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第16話 魔性の


 ◇◇◇


 御前広場の中央にて。多くの吟遊詩人が〈火の精霊〉に捧げ、エーディーン王族や諸侯に披露する楽曲の予行演習を、思い思いに奏でている。

 その中でもとりわけまだ年若い一人の少女が、フィドルを手にオロオロと調弦をしていた。

 少女は今日初めて、アナム心臓城を訪れて〈バード祭〉に参加する。エーディーン王家が催す〈バード祭〉に参加できることは、ラナリエン大陸に生きる吟遊詩人たちにとって誉れ高いことであった。それゆえに少女は、初めての〈バード祭〉での演奏を前に緊張せずにはいられない。


 少女は早く自分も今回披露する曲の予行演習に移りたくてフィドルの調弦を急ぐが、指先が緊張で震えてもたついてしまい、調弦のために持って来た音叉の音になかなか上手く音程を合わせられない。焦りと緊張が入り混じってますます震えてくる指先に、思わず冷や汗を滲ませていると、不意に肩を軽く叩かれたので、びくりと身体を揺らして振り向いた。


 そこには、少女よりはいくらか年上に見える、銀灰色の長い髪が特徴的な若い吟遊詩人がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。随分と中性的かつ神秘的な、奇麗な顔つきをしているので、顔だけでは男か女か区別がつかない。しかし、その顔を見るには、こちらが空を仰いでしまいそうなほどに大きな背丈をしていたので、おそらく男だろうか。


「その子、凄くいい音してるね。おれにちょっと、調弦させてくれないか?」


 その子とは、少女が持っているフィドルのことだろう。それにしても、存外に声が低い人だった。やはりこの吟遊詩人は男だったらしい。

 少女は立て続けにそんなことを思いながらも、何となく、この突如現れた男の不思議な雰囲気に呑まれて、気が付けばフィドルと弓を男に手渡していた。


 男は「ありがと」と柔らかく微笑んで、流れるようにフィドルを構えると、あっという間に調弦を済ませてしまった。音叉も一切使わずに、だ。おそらく男は「絶対音感」なるものを持っているのだろう。完璧な音程であった。

 男は調弦を済ませたフィドルを少女に返してくると、少女を覗き込むように小首を傾げて見せて、目をゆっくりとしばたたかせる。


「弾いてごらん」


 この男の声は、酷く心地好い。何故だかこの声が紡ぐ言葉には、従いたくて堪らなくなる。

 少女は思いがけず何度もこくこくと頷いて見せて、フィドルと弓を構えると、今日の〈バード祭〉で披露する古い民謡曲を奏で始めた。

 だが、まだ身体に緊張が残っているのか、少女が奏でる音色は固く、旋律はどこか覚束ない。いつもの何倍も下手くそな演奏に思えた。少女は途端に羞恥心やら情けなさが込み上げてきて、鼻の奥がツンとするのを感じる。


「だいじょうぶ。一緒に、歌おうか?」


 そこでふと、そばに立っていた男が軽やかに手拍子を鳴らしながら、少女の奏でる旋律に合わせて、歌を高らかに歌い始めた。


 男の歌声は一言では言い表せないような——「上手い」などという陳腐な言葉の領域を遥かに超えた、凄まじい歌声であった。

 まるで腹の底に何本かの弦楽器が仕込んであるのではないかと疑ってしまうような、御前広場中に轟くほどの声量。そんな大声量にもかかわらず、音程は微塵もくるっていない正確さ。その声音は恐ろしいほど柔く、やさしく、滑らかで、鼓膜に音色がこびり付いて離れないような、蕩けるような心地好さ。


 少女のフィドルに合わせて歌う男は、そのまま歌声を響かせながらもステップを踏んで、軽やかにくるくると踊り始める。


 カン、カン、カン、カン、と。乾いた木片同士を打ち合わせたような、男の手拍子の大気をも叩く甲高い音。

 トッ、トッ、トッ、トッ、トトトト、トン、と。大地を跳んで駆ける、軽快なステップの音。


 男の全身から奏でられる音に支配されて、まるでこの世界の全ての音が「音楽」になってしまったのではないかと、錯覚する。

 男のしなる指先から、小気味よく跳ねる爪先まで。踊る男の全身が、まるで世界から浮き出ているかのように目に焼き付いて、男の一挙手一投足から目が離せなくなる。


 そんな男の歌声とダンスに釣られるかのように、しばらく呆気に取られていた周りの吟遊詩人たちがたちまち歓声を上げながらぞろぞろと集まってきて、楽器を手に少女のフィドルの演奏に加わる者たちもいれば、男と共に歌って踊る者たちが数え切れぬほど現れた。

 いつの間にか御前広場では、フィドルの少女と、少女に声をかけた不思議な男を中心に、〈バード祭〉の予行演習をとうに超えた大規模な「祭り」が自然と巻き起こっている。吟遊詩人たちだけでなく、城内にいた無数の人々もこの「祭り」に引き寄せられて、共に歌い、踊り出す。


 少女の奏でるフィドルの音色も既に、緊張と焦りから生じていたぎこちなさや固さは、微塵も消え失せていた。それに少女がようやく気が付いた瞬間、他の人々と歌って踊っていた不思議な男が、スッテプを踏みながら少女のもとへと近づいてくる。


 男は碧い目をふわりと細めて、老若男女問わず、万人が息を吞まずにはいられないような美しい微笑みを浮かべながら、フィドルの少女の顔に己の小さな顔を触れそうなほどに寄せて、小さく耳打ちした。男の銀灰色の髪の毛が、少女の頬を撫でる。くすりと小さく笑った吐息が、少女の前髪を靡かせる。


「ほら。素敵だ」


 さらりとしたコーヒーの苦みに似た。もしくは、とろりとした蜂蜜の濃密な甘さに似た、低い男の声。その声が間近で鼓膜を震わせた瞬間、少女の耳から顔、そして全身がどっと熱くなって、心臓をどくどくと高鳴らせる。


 いったい、どれくらいの時間、あの男に心臓を奪われていたことだろう。途轍もなく長い時間にも、ほんの瞬きをした一瞬にも思える。

 少女が真っ赤な顔のまま我に返った時には、御前広場は無数の吟遊詩人と城内の人々がごった返していて。


 どれだけ目を凝らして見回しても、あの不思議な男は幻の如く消え失せており、もう、どこにも見つけられないのであった。



 あの不思議な男は、もしかすると。

 人などではなかったのかもしれない。

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