第17話 名前の付けられない激情
◇◇◇
ハルミカは御前広場を擁する中庭を抜け、城内へと続く渡り通路を進みながら、内心で酷く驚愕していた。
イルダナが「御前広場に人を掻き集めとく」と言い残して、別れた後。ほどなくして、イルダナが向かったのであろう御前広場の中心には次々と大勢の人が集まりだし、ましてや城内の人々までもが御前広場から聞こえてくる「男のイルダナの声」に釣られて、ハルミカに見向きもせず通り過ぎてゆくのだ。
たった今も、恍惚とした様子で御前広場の方へと駆けていく、第二師団の隊士と思われる者たちとすれ違う。
確かに、遠くから聞こえてくるイルダナの歌声は不思議と気分が高揚する。気がつけば、イルダナの歌声のメロディに合わせて、首をゆらゆらと揺らしたくなってしまう。
今は一人でいるはずなのに、イルダナがすぐ傍に在るような──何となく、心強くなるような感覚がある。
そんな妙な気分を堪えて、ハルミカは歩調を速めた。
(また、何か怪しい〈歌術〉とやらでも使っているのか……だが、そんなものを使わなくとも、奴の周りには自然と人が集まる気もする。あらゆることに万能で秀でており、あらゆる人々に好かれる、〈勇者〉のように……)
そこまで思い至って、ハルミカは己の思考を打ち消すように、首を横に振って小さく息を吐いた。
今は、そのようなくだらぬことを考えている場合ではない。
ハルミカは城内の壁に片手で触れながら、己の歩数を数えて進んでゆく。ハルミカは城内に古くから取り付けられている調度品等を印の一つとして認識し、己の歩幅と歩数を計算することで、幼い頃から城内の構造を頭に叩き入れていた。
ふと視界が明るくなったので、ハルミカは触れている壁を伝って腕を伸ばす。すると、城壁に取り付けられた燭台に手が触れた。この燭台で、十二個目。
(つまり、秘密の中庭まで、あと百六十七歩)
思考を巡らせながら、ハルミカは慎重に城内を進む。今のところ、ひと気は殆ど感じられない。イルダナの歌声も聴こえなくなった。つまりは、秘密の中庭まであと少し。
それに内心で密かに安堵した、その時。ハルミカの常人より鋭い聴覚が、遠くから聞こえてくる二人の男の声を拾った。
「随分と御前広場が騒がしい」
「はい、陛下。何でも吟遊詩人たちが突如、その場にいる全員で予行演習を始めたようでして……」
「何と? 吟遊詩人というものは皆、必要以上に我が強い故。滅多に大勢で演奏することもないと聞くが。珍しいこともあるものだ。なれば、私も御前広場のバルコニーへ向かう。詩歌奉上の備えは整っておるか?」
「はい、陛下。つつがなく」
「左様か。では、ゆくぞ」
嫌でも耳慣れてしまった、物々しい男の声。
そして、「陛下」。そう呼ばれる男は、この国にただ一人しかいない。
(カロス……!)
ハルミカは己の仇、もしくは宿敵とも言える憎い男の声を耳にして、思いがけず歩く速度を緩め、口元を片手で覆う。
遠ざかってゆくカロス王の声を聞いた瞬間、ハルミカの脳内には、濁流の如くこの十年の記憶が溢れ出してきた。
『そなたの母と父は、実に愚かだった。死んで当然だ。正統なるエーディーンの玉座を穢した罪人であるのだから』
『どう足掻こうと、暴れようとも無駄だ。諦めの悪さは母譲りか? 何とも見苦しい……ああ、斯様なところはそなたの死に損ないの兄とも似ておるな。あやつ、腕を獲られて、地に打ち上げられた魚の如くのたうち回っておったわ。ははは、あれはまこと滑稽であった。そなたの名をくるったように叫び散らかして、魚にまで成り下がりおって。汚らわしい兄だな?』
『そなたには、その身に宿る精霊魔法と、種しか価値がないのだ。それを有用に活用してやっているのだぞ、私は。この慈悲深き私に——〈太陽王〉に感謝せよ。罪人の子め』
『何をやっておる。この愚かな獣を縛り上げよ、取り押さえよ! ……喜べ、獣。特別に我が娘と娶わせてやろう。さあ、子を成せ。子を成せ。子を成せ!』
『我が娘と子を成せ、獣。太陽の目と精霊魔法を継ぎし、完璧なエーディーンの子を! 子を成せ、子を成せ、子を成せ、子を成せ、子を成せ。そなたには、それしか価値がないのだから』
胃から氷の塊のような、痛くて冷たい何かがせり上がってくる感覚を覚えて、ハルミカは咄嗟に両手で壁に縋って、息を荒らげる。
カロス王が、カロス王に従う屈強な男たちが、己とスレンを力尽くで取り押さえ、絶え間なく暴力を振るってくる音や感覚が——かつての記憶が、生々しく蘇る。
