巡らせた。あとは、このエーディーンで起動させるだけ……そうすれば、この世界に生きとし生ける万物が死に絶える。滅ぼせる。腐れドルイド共の……おれの役目が、果たせる。おれが、死ねる)
路地裏に捨てられていた、おんぼろの厩舎。その中に、アランロドはいた。壁に身体を預け、音と成らない枯れ果てた声を吐き出し、ぶつぶつと呪いの呪文を絶え間なく唱え続けている。
全身の骨が浮き出るほどに痩せ細り、誰からつけられたのかも忘れた無数の傷口からは蛆が湧き出し、その傷の所為で腐った肉からはただならぬ異臭が漂う。
しかし、アランロドはもう何も感じない。見える世界は黒か、白か、灰色の無彩色で色を失くしたどろどろしたもので、耳もよく聴こえない。
当時のアランロドは世にも珍しい「最後のドルイド」の奴隷としてラナリエン大陸の各地に売り飛ばされ、人とは思えぬ扱いを数え切れぬほど受け、凌辱され、挙句の果てには使い物にならないと捨てられ、エーディーン王国のとある都市に独り流れ着いた。
アランロドは魂の底から、「人」という生物を嫌悪し、憎悪していた。もう永い間ずっと、その存在を呪い続けていた。「人」が我が物顔で蔓延るこの世界も、アランロドは大嫌いだ。世界の何もかもが、目にしただけで胃がひっくり返るくらい嘔吐してしまうほどに醜く思えて、仕方がない。
そして何より、世界をひたすら呪い続ける、そんな己こそが世界でいちばん醜く、悍ましく、大嫌いだった。
故にアランロドは、己に課された宿命を今ここで、果たそうとしていた——己が産まれた一族、ドルイドたちが焦がれるほどに望んでいた「世界の終焉」の到来を。
母に捨てられて「望まれざる仔」と呼ばれていたアランロドは幼い頃から、こう言い聞かされて生きてきた——「きみは世界を滅ぼすために産まれて来たのだよ」と。そのためだけに、生きねばならぬのだと。
「生」とは何ものにも勝る苦痛だ。絶望だ。「死」とは「生」という地獄から逃れられる、唯一の救済だ。いつの間にか己の中に生まれたその信念を疑ったことは、アランロドは一度もない。
(死ねる、死ねる、死ねる、死ねる、死ねる……おれは、死なないと。はやく、はやく……)
アランロドは、ひび割れて変色した唇を動かし、ひたすらに呪文を唱え続ける。
もう、どれくらいの時間が経っただろうか。記憶も、己を形成する何もかもが、あやふやで、わからなくなる。
『やっと、みつけた』
不意に、鼓膜が無理やり震わせられるような、そんな感覚がした。
アランロドは落ち窪んだ、濁った黄金の目を上げる。すぐ目の前には、五、六歳くらいの幼い子どもの丸い顔があった。
『おまえのおなまえは、なんですか? おまえのおなまえは、なんですか! イルは、〈イル〉といいます』
子どもが、アランロドの耳に柔らかい唇をくっつけて、そう繰り返し問うてくる。
己は今、蛆が湧いて、肉が腐っている「人ではないもの」に成り果てているはずだというのに……何故この子どもは、こんなにも平気な顔をして、己に近づいてくるのだ。
子どもだから、何もわかっていないのか。万人が目を背けずにはいられないほどの、この醜さが。否、そんなはずはない。子どもにも、わかる。かつてのアランロドがそうだったのだから。
アランロドはそんな疑問が、胸を突いて仕方がなかった。
しかし、そんなアランロドの数多の疑問もお構いなしに、子どもはアランロドの手を取り、ぎゅっと握ってアランロドを無理やり引っ張るように立ち上がらせる。
もう立てないと思っていたのに、この子どもの、子どもとは思えない力強さに支えられて、アランロドは己の意思に反して立ち上がってしまった。
