〈揺籃の歌〉
小さなバザール通りは、しんと静まり返っていた。
通りを忙しなく行き交っているはずの客どころか、大声で「いらっしゃい!」と客を呼んでいるはずの露店の主人たちさえ、人っ子一人姿が見当たらない。
その代わり、バザール通りを抜けたすぐ先にある小さな広場から、ギターの音色と伸びやかな歌声、大勢の人々の手拍子が聞こえてくる。
広場の中心には客も店の主人たちも問わず、バザール通りの全ての人々が輪になって一人の若者を取り囲んでいた。
若者から流れ出る軽快なメロディに合わせて、男達は力強く足を踏み鳴らし、女達はくるりと回りながら手拍子を鳴らして、子ども達は野良犬と共にぴょこぴょこと踊っている。
まさにこの広場は、季節外れの祭りでも催されているかのような状態であった。
この即興の祭りの中心にいるのは、くるくると華麗に踊って見せながらギターを搔き鳴らし、どこまでも響き渡りそうな、声変わり前の少年の如き高く美しい声で歌う一人の青年——もしくは女性。
腰まで届く銀灰色の艶やかな長髪をうなじの辺りで一つに組紐で括り、スーツにもドレスにも似た不思議な装束の長い燕尾裾を踊る度にふわりと浮かせ、ピンヒールの編み上げブーツを鳴らしながらステップを踏んでいる。
目元は奇妙な一つ目紋様が描かれた布で覆われていて、白皙の顔の半分はうかがえない。異形の耳は梟の羽角の如く長いが、上手く飾り布で隠してある。
男にも女にも見える性別不詳の不思議な若者——イルダナは、「触れるとどんな武器も錆び付かせる、錆色狐狼の英雄譚」を面白おかしく綴った自作の歌を最後まで歌い上げると、派手にギターを搔き鳴らして観衆に一つ頭を下げて見せた。同時に、観衆から大音量の拍手が轟き、歓声と指笛が飛び交う。
イルダナがそばに置いていた大きな麻袋を前に差し出すと、すぐに観衆から投げ銭が入れられ、瞬く間に袋の中身が溢れんばかりにいっぱいになった。
「皆さん、いつもありがとうございます」
イルダナは、少年のようなよく通る声を張って、再び軽く頭を下げる。すると、次々に観衆達がイルダナへと気さくに話しかけてきた。
「いやあ、今日の歌も最高だったぜ! イルダナ!」
「ほんと、イルダナの声は気持ちがいいよな。歌物語も面白ぇし! なあ、今日こそ飯にでも行かねぇ? レディ」
「ちょっと、何どさくさに紛れて口説いてんのよ、下手くそ! それに、イルダナは男の子だもの。ねえ、そうでしょ? イルダナ!」
ふと、イルダナの近くにいた男衆と女衆が今にも火花が散りそうな勢いで互いを睨み合うと、イルダナへ詰め寄ってくる。イルダナはひらりとさりげなく彼らから距離をとると、鉄仮面の如き無表情のまま小首を傾げて見せた。
「さあ、どうでしょう。実際に皆さんへお見せして、私の正体を知ってもらうのも良いですが……」
ついさっきの演奏ではだけてしまったのであろう。イルダナは微かに白い胸元が露わになった、己の乱れた衣服へと手を掛ける。観衆は皆、滅多に見ることができないイルダナの衣服の下の白い肌に魅せられてしまったかのように釘付けになって、揃って息を呑む。しかしイルダナは、乱れた衣服をきっちりと整えて見せた。
「やはり、秘密です。だって皆さん、謎の多い私が知りたくていつも来てくれるのでしょう? 食い扶持はもっと末永く繋いでおかないと」
イルダナはやはり真顔のまま、抑揚のない声で淡々と言い放つ。そして、何事もなかったかのように肩に掛けていたギターを外して、収容箱に収め始める。そんなイルダナの言動に観衆達は驚いたように目を丸くして、一度互いの顔を見つめ合うと、すぐに声を大きく上げて笑い出した。
「おいおい、俺達を食い扶持扱いかよ! やっぱ面白い女だぜ、イルダナは。こちらこそ、末永くここで歌ってくれよな!」