ハルミカは心の奥底から、ひたすらに困惑した。
何だ、この苦しさは。どうして、息が上手くできない。全ては見えなくとも、世界の光の明るさや、物の輪郭くらいなら判別できる視界が真っ黒に塗りつぶされ、自分が今立っているのかどうかすらわからなくなる。ただひたすらに、気持ちが悪い。
何だ、この気持ちは。何だ、この感情は。痛くて、冷たくて、気持ち悪い。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
どうして。一年ぶりにあの男の声を耳にしただけで、こうなる。
ついには脂汗まで滲んできて、指先の感覚がなくなってきた。
『何かあったら、迷わずおれの名前を呼べ』
ふと、今は別行動を取っているはずのイルダナの、別れ際の言葉が一瞬だけ脳裏をよぎる。
「何かあったら自分の名前を呼べ」など、正直意味がわからなかった。イルダナの名前をここで呼んだところで、いったい何になる。
そう内心で毒づくも、今は思考が正常に回らないハルミカは、とにかくカロス王の記憶を何かしらで塗り替えたくて、掠れた声を低く振り絞る。
「……イル、ダナ……!」
「おい、そこのお前。吟遊詩人だな? こんな所で何をしている」
ハルミカが振り絞った声に応えたのは、イルダナではなかった。
声がした方にゆっくりと顔を向けると、すぐ目の前から二人の男の声が聞こえてくる。ぼんやりと認識できる体格のいい男たちの輪郭からして、第二師団の隊士のようだった。
「んお? 随分とまあデカいが……よく見たら美人な娘じゃねえか」
「おお、ほんとだ。どうしたんだ君、迷子? ちょっとさ、俺たちと遊んでいかない? 〈バード祭〉なんてかび臭い祭りがつまらなくて、君もこんなとこぶらついてたんだろ?」
「……!」
隊士たちが下卑た笑いを含んだ声で早口に喋りながら、ハルミカの腕を掴んで強引に引っ張る。
未だに調子が戻らないハルミカは、ふらつく身体を何とか倒れないように保つだけで精一杯で、隊士たちを振り払うことができない。
こんな時に第二師団の隊士に声をかけられた上に、まさか女と思われて連れて行かれそうになるとは。己の運の悪さに苦々しく歯嚙みしながら、ハルミカはもうこうなってしまっては声を上げてでも抵抗し、追い払うしかないと口を開こうとする。
「ああ、何てこと。遅くなってごめんなさい!」
不意に、すぐ傍で鈴を転がしたような女の声が響いたかと思えば、ハルミカは背後へと引き戻され、隊士たちの腕から抜け出すと細くも力強い片腕に背中を抱かれる。
そちらを振り向けば、そこにはハルミカの頭一つ分ほど小さな背丈の、女らしき風貌の輪郭をした誰かがいた。
ハルミカを引き離された隊士たちが、「おお。また随分と可愛いのが来た」「こっちも最高に上玉だぜ」と喜色の隠し切れない様子で女へと声をかける。
「なんだい。君も見る限り吟遊詩人みたいだけど。その娘の連れか? 俺ら今からその娘と遊ぼうって話をしててさ。君もどう?」
隊士の下心丸出しな品の無い誘いに、女はハルミカの前に進み出て、ぴょんと小さく跳ねて見せる。
「まあ、そうなの? 嬉しい……是非あたしも、ご一緒させてくださる?」
「ああ、ああ! もちろんだとも! さあ、行こうぜ」
「ええ。でもその前に——ちょっとだけ。お礼、させて?」
女はまず隊士の一人の太い首に細腕を絡めつかせると、瞬く間もなく口づけた。
とんでもない濡れたような音と、隊士の野太くて情けない喘ぎが聞こえてきて、ハルミカは思いがけず己の耳を塞いだ。
しかし、女はすぐに隊士から離れて、次は隣の隊士の胸倉を引っ掴んで、またもや口づける。
そうしてあっという間もなく、女に口づけられた二人は腰砕けになってその場に尻もちをついたかと思えば、揃ってそのまま地に伏してぴくりとも動かなくなってしまった。
この一瞬とも言える短時間でいったい何が起こったのか見当もつかず、ハルミカは先ほどまで己の脳内と身体を支配していたカロス王のことも一時忘れて、唖然としてしまう。
一方、口づけだけで大の男二人を伸した女は、盛大に舌打ちを鳴らして、己の口元を袖で拭い去りながら唾を吐いた。
「チッ……女性の口説き方すら碌になってない下手くそ下衆野郎共とキスなんざ、死ぬほどしたくないんですが」
それはもう、ただの女の声ではなかった。