『イル。まいご? とやらに、なってしまった。です。おかあさんいなくて、さみしいので。おまえ、イルといっしょにいろ。ください』
アランロドはいつの間にか、子どもに手を引かれて路地裏を出ていた。
子どもは近くの石垣まで、ふらふらしているアランロドを連れてくると、その石垣にアランロドを座らせ、子どももアランロドのすぐ隣へと引っ付くように座った。
『みて。きょうのあさやけ、とてもきれい。です。いろがいっぱい』
『……』
子どもが空に向かって、指をさす。しかし、アランロドには無彩色の、どろどろとしたものしか見えない。空を見ているようで、何も視えてないアランロドの目を、子どもは聡くも察したらしい。
『みえない? じゃあ、イルの目。かったぽ、かしてあげる。ます』
子どもが小さな片手に呪符のようなものを貼り付け、『これ、せんせいからもらったの。しかくきょうゆう? できる。ます』と言いながら、アランロドの落ち窪んだ右目に手を当てる。そうして、今までの拙かった声が嘘のような、流麗な言葉を発した。
『我が眼は太陽が銀光。汝が眼は月が金光。白銀と黄金は溶け、我と汝も混じる。我らは片割れ。いざや、歌え。汝が鼓動。我が銀光が、片割れの心臓を燃え揺らそうぞ』
子どもが呪文のような、歌にも聞こえる言葉を唱え終えて、アランロドの目から手を離す。
すると、アランロドの右目に、痛いほどの眩い光が差し込んできた。アランロドは思いがけず目をきゅっと瞑って、何度かまばたきをしながら右目だけをゆっくり開く。
無彩色の世界に、炎のような——燃える雫が一滴。滴り落ちた。
その燃える雫は、子どもの瞳の色だった——橙色の瞳が閃光のような光の軌跡を描いて動き、子どもは再び、空に向かって指をさして見せる。アランロドは釣られるように、子どもの指先へと視線を向けた。
子どもの瞳と同じ色をした陽の光が頬を染めた山脈の尾根から漏れ出て、暁の空を赤く燃やしていた。赤、橙、金、銀、赤紫、青紫といったような光の粒子が宙を舞い踊って、きらめく。
あれが、子どもが言う「朝焼け」だ。
子どもの指が、尾根より顔を出す太陽から、頭上へと動かされてゆく。アランロドは無意識に、その指を視線で追った。暁の燃える空は、真上にくると淡い紫色と濃い藍色に移り変わって、色とりどりの星々の小さな光を瞬かせていた。白い泡沫のような光を湛えた星の川が、遥か遠い藍空に流れている。
息を呑まずにはいられない、光景だった。こんな、鮮やかな色のある世界を視たのはいつぶりだろう。
この子どもには、世界がこんな風に視えているのか。
アランロドは子どもへと再び視線を戻す。改めて目にした子どもは、空のような色をしていると何となくアランロドは思った。
銀灰色の、柔らかそうな、雲のような髪。毛先は朝焼けの光を微かに反射して、きらきらと七色に光っている。そして、現在の空と同じ、燃える暁色をした瞳。
不思議とこの子どもを醜いとは、思わなかった。思えなかった。
『くるしかった? つらかった? こわかった、です? でも、もうだいじょうぶ。ですよ。イルが、きたから。これからずうっと、イルがおまえのそば。いっしょにいてあげる。ます』
子どもが何やら、訳のわからないことを言い出す。そういえばさっき、この子どもはアランロドと出くわして早々の第一声が『みつけた』だった。
アランロドは困惑したまま、枯れ果てた声を何とか絞り出す。
『な、んだ。お前……見つけたって、何だ。お前なんぞにおれの、何がわかる』
『だって。みつけてって、〈たましい〉がさけんでた。おまえ』
子どもが、暁の瞳を真っ直ぐアランロドに向けてくる。
