第10話 恐怖の象徴
いよいよ〈アナム心臓城〉への潜入作戦を明日に控えたイルダナは、第四師団基地内にて、ハルミカを捜していた。
当初、潜入作戦を実行するのはイルダナ一人だけだったのだが、〈アナム心臓城〉の内部はどうやら相当に複雑な構造をしているらしく、そこで案内役を名乗り出たのがハルミカだった。
ハルミカは十年前に心臓城を追放されたも同然だったナーザとは違い、一年ほど前までは心臓城で過ごしていたのだという。そのため、目が見えずとも城内の構造は完璧に把握しているらしい。
(そういえば、スレンさんと戦闘した後くらいからずっと……どこか様子がおかしいんですよね。ハルミカ。まあ、もともと様子の可笑しい王子ではありましたが。しかし、明日の作戦のためにも、お互いしっかり連係が取れるようにしておかなければ)
イルダナはそんなことを考えながら、ハルミカを捜して屋敷の裏庭へと出る。
すると、そこでようやくハルミカの姿を見つけた。しかし、ハルミカの広いような、細くも見える背中には炎の翼が顕現している。精霊魔法を使っているらしい。
不意に、ハルミカは炎の翼を羽ばたかせながら広い裏庭を駆け出した。ハルミカの駆ける速さがぐんぐんと増すのと併せて、炎の翼が羽ばたく回数も増える。翼から、たくさんの黄金と白銀の火花が弾けて散った。
イルダナはその光景を目にして、すぐに悟った。あれは助走だ。助走をつけてハルミカは——飛ぼうとしているのだと。
「!」
息を呑んで見守っていたイルダナは微かに瞠目する。
ハルミカの足が一瞬、宙を浮いたからだ。だが、宙を浮いた瞬間、ハルミカの身体は炎の翼によって生じた辻風によってあおられ体勢を崩し、地面へと転倒してしまう。ハルミカは受け身を取ってごろごろと転がるが、転がる勢いを利用し、地に片膝をついてすぐに身を起こすと、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返した。
「はっ……はあ、はあ……!」
「惜しいですね」
「!」
イルダナはハルミカに歩み寄りながら声をかけた。イルダナの声を耳にしたハルミカが弾かれたようにこちらを振り向き、如何にも不機嫌そうな様子で眉を顰める。そんなハルミカの反応にはもう慣れて、イルダナは気にすることなくハルミカの傍に立つ。
「確かに、体重の重い鳥は飛び立つのに助走を必要とします。しかし、ハルミカ。きみの翼は〈炎の翼〉です。その翼は形状が不安定な上に並々ならぬ熱を持ち、周りの空気に大きく作用して、激しい気流を生みます。故に、きみが助走して飛び立とうとすると、辻風が生まれて身体が安定しなくなるのです。加えておそらく、助走の速さも足りていないのやもしれません」
「……」
眉は顰めたままだが、ハルミカは黙ってイルダナの声に耳を傾けている。こういう時のハルミカは「何が言いたい?」とでