第20話 真なる勇者
「その者の〈目〉を見ることは、僕が先約を取っている。ゆえに触れるな。俗物が」
不意に、唸るような低い声が、風と共にイルダナの耳を撫でた。
それに併せて、イルダナの目を貫こうとした王笏がきらめく剣の一閃に弾き飛ばされ、宙を舞う。王笏が床に落ちた時には、イルダナとカロス王の前にハルミカが割って入って来ていた。
女吟遊詩人の装束を脱ぎ捨て、いつもの格好になったハルミカは、王笏を弾き飛ばされて三歩ほど後退ったカロス王に、剣の切っ先を向ける。
呼吸すら止めて、瞠目したままハルミカの背中を見つめていたイルダナは、咄嗟に声を上げた。
「……ハルミカ、何をして……!」
「抗え」
ハルミカが微かに首を傾けて、イルダナに顔を向ける。その顔はやはり、カロス王への恐怖によって酷く蒼ざめていた。
しかしそれでも、イルダナを背に庇うように立つハルミカの横顔は何よりも力強く見える——「王者」の風格が、確かに漂っていた。
「貴様はカロスの兵器などにはならぬだろうが。ゆえに、否定せよ。抗うことを思い出せ。戦え——どれだけ己が怖くてもよい。恐れるままでよい。貴様を信じる、僕を信じよ。貴様には、僕が共にいる。僕と同じく、斯様な俗世で身の程知らずな夢を追い求めるというのならば、その絶大なる恐怖とやらを利用してみせよ。貴様が貴様自身の才を恐怖しているからこそ、貴様は誰かを守り、救い、求めるものを得ることができる」
ハルミカが恐怖で震える手で、剣を握りなおす。
「僕は戦う。抗い、求め続ける。貴様も、共に来い」
イルダナだけでなく、己にも言い聞かせるようにそう言葉を切って——ハルミカは轟くような声で、イルダナを呼んだ。
「恐怖を手に戦え。イルダナ!」
イルダナの中で、己の魂を雁字搦めになるほどに縛っていた鎖がボロボロに朽ち果て、緩やかに呪いが解けていくような感覚がした。
(私の恐怖が——私が私を恐怖しているからこそ、誰かを守れる、誰かを救える。怖がりなままでもいいのか。この恐怖は、きみたちを守れるのか、救えるのか。『人殺しの怪物』に成り果てるやもしれない私なんぞを、信じてくれるのか)
そこまで自問自答して、イルダナはすぐに思い至った。
(ハルミカは決して、嘘を吐かない。そのうえ今は、ハルミカが共にいてくれる)
ハルミカが宣う、一言一言、全ての言葉がイルダナの魂を揺さぶり、烈しく燃え上がらせた。
そして何より、カロス王という紛れもない「恐怖」へと立ち向かうハルミカの姿が。
「共にいる」と言ってくれた——今までのハルミカの全ての言動が、イルダナに何にも代えがたい勇気を迸らせた。
(すべては、私次第——ハルミカの信と期待に、私は応えたい)
「貴様のその力を人殺しの才にするか、救いの才にするか。それは貴様次第ではないのか?」という先刻のハルミカの言葉と共に、「あの男」のかつての言葉もイルダナの脳裏に蘇る。
『あんたが世界で一番怖いのは、あんた自身? それ、最高では。だって、自分自身に勝ち続ければ、この世界にあんたは敵無しってことだろ?』
『そのまま、死ぬまで奇妙な怖がりでいてくれ』
あの時は、それらの言葉を受け入れられなかった。自分にはもう逃げることしかできないのだと、そう思い込んでいた。
(私はもう、私から逃げない。何も諦めない。戦い、抗い、求め続けていこうじゃないか。たとえこの先、誰が立ち塞がろうとも)
しかし、今は違う。今なら受け入れられる。イルダナは、覚悟を決めたのだ——己が追い求める遍くもののためならば、己という「恐怖」と、この魂が潰える時まで戦い抜き、勝ち続けるのだと。
