第22話 世界で二人だけ
不還の巨霊は、のろのろと頭蓋を揺らしながら、逃げ惑う人々に向かって巨大な腕を振り落とす。そこに風の如き疾さで割って入ったのが、イルダナだった。
「さて、はじめましょうか。還しの儀——万物を返し、帰し、還す者。我らは〈奉還の魔王〉が遣い、還し屋。不還の御霊よ、我らの声を聴き入れたまえ」
イルダナは始まりの祝詞を唱えつつ、全身を回転させながら鋭く矛を振るうと、不還の巨霊の振り上げられた腕を削ぎ落とす。半分に削がれた屍の腕は途端に弾け、黒い泡となって宙を漂う。
しかし、黒い泡は不還の巨霊の本体へと吸収され、腕の形を成そうと蠢いていた。しばらくもしないうちに、また腕は再生されるだろう。
これが不死の怪物たる所以である。不還の巨霊は〈歌術〉を以て鎮めねば、どれだけ攻撃しようと何度でも再生を繰り返し、蘇ってしまうのだ。
(人々が逃げ惑うこの狭い場所では、不還の巨霊を魂が共鳴しやすくなる呪紋陣に入れるのは難しい。ならば、言霊のある歌で鎮めるほかないか。付近の人々の魂にも、多少影響がでてしまうが……致し方ない)
イルダナは「シィ」と空気を切り裂くような音を立てて、短く息を吸った。
『モア チュイル 光弾ける 目覚めは暁
モア チュイル 燃ゆる眼 雲の糸 そのすべてが君のかたち
白銀帳が溢るる場所へ この手を引き 連れ出した
暁の雫 落つる灰の眼に 四季が還る モア チュイル』
イルダナが人のものとは思えない声量で、しかし、この世のものとは思えない美しい声音で、歌を歌った。その歌声は遍く魂を揺さぶり、陶酔させてしまう。
イルダナの歌声を受けた人々は皆、しんと静まり返り、遠い目をしてイルダナの声の余韻にいつまでも酔いしれる。おそらくしばらくは、気を失ったも同然のように彼らは動けないままであろう。
木々は歓喜を迸らせるようにざわめいて、風も踊るように吹き流れて泣いた。
無論、不還の巨霊もその場で動きを止めると、びりびりと黒い水の身体を震わせ、頭蓋の頸を大きくもたげながら天を仰ぐ。イルダナは、その頸目掛けて駆け出しながらも、その視線はカロス王のいるバルコニーを凝視していた。
カロス王は子ども擬きの呪術師が展開したのであろう常闇のベールによって隠され、おそらくイルダナの歌術の影響を受けていない。しかし、イルダナはその中にいる、あの呪術師の呼吸音だけに集中して、耳を澄ませていた。
そして、確かにその呼吸音は一瞬だけ引き攣ったのだ。イルダナが「モア チュイル」と歌い出した、その瞬間に。
それを間違いなく聞き取ったイルダナは、一度目を伏せて深いため息を吐き出しつつも矛を手に、不還の巨霊に向かって大きく跳ぶ。
「大地へお帰りなさい——いましばらく、かの王の帰還を控え。鎮まりたまえ」
不還の巨霊の頸を、矛で刎ね飛ばす。柄を握る手に、たくさんの人々の肉と骨を断った感触が、生々しく蘇る。恐怖で脂汗が滲み、視界が歪んで点滅し、全身が大きく震えた。
それでもイルダナは、矛から決して手を離さなかった。
不還の巨霊の全身が泡となって空に弾け飛び、黒い雨が降り注ぐ。
不還の巨霊を鎮めたイルダナは着地すると、思いがけずよろめいて、地に片膝をついた。やはり未だ拭い去れぬ恐怖による吐き気が込み上げてきて、片手で口を押えながら必死に堪える。
「イルダナ! 一人で還しの儀を執り行えるようになるなんて、よくやった! 健気で可愛すぎる! ……ハルミカ殿下、こっちだ!」
そこで、カシュガルとハルミカがこちらへと駆けてくる姿が視界の端に映った。どうやらハルミカは無事、カシュガルを見つけ出してくれたらしい。
イルダナは二人の姿を目にして思わずほっと息を吐くが、すぐに全身が粟立つような強烈な殺気を真正面から突き刺され、咄嗟にこちらに向かってくる二人へと声を張る。
「耳を!」
「!」
殺気の正体は──ついさっきまでカロス王の隣にいたはずの、子ども擬きの呪術師だった。
やはり、不還の巨霊を鎮めたことによって、完全にイルダナたちの居場所はカロス王たちに把握されてしまったらしい。
イルダナの一言だけで察したのだろうカシュガルが、瞬時に己の耳元を魔法で凍らせると、ハルミカの耳を両手で塞ぐ。
それを視界の端で確認したイルダナは、すぐ目の前まで迫って来ていた子ども擬きの呪術師に向かって、歌術を組み込んだ咆哮を腹の底から轟かせた。猛獣の如き、凄まじい声音だった。
呪術師は素早く長杖を振るって、常闇のベールで自身を包んだが、イルダナの咆哮はその常闇のベールをばりばりと破くように弾き飛ばす。
破れたベールの隙間から覗く呪術師が、ゆったりと首を傾けた。
「おや、おや。これは何とも。想定外でございます」
「何が想定外。わざと食らったくせに……〈金枝〉の呪術師殿」
イルダナの「金枝」という呼び名に、呪術師が「気づいておられたのですか?」と穏やかな声色で反応する。イルダナは常なる無表情のまま、珍しく苦々しい声で答えた。
「会った時から、どうにも臭いなとは思っていましたよ」
否、「金枝」という言葉を軍議室で見つけた時から、気づいていたも同然だった。しかし、それでもイルダナは、信じたくないと無意識に思っていたのだ。どれだけ憎たらしいと思う男であろうとも——「その男」をこれから殺し合いも避けられないであろう、敵として見なさなければならないことを。
「ですが、さっきので確信しました……『モア チュイル』を聴いた瞬間、如何にも嫌そうに呼吸を乱しましたからね、おまえが。そして、あの歌を知っているのは、この世界でたった二人だけ。歌を作った私と——あの歌の詩を考えた、アランロド。おまえだけです」




