第11話 モア・チュイル
◇◇◇
イルダナ——。
待って——。
母の断末魔は。そしてあの人から最後に口をついて出たのは。己を呼ぶ声だった。
あれらの声が脳裏によぎる度。矛で肉と骨を断つ感触を——「エーディーンの常夜」にて正気を失ってしまった母の頸を断つ感触が嫌でも蘇り、「ごとり」と地面に落ちる重い音までもが、脳の内側から鼓膜を突き破る勢いで叩いてくるような気がする。
かつて駆り出された紛争地帯にて、数え切れぬほどに屠ってきた敵兵たちの最期の顔が目蓋の裏に焦げたようにこびり付いて、痛いほどに点滅する。
イルダナはそんな幻聴と幻視に依然として脳を揺さぶられながら、濃い隈に縁どられた梟の目を細めて、箱馬車の隅っこに膝を抱えて縮こまる。
もう何も耳にしたくなかったし、目に入れたくなかった。
『もう……生きたく、ない……』
ぽろりと口の端から零れ出たのは、枯れて掠れ切った絶望の音。
その深い絶望に応えたのは、軽薄な声。つい先日まで奴隷兵だったイルダナをたった一人で救い上げ、今はイルダナの向かい側に胡坐をかいて座る長身の男。
『へえ。何でそう思う?』
アランロドが、小首を傾げてイルダナを見据えてくる。満月のような色をした白金の長い髪が、ゆらりと絹の帳の如く揺れた。
『わたし、生きていたら……わたし、生きているだけで。たくさんの人、殺してしまう。家族だろうと、わたしを救ってくれた人だろうと……見知らぬ誰だろうと、関係なく。たくさんの人から、大切なもの、奪ってしまう……だからわたし、生まれてきたら、いけなかったんだ。もう……わたしは、わたしがこわくて、しかたない。こわい、こわい。生きるのが、こわい……』
イルダナはうわ言のように「こわい」「なんでわたし、生まれてきた」を繰り返し、両手で頭を抱えるようにして頭皮ごとがりがりと髪を掻き乱す。
そんなイルダナへと、胡坐をかいた膝に頬杖をついたアランロドが、場違いなほどに吞気かつ陽気な、笑いの滲んだ声を以て語りかけた。
『何だ。そんなこと? あんたが世界で一番怖いのは、あんた自身? それ、最高では。だって、自分自身に勝ち続ければ、この世界にあんたは敵無しってことだろ? はは、笑えるな、それ。無知で怖がりなガキんちょにはぴったりじゃん。おれは大人だからな、自分なんてどうでもよくて。この世界では他に、怖いもん死ぬほどたくさんあるからさ。むしろ羨ましいよ』
アランロドが、箱馬車の外。その遥か遠いどこかへと視線を漂わせながら、独り言ちるように静かに零す。
『生まれてきてよかったのかなんて、誰にもわからない。生きている内も、死んだ後もわからないもんだ、それは。だけどおれは、あんたが今いてくれてちょっとは助かってるぜ? アイティナラント・ルグを探すためのパシリ、ちょうど欲しかったところだからな。それに、怖がりなガキんちょは扱いやすくて面白みがある。そのまま、死ぬまで奇妙な怖がりでいてくれ』
『……』
イルダナはあの時、アランロドの軽薄な声が紡いだ言葉の数々によって、止まっていた世界の刻が再び動き始めたような感覚に陥ったのだった。
怪物であるはずのイルダナを「怖がりなただの子ども」だと、イルダナがいてくれて「ちょっと助かる」と笑ってくれたアランロドに、イルダナは無性に懐かしさが込み上げてきた。只々、嬉しかった。
イルダナが跡形もなく変わってしまっても、怪物に成り果てていようと、アランロドは変わらない。兄弟弟子として共に過ごしていた頃と同じまま。あの時はそれらにどうしようもなく、救われたのだった。
イルダナの梟の目から静かに、止めどなく涙の大粒の珠が溢れ出てくる。
それを目にしたのであろうアランロドが、ぎょっとしたような声を上げた。
『え。ええ? おいおいおいおい。何で泣く、ガキんちょ。嘘だろ? これだからガキんちょのお守りは嫌なんだ……はあ……めんどくさい……』
盛大なため息を隠すこともなく吐き出したアランロドが、片手で頭を抱える。そうして、その骨ばった白い指の隙間から心底嫌そうな眼差しを未だ音も無く泣き続けるイルダナに向けて、低い声を絞り出した。
『……なあ、おい。あんた、歌すきだっただろ。詩なら作ってやるから、今回だけ。ほら、歌え』
この時、イルダナはアランロドによって、〈歌う〉ことの楽しさを再び思い出させてもらったのだった。
それから、アランロドに教えてもらったことは数え切れないほどある。
傍に居る人と、何気なく歌を口ずさむ楽しさ。
正体が一切掴めない至宝を探す冒険の旅と、未知なる謎の大いなる浪漫。
そして、生きることの喜び。この広大な世界の、美しさ。
モア チュイル
光弾ける 目覚めは暁
モア チュイル
燃ゆる眼 雲の糸 そのすべてが君のかたち
白銀帳が溢るる場所へ この手を引き 連れ出した
暁の雫 落つる灰の眼に 四季が還る
モア チュイル——
『モア、チュイル……? って、どんな意味。ですか』
『んあ? ああー……太古の、詩に使われてた言葉だ。意味はー……あんたには教えない。絶対』
『? 何で。です』
『何か嫌だから。あんたは一生知らなくていい。死ぬまで無知なアホガキんちょのままでいてくれ。その方が面白い』
『……わたしは何もおもしろく、ない』