『イルは〈たましいのこえ〉がきこえる。だから、おまえがほんとは、ずっといいたかったこと。さけびたかったこと。ひろっただけ。ですよ』
アランロドは大きく目を瞠って、茫然と首を横に振る。
そんなはずはない。これは子どもの戯言だ、空想だ。
苦しい? 辛い? 怖い? そんな「人が持ち得る感情」を己が抱けるはずがない。誰かに、己を見つけて欲しいと願っていた? ——そんなはずは、ない。断じてないはずだ。
アランロドは思考が滅茶苦茶になって、己でも支離滅裂だと思わずにはいられない言葉が口をついて出る。
『違う。違う、違う、違う、違う。おれは怪物なんだ。そんなこと思わない。おれは、誰にも見つからない……誰にも見つかっては、いけないもの。おれ、は。生まれてきたらいけないもの、だったんだ。おれは、いずれ必ず全て殺すから。いつかお前も殺すから。おれは——呪われて産まれた仔、だから』
枯れた声が震える。身体もがたがたと震えだす。
駄目だ。駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ。これ以上、何も考えるな。何も思うな、何も感じるな。早く、己ごと、世界の全てを殺さないと——。
アランロドの中に、〈呪い〉として深く根付いた衝動が、アランロドの思考を濁らせる。
しかし、そんなアランロドの呪いの衝動をいとも容易く遮ったのは、やはり隣に座る、暁の瞳をした子どもだった。
『そんなことない。です。イル、おまえとあえてけっこう、たのしいし、うれしい。おまえがどんなものとか、呪いとか、どうでもいい。代わりにイルが、祝う。です——おまえとであえた。今日という日もいっしょに祝って。うたう』
子どもが、小さな口を軽く開けたかと思えば——腹の底にまで轟くほどの、聞いたことも無い歌声が響き渡った。
子どもの声とは到底思えない歌声だった。男の声、女の声、そして少年少女の声を自在に操り、弦楽器の音色にも似ている声音が滑らかにアランロドの鼓膜を揺さぶる。心臓を高鳴らせ、気分が不思議と高揚する。
子どもが歌う歌は、牛といった家畜を呼ぶための歌にも似ているし。狼とか、海獣とか、さまざまな獣の、まろい遠吠えにも似ていた。
子どもが、ぎゅっとアランロドの右手を握ってくる。そこでアランロドは、人の体温の温かさとその心地好さを、生まれて初めて知った。
子どもの視覚を共有して視る、さまざまな色がきらめいて光っている朝焼けの空。
子どもが歌う、魂を揺さぶるような歌声。
子どもが触れてくる、柔らかで、溶けるような体温の温もり。
(世界は……美しかった、のか。こんなにも)
子どもが勝手に与えてきたその全てが——世界を醜いと憎悪しているはずのアランロドに「世界は美しい」と思わせた。
一刻も早く止めてしまいたいと願ってやまなかった、消えつつあった己の鼓動が鐘の如く高鳴り、息を吹き返した。
無彩色のどろどろとした世界しか映さなかった目が、燃える暁の空の鮮やかさを取り戻す。
雑音など必要ないと塞がれていたはずの耳は、子どもの奇麗な歌声だけでなく、鳥の羽ばたく音、遠雷が轟く振動、木々をさざめかせる風の音までをも拾う様になってしまった。
痛みを忘れたはずの肌が、今は焼けるように痛みを感じる。じくじくと、全身が痛む。
アランロドが殺して捨て去ったはずのものが、全て蘇ってしまった。
同時に、「世界を醜いと呪うアランロド」は、殺されたも同然となってしまった。
己の手を握って、恐ろしいほど美しく歌う、このちっぽけな子どもの所為で。
『うまれてきてくれて、ありがとう。イルにあいにきてくれて、ありがとう。お祝いのうた。おまえにあげる。ます』