「違うわ。イルダナは色男よ! あたし達はいやらしい野郎共とは違って、イルダナの歌が大好きで聴きに来てるんだから!」
「ぼくはイルダナが男の人でも女の人でも、どっちでも大好きだよ!」
「ほっほっほ。謎の多さも、イルダナの魅力の一つじゃのう」
どうやら性別の追及については上手く誤魔化せたらしい。
イルダナは観衆達に静かに頷いて見せると、ギターを収めた収容箱を背に担ぐ。
「それに、私は世界一の怖がりですので。秘密を知られると、恐ろしくて夜も眠れないんです」
「噓だあ。その鉄仮面みたいな無表情が崩れたとこなんて一度も見たことねぇし、心臓に毛でも生えてそうな態度のくせに。お前が怖がりだなんて」
観衆の一人の笑いの混じった声に、イルダナは「本当ですよ」と短く返すと、投げ銭の詰まった麻袋を持ち上げて、観衆を改めて見回した。
「では、私はそろそろ帰らせていただきます。皆さん、今日も私と音楽を歌って踊ってくださり、ありがとうございました」
観衆の「もっと歌ってくれ!」と惜しむ声に後ろ手を軽く振って見せ、イルダナは足早に近くの路地裏へと入って帰路についた。
◇◇◇
この小国を訪れた時より、イルダナは国境に近いバザール街の端っこに位置する下宿にて、一月ほど滞在している。普段は箱馬車を牽いて旅をする身であるが、共に旅する同伴者が賭け事に大負けして道中で路銀が尽きかけたために、現在はバザール街に身を寄せて、イルダナが一人で歌を歌うことで路銀の貯えを増やしていた。
そこそこ年季が入っている小さな木造小屋の下宿に帰り着いたイルダナは、「ただいま帰りました」と声をかけて中に入る。すると、爪先に柔らかいものが当たった感触がして視線を下げた。
「帰っていましたか——十日ぶりですね。アランロド」
そこに居たのは、片腕を枕にして胎児の如く丸まって床に転がる瘦せぎすの男——イルダナの旅の同伴者である、アランロド。
肩につくほどで切り揃えられた美しいプラチナブロンドの髪は、この行方不明だった十日間で器用な誰かに切って貰ったのだろう。そして、いつもは病的なまでに蒼白い端整な顔は、ほんのりと赤みがかっている。
どうやら酷く酒に酔っているらしい。
くっきりと浮かび上がった黒い隈に塗られた両目は閉じられ、アランロドは「んー……おれは胸よりもケツよりも、太腿派……太腿にぜんぶ賭けさせろ……」とだらしなく寝言らしきものを上げている。
しかも死ぬほどくだらなく、品がない寝言。女性と遊んでいるのか、それとも賭け事をしているのか、いったいどちらだ。
イルダナは後ろ手に戸を閉めて、盛大に酔いつぶれているアランロドに小さく息を吐きながら、部屋の中心にあるテーブルにギターと今日の稼ぎの詰まった麻袋を置いた。
「アランロド」
荷物を下ろしたイルダナはアランロドを呼びつつその身を屈ませて、酔いつぶれた痩せぎす男を近くで観察した。
アランロドからは女物の香水が鼻を突くほどに匂うし、しかもよく見れば、殴られでもしたのか、アランロドの人形のように美しいはずの顔には、あちこちに赤黒くなった血がこびり付いている。高く筋の通った鼻梁は他の箇所よりも赤くなって微かに腫れており、薄い唇の端は切れていた。
イルダナはまた小さく吐息を吐いて、呆れた声を出す。
「随分と長い間、女の人のもとを渡り歩いていたようですが。それに加え、また酔った勢いで喧嘩でもしたんですか? おまえ死ぬほど喧嘩、弱いくせに」
そこでようやく、アランロドが「うるさい。太腿のロマンもわからない面食いめ」と掠れた低い声をまともに返してくる。相変わらず濃い隈に塗られた両目を閉じたまま、アランロドは低音の声をゆっくりと紡いだ。
「別に? 太もも……お嬢さん方と仲良くしてたら、どこぞの知らん男に嫉妬されただけ。男の嫉妬は醜いよな?」
アランロドがそう言って、「へへへ」と軽薄な笑い声を小さく漏らす。
イルダナはアランロドの言い分を無視して、淡々と尋ねた。
「起きれますか?」
「ん……起きれない。起こして、クソガキさま」
「クソガキが余計ですね。変態クソ野郎」
アランロドが金糸のような長い睫毛を震わせて、気だるげに首を横に振る。
イルダナは短く鼻から息を漏らすと、横たわっているアランロドを慣れた手つきで抱き起こし、アランロドの長い腕を己の首に回してやりながら担ぎ上げた。
アランロドはひょろりとした痩躯のくせに、人並み外れた巨人の如き長身なので、決して小柄ではないはずのイルダナの全身はすっぽりとアランロドによって覆われてしまう。それにも構わず、イルダナは持ち前の常軌を逸した怪力を以て、軽々とアランロドの今にも折れそうな巨躯を寝台まで運んだ。
寝台に座らせて、未だふらふらと揺れているアランロドをそのままに、イルダナは台所へと向かいながら背中越しに声をかける。
「何か食べます?」
「ミルク粥」
イルダナの問いに、アランロドが間髪を容れずに即答した。
イルダナは内心でやっぱりと呟きつつ、アランロドの好物であるミルク粥を手早く作ってゆく。あっという間に部屋の中は甘やかなミルクの匂いに満たされ、イルダナはある程度冷ましたミルク粥を寝台に座るアランロドへ差し出した。
「どうぞ」
「うん」
アランロドが頷いて、未だ酔っ払った様子の赤ら顔のままミルク粥を受け取り、木製の匙で掬ってゆっくりと食べ始めた。そんなアランロドを、イルダナは椅子に座ってテーブルに頬杖をつきながら眺める。
本日のアランロドはいつにもまして随分と、機嫌がよろしいようだった。いつもの如くへらへらとした笑みを浮かべているアランロドが、ついに鼻唄まで歌い始めた。これはまた珍しいと、イルダナは密かに驚く。
アランロドの歌は、いつも音程と調子が微妙に外れていて、拙い印象が強い。それでもイルダナは、アランロドの歌う姿に思いがけず堪らないと、テーブルに置いていた収容箱からギターを素早く取り出して、アランロドの鼻唄に合わせて静かに弦を爪弾き始めた。
「……おれ、音楽嫌いだっていつも言ってるだろ。歌うのも下手くそだし。やめてくんない? そういうの」
ふとアランロドが、鼻唄を止めて顔をしかめながら如何にも嫌そうな声を上げた。
アランロドの珍しい色をした神秘的な瞳と、久々に目が合う。といっても、イルダナは視界が閉ざされないように〈呪術〉が掛けられた一つ目紋様のまじない布越しであるので、アランロドにイルダナの目は見えていないのだが。
(そんなにも気持ちよさそうに鼻唄を歌っておきながら、いつも何を言っているのやら)
イルダナは内心でアランロドからの文句にそんなことを零しながら、口からは別の言葉をアランロドに返してやった。
「たまにはいいでしょう。私が先月稼いだ金を一晩で溶かし果たした酔っ払いへの、ささやかな嫌がらせです」
イルダナはギターを爪弾く手を止める気はない。それを察したのか、アランロドはミルク粥を一気に食べてしまうと、大袈裟に肩を竦めて見せる。
「いつもはもっと辛辣に毒吐くくせに。たまにあんたがそういう風にさらっと嫌味を言うの、ちょっと怖いんだよな。はあ、仕方ないか」
アランロドが小さくため息を吐き出した後、ミルク粥を食べ終わった器を脇に置く。そうして、イルダナの静かなギターのメロディに合わせて、言葉を紡ぎながら小さな声で歌い出した。珍しく、イルダナの機嫌を取るつもりらしい。
やはり、相変わらず音程と調子が外れている控えめな歌声ではあったが、イルダナは沸々と湧き上がってくる楽しさを顔には出さないままに嚙み締めつつ、ギターを更に掻き鳴らし、アランロドの拙い歌声に合わせて自分も同じメロディを違う音程で歌った。
