〈預言の歌〉
◇◇◇
揶揄うような口笛の音色に耳を擽られ、イルダナは目を覚ました。
岩壁に反響する滑らかな口笛は音程を外しながらも、徐々に複雑な旋律を奏ではじめる。そのちぐはぐな旋律が、この世で自分ともう一人しか奏でることのできないもの——イルダナとアランロドの二人で作った歌だとすぐに気がついて、イルダナは黒檻の中から外の仄暗い闇をじっと見つめた。
「アランロド」
イルダナは数日前、自身を奴隷商人に売り飛ばした男の名を呟いた。
すると、口笛の旋律は途絶え、息が苦しくなるほどの重い静寂がのしかかる。しかし、すぐにそれはいつもと一片も変わらぬ、明るく陽気な低音の声で破られた。
「よお」
頭から全身が外套に包まれたアランロドは、岩壁に寄りかかって両腕を組み、鉄格子の向こう側で闇に紛れて佇んでいた。
外套から半分覗く、白皙の顔の口元が普段と変わらず薄笑いを浮かべているのがわかって、イルダナは小さく息を吐き出す。
「……ここは?」
「エーディーン王国。そんでもう既にお察しの通り、奴隷市な。あんた、見世物小屋に買われたらしいぜ。良かったな」
「そうですか。まさかおまえに売り飛ばされ、見世物奴隷として生まれ故郷へ帰ってこられるとは。感激ですね」
一切の動揺も感じさせないイルダナの様子に、ますます薄い唇に濃い笑みを滲ませて、アランロドがその身を屈めると、鉄格子に顔を寄せてきた。
「なんだ。怖がらそうと思ってわざわざ来たのに。あんた、世界一の怖がりなんだろ?」
「怖くなどない——おまえだけは」
気のないイルダナの返しに、「自称怖がりめ」とアランロドが喉の奥でくつくつと不気味に笑った。イルダナは全身にきつく巻かれた鎖を鳴らし、固まった身体を身じろぎをしてほぐしながら、アランロドに短く尋ねる。
「それで? 私の身体で稼げましたか?」
「ああ。あんたのおかげで、たーんまりだぜ。流石は災いを招くバケモノ……〈梟の忌み仔〉サマだ」
「でしょうね」イルダナはいつも以上に抑揚のない無機質な声で、小さく頷く。まるで他人事であるかのようなイルダナの反応に、アランロドが軽く鼻で笑った。
「……奴隷の腐った性根が未だに抜けてないんだなあ? あんたは」
心底嘲るようなアランロドの声色に、思わずイルダナは一瞬だけ呼吸を乱した。それを目敏く察したのだろうアランロドが、わざとらしくイルダナを嬲る。
「今、あんたをその檻の中にぶち込んだ張本人がここにいるんだぜ? こういうときはまず、どうして? って、泣いて怒るところだ。なのにあんたは、いつまで経ってもされるがまま。大人しく汚い鎖に巻かれて、おねんねまでしてる。本当に、奴隷のお手本だよ」
アランロドの侮蔑らしい言葉を聴いても、相変わらずイルダナは黙ったまま。呆れたようにアランロドが肩を竦めて見せると、よいしょ、と大きく声を漏らして立ち上がった。
「戦わない、武器も持たない、自分の身すら守ろうとしない。しまいには抗うことさえも忘れちまった。まるであんたは——息をするだけの、壊れた道具だな。何の役にも立たない。面白みすら無い」
アランロドの陽気な声から微かに滲み出た、確かな怒気。それを感じ取ったイルダナは無意識に俯かせていた顔を弾かれたように上げて、アランロドを見る。アランロドがあからさまに強い感情を表に出したのが、あまりにも珍しかったからだ。
アランロドは、既にこちらに背を向けていた。怒気など微塵も感じさせない、「へへへ」といういつも通りのおどけた笑いを零して、檻の前から立ち去ろうとする。
「何処へ行く」
咄嗟にイルダナは、自分でもわけのわからない言葉でアランロドを呼び止めた。
アランロドが一歩立ち止まると、背中越しに答える。
「何処でもいいだろ? あんたには、関係ない」
「関係あるに決まってるでしょう。私とおまえは永く、〈アイティナラント・ルグ〉を探して旅をしてきた——」
詰め寄るように声を張るイルダナを、アランロドの軽薄だが低い声が遮った。
「やっぱり、こんなところ来るんじゃなかった」
アランロドが僅かに顔を傾けて、こちらを振り向く。イルダナは外套の影から垣間見えたアランロドの左目と一瞬だけ目が合って——呼吸が、止まった。
「最後の最後まで……死ぬほど癇に障るよな、あんたは」
外套から覗くその目には、イルダナがこれまでに経験したことがないほど、強烈な憎しみが込められていた。
全身が粟立つほどの憎悪を突き付けられ、身体が石のように固まってしまったイルダナ。だが、アランロドはそれにも構わず。また、はじめに奏でていた旋律の続きを口笛で軽やかに吹き鳴らしながら、檻の外の薄暗闇にぼんやりと消えた。
再び痛いほどの静寂に沈んだ黒檻の中。イルダナは微かに震える息を堪えて、かつてのアランロドがくれたまじない布の下にある両目をきつく閉じる。
幻のように消え去ったアランロドが終始口笛で奏でていた旋律。あれは、アランロドが嫌々ながらも詩を考え、自分がメロディをつけた歌の一つ。その滑らかな音色が、たった今ぶつけられた激情と同じくらいにこびりついて、何故か頭から離れない。
ふと、それを口ずさむ、いつかのアランロドの覚束ない歌声が鮮明に蘇ってきた。イルダナは釣られて、その歌を無心で同じように口ずさむ。
アランロドが考える歌の詩は、どれも古い言葉ばかりで、その詩に込められた本当の意味はよくわからないものが多い。
いざたまえ 炎の御子よ 我らが王 その御魂を燃え揺らせ
詠えや 詠え 影の御子よ 我らが王 その御魂に安らぎをもたらせ
光と闇を生みし末の枝葉 双生の神子 かの地に帰しとき
我らが王 巨いなる胎動を始む
応えや 応え 双生の神子らよ 我らが王 その御魂のもとへ還りたまえ
歌った後に、生まれて初めて、歌ったことを少しだけ後悔した。
いつも控えめな声で歌を口ずさむあの男の隣で、ただひたすらに——互いの魂が融け合うまで共に歌いたくなって、堪らなくなったからだ。
だが、そんなささやかな日常は、もう還ってはこない。
そんな信じたくもない確信がすとんと胸の深奥にまで落ちてきて、イルダナはぼんやりと途方に暮れるしかなかった。