ひどく無機質で、抑揚のない。声変わり前の少年のような、高くも低くもない中性的な声——聴き間違えようがない。イルダナの声であった。
「まあ、ハルミカが乱暴されるよりは千倍マシです。女性用の吟遊詩人の装束も一応持ってきておいて、正解でしたね。まさか色仕掛けすることになるとは」
先刻まで履いていた厚底靴は脱ぎ、肩幅を広くしていた詰め物も取ったのだろう。いつもの背丈と体格に戻ったイルダナがこちらを振り向く気配がする。ハルミカは驚愕のあまり、自分でも意味のわからない単語が、口をついていくつか出た。
「き、さま……いったい、何を……」
「? ああ、はい。実は私、こういう事態もあろうかと、奥歯に即効性のある魔法薬の丸薬を括り付けて仕込んでいるんですよ。舌先、器用ですから。腰砕けにするだけでなく、時間をかけて窒息させることもよかったんですが、相手が二人いたので……連続で丸薬を飲ませて、眠ってもらいました」
的外れなことをどこか得意げに答えるイルダナに、ハルミカは徐々に冷静になってきて、一番に思った疑問をイルダナに尋ねる。
「……よく、広大なアナム心臓城で……僕を見つけたな。合流は、僕から合図の音叉の音を鳴らす手はずだったというのに」
ハルミカは、想定外にカロス王の声を聞いてしまったことに気をとられて、音叉を鳴らすことも忘れていた。それだというのに、イルダナはここぞとばかりに、窮地に陥っているハルミカのもとへと駆け付けた。
偶然にしては、出来すぎている。
そう思っていると、イルダナは相変わらず抑揚のない声で、淡々と答えた。
「ハルミカ、私の名前を呼んでくれたでしょう」
ハルミカはイルダナの短い答えに、はっと息を呑む。
イルダナは続けて、無機質でありながらも、どこかほっとしているような声色を以て答えた。
「別れる前の約束。覚えていてくれてよかった——おかげで、すぐにきみのもとへと駆け付けられました。私は、私の名前を呼んでくれる声だけは、音になっておらずとも聞き逃しませんので。ありがとうございます、ハルミカ」
「は……」
ハルミカは、絶句した。
確かにハルミカは、別行動を取る時の約束を思い出して、イルダナの名を呼んだ。しかしそれは、合流の合図とあらかじめ決めていた、音叉の音よりも極々小さい、虫の鳴き声のような声だったのだ。
それをイルダナは、膨大な音が溢れ返る、この広大なアナム心臓城内から拾い上げたのだと言う。いくら〈梟の忌み仔〉の鋭い聴覚を持っているとしても、離れ業すぎる。
そしてハルミカのもとへと駆け付けたイルダナは、余計な騒ぎを起こさず、大の男二人を傷一つ付けることもなく無力化させ、ハルミカを助けてくれた。
ハルミカなら死んでもやりたくない色仕掛けを実行しておいて「ハルミカが乱暴されるくらいなら、死ぬほど嫌なことをする方が千倍マシ」だと。
ハルミカに迷惑をかけられた、ハルミカを助けた側だというのに「ありがとう」などと容易く口にできる精神が、信じられないとハルミカは思った。
スレンをも超える常軌を逸した強さを持ち得て、お人好し過ぎる異常な精神性——本当にまるでイルダナは、幼き頃に隠れて読んだ御伽噺の「勇者」のようだと。ハルミカは思わずにはいられなかった。
「ん。ああ、やはりハルミカ——きみ、心臓城に来てから顔色最悪ですよ。人目のつかないところで、少し休みましょう。さて、どこで休みますか……」
「……ならば、件の中庭にゆく。隠された入り口は、既に近い。中庭に入って……休む」
「成程。承知しました。では、行きましょうか」
未だにふらつくハルミカの身体を支えるように、イルダナがハルミカの腕を己の首に回して、ゆっくりと歩き始める。
イルダナは、いつもこうだ。
ハルミカはかつて、イルダナの「恐怖」とやらを煽って、イルダナを故意に傷つけた相手だというのに。それをハルミカはまともに謝罪もできないし、いつぞやに「借りを返す」と言っておきながら仇を返すようなことばかりしている、出来損ないの人間だというのに。
イルダナは分け隔てなく、惜しみなく、動けなくなっている誰かを掬い上げるかのように、手を差し伸べてくれる。
この気持ちを、何と言うのだろう。
尊く思うような、酷く遠く思えるような。しかし、滅茶苦茶にしたくなるような。
この激情の名前を、ハルミカは知らない。
ハルミカはイルダナと出逢ってから、名前の付けられない感情をたくさん初めて覚えて、持て余してばかりだった。