二人の声と音程が重なり、混じり、溶け合う。まるで、舞踏会の中心にて二人で手を取り合い、身体を重ねてダンスを踊るように、イルダナが拙いアランロドの歌声をリードした。
最初は互いに遊んでふざけ合うような、少し笑いの混じった歌声だったものが、徐々に真剣味を纏ってくると、蕩けて煮え滾るような熱を帯び、情事やらにも勝る快感が二人の全身を突き抜ける。
元々一つであった音が、無理やりに別たれていたのではないかという錯覚に陥ってしまう。そんな互いの歌声がようやく絡み合って、不恰好であっても一つの音楽へと還るこの現象は、互いの魂が熔け合う程の凄まじい熱情を覚えずにはいられない。
歌いながらこちらを下から覗き込むように見つめてくるアランロドの瞳が、気持ち良さそうにどろりと熱で溶けて、イルダナを鋭く睨む。
音楽が嫌い? そんな瞳をしておいて、よく言う。この男の魂は裏腹なのだ。
色めくアランロドの視線を直接睨み返すことが出来ないのがもどかしくて、イルダナは思いがけず獰猛さが滲んだ吐息を歌声の合間に小さく唸るように漏らす。
イルダナとアランロドがデュエットを奏でる間は、このうえなく楽しくて烈しく、気持ちがいい時間がゆったりと流れているように思えた。
ロロロン、とギターの柔い音色の余韻を残して、二人は歌い終わる。
久々のアランロドとのデュエットに、名残惜しさを感じつつも、イルダナはほのかに火照った吐息を細く漏らして顔を上げた。
ふと、寝台に座っていたアランロドがおもむろに立ち上がって、案外しっかりとした足取りでこちらに近づいてくると、イルダナがテーブルに置いていた今日の分の歌の稼ぎを確認する。
「いつも、歌だけでよくこんなに稼げるな。あんた、〈還し屋〉なんぞより、歌手やら音楽家の方がよっぽど向いてるぜ。〈還し屋〉最弱のおれが言うのもなんだけど」
アランロドの顔色は、すっかりいつもの病的な蒼白さを取り戻していた。さっきまでふらふらに酒と音楽に酔いしれていた人物とは思えないほど、冷たさを感じる嘲笑を浮かべて、アランロドがイルダナを見下ろしてくる。
何やらいつもと違う様子へと変わったアランロドに、思わずイルダナは首を傾げた。
「おれたちの『宝探し』も、ここらが潮時だな」
アランロドが嘲笑の混じった低い声で冷たく言い放つ。
イルダナは一つ目紋様のまじない布の下で微かに目を瞠ると、その場に素早く立ち上がってアランロドを睨むように見上げた。
「……何です。その言い草は。いつも以上に寒い冗談か何かですか?」
「珍しくあんたの方は鈍いな? 本気で言ってる」
そう言って、アランロドが目を眇めた瞬間。戸を押し破って、部屋の中に五、六人ほどの男たちが突如としてなだれ込んできた。
襲い掛かってくる男たちに抵抗しようとイルダナは反射的に一瞬身構えたが、すぐに身体が大きく震えて思うように動かなくなり、呆気なく男たちに拘束されて頭ごと全身を床に押し付けられる。
今や酔っ払っている様子の欠片も無いアランロドが、飄々と小首を傾げて、床へと強制的に平伏したイルダナを覗き込むように見下ろしてきた。
「今日の分のあんたの稼ぎ、ついでに貰っていくな。いつもご苦労さん。礼を言うぜ」
アランロドが、投げ銭が詰まった麻袋を掲げて見せる。イルダナは自分を取り押さえる男たちを一瞥した後、至極冷静にアランロドを見上げた。
「……彼らは、身なりを見るに奴隷商人ですか」
「ああ。今あんたに暴れられたら、ひ弱なおれたちじゃ手に負えない。だから、しばらくお休み」
アランロドが長身の身を屈ませると、いつの間にか手品の如く取り出した杖で、思い切りイルダナの顎を殴りつける。脳を激しく揺さぶられたイルダナは、そのまま意識を手放した。