「ほう? まさか、そなたの方から帰ってくるとは。殊勝なことだな——ハルミカを捕えよ」
ハルミカを前にして目を瞠っていたカロス王が、勝ち誇った笑みを浮かべて命を下す。
その命を受け、イルダナを取り押さえていた隊士たちがこちらに背を向けているハルミカを捕えようと、意識をハルミカの方に向ける。イルダナはその隙を見逃さなかった。
「失礼」
「は、え……ごはっ」
イルダナが一言断って、拘束が緩んだ片腕を僅かに持ち上げると、隣にいた隊士の鳩尾に肘で鋭い一撃を放つ。隊士は殆ど声を出す間もなく気を失い、その場に伸された。イルダナは伸された隊士の腰から、鞘に納められたままの剣を素早く引き抜く。
柄を持つ手は、未だに拭えぬ己への恐怖で震える。当然、血の気が引いて眩暈もしてくるし、吐き気にも見舞われる。しかし、今のイルダナには一切の迷いも躊躇もなかった。ハルミカと共に戦うためなら、如何なる恐怖による苦痛も耐えられる気がした。
鞘付きの剣を手にしたイルダナは恐ろしく流麗な動きで剣を振るい、他の隊士たちのこめかみやら顎を的確に剣で打ち据えて、全員を音も無く平伏させてしまう。
そのままイルダナは立ち上がるのと同時に、鞘付きの剣をカロス王の頸目掛けて鋭く投擲した。
「王よ」
イルダナが剣を投擲することを予測していたのか、子ども擬きがカロス王に向けて長杖を振るう。すると、カロス王を包み込むように常闇のベールの如き幕が顕現し、カロス王に直撃する寸前で剣が弾き飛ばされる。
「この手狭な部屋では分が悪い。場所を変えましょうか」
「は、イルダ……」
その間にイルダナは己を呼ぶハルミカの声を遮って、軽々とハルミカの身体を己の肩に担ぎ上げると、そのまま勢いよく駆け出し、軍議室の窓を突き破って宙へと身を放り出した。
一瞬だけの浮遊感に攫われたハルミカの呼吸が、珍しく引き攣る音が耳元で聞こえる。アナム心臓城の上階にあった軍議室から外へと飛び出せば当然、遥か地上へと落下していく。
それにも構わず、イルダナは空中で器用に身を捻って、ハルミカを片腕で抱えたまま心臓城の塔や屋根を何度か足場にして跳び、落下速度を落としながら、難なく御前広場がある中庭の端っこへと着地して見せた。
イルダナに解放され、膝に両手をついて息を荒らげていたハルミカが掠れた声を忌々しげに振り絞りながら、けろっとしているイルダナの胸倉へと掴みかかる。
「イルダナ、貴様……! 突飛な行動をする時は、事前に言え! 殺されたいか……!?」
「さっき、きみは私が勇者のようだと言いましたね。それ、こちらの台詞です。まるでハルミカは——勇者だ」
「はあ? 斯様な時に、何を馬鹿げたことを……」
ハルミカの恨み言も耳に入っていないかのような、イルダナのどこかぼんやりとした応えに、ハルミカが怪訝そうな声を上げる。それでもイルダナは、凪いだ声色で語り続けた。
「勇者とは、勇気があるだけでなく、他の誰かの勇気をも奮い立たせることができる者のことです。そして、ハルミカは『世界一の怖がり』である私の……藁よりも頼りない勇気を奮い立たせ、私を変えてくれた」
イルダナの常なる無表情は変わらない。しかし、ハルミカに向けるその声は、何よりも無邪気で、喜びに満ち溢れているようにも聞こえた。いつもとほとんど変わらぬ、抑揚のない、無機質な声だというのに。
「ああ、間違いありません。きみは勇者だ——ありがとう、ハルミカ。あと、きみの『殺されたいか?』って脅し文句、結構好きです。じゃんじゃん言ってもらって構いませんよ」
ハルミカなら、イルダナのことも殺せるに違いない。その確信も、イルダナにとって非常に喜ばしいものだった。