子どもが、弾けるような笑みを浮かべて、アランロドを見上げてきた。
人という生き物は、こんな笑い方も出来たのか。
子どもの丸い頬と目元はほのかに赤らんで、暁の瞳を縁取る綿毛のような白い睫毛は、見ていると触れたい衝動に駆られる。
アランロドは子どもの無邪気な笑い顔を見て、子どもの言葉を、歌を聴いて——光を取り戻した黄金の瞳から、ぼたぼたと大粒の水の珠を止めどなく零して、いつの間にか泣いていた。
嗚咽を漏らして、全身を震わせ、何度もしゃくりあげながらアランロドは泣き続けた。
それはアランロドの断末魔であり、産声であった。
大きく震えるアランロドの背中を、子どもの小さな手が柔らかく撫でる感触に、思わず叫び出したくなる衝動を堪えて。
子どもは歌いながら、泣いているアランロドへと何度も呼びかけ続ける。『もうだいじょうぶ。イルが、おまえのところにきたから』と。
死ねる。殺せる。ようやくここまで来たというのに──。
殺したい、殺したい、殺したい。この世の全てが、おれが、死んでしまえばいい。
この呪いは死んでも決して消えることは無い。
だというのに──生きたい。
生きたい、生きたい、生きたい、生きたい……生きたい……!
おれは、生きたかったのか。
そんなこと、知らない。知らなかった。
この子どもに出逢うまでは。
この気持ちは、何というのだろう。
痛くて、痛くて、痛くて、途轍もなく苦しくて。それでも、ずっと忘れたくないような。懐かしいような。この胸にずっと抱きしめて、そのまま一緒に眠りたくなるような。
安らぐような、ざわめくような、酷く煮え滾るような、何もかもが相反しているような、途方もない感情。
この子どもにだけ抱いてしまった、この激情の名は。きっと、誰にもわからない。
生まれて初めて。
この世界で初めて、唯一。
「おれ」という呪われた存在を見つけてしまったのは。
世界でいちばん醜く愚かな。呪いの化身である「おれ」を祝福してくれたのが、イルダナだった。
◇◇◇
微睡みの中で、少年のような心地好い声が「モア チュイル」と歌う声が聴こえる。
モア チュイル──「わたしの鼓動」。おれの鼓動。そんな最悪の意味を持つ、最悪の歌を恐ろしい程に美しく歌う、憎たらしい声。
「アランロド」
微睡みの中にあったはずの聞き慣れた声が、己を呼ぶ。現実で、痛いほどに己の鼓膜を震わす。
クノク砦の西棟。その屋上の石壁に背を預けて眠っていたアランロドは、己の名を呼ぶイルダナの声を以て、意識が完全に覚醒した。
屋内から出てくるイルダナを目にしたアランロドは、小さく息を吐く。
どうにも、嫌な夢を見ていたようだ。
「いい夢は見れましたか?」
イルダナが常なる無表情を崩さぬまま、小首を傾げて尋ねてくる。
他人には見分けなどつかないだろうが、アランロドにはわかる。あの顔は、いつもより幾分か、緊張している面持ちだ。
「……ああ。悪夢を見てた。最悪の目覚め」
この特異点が──イルダナさえ、いなければ。アランロドは迷わずこの世界を滅ぼし尽くすことができるし、その果てにアランロド自身も死ぬことができる。
「生きたい」なんてふざけたこと、二度と思うことも無くなる。
ようやく、楽になれるはず。きっとそうに違いない。アランロドは今でもそう、信じている。
故に、アランロドは挑むのだ。試すのだ──イルダナを、殺すことを。
今やその存在に恐怖じみたものすら感じる、イルダナという特異点をこの手にかけることを、アランロドはずっと希っていた。そのはずだ。
アランロドはいつもの如く、軽薄な笑みを口元に張り付けると、紛れ間もない「事実」を答えながら長杖を支えに立ち上がり、イルダナと対峙した。




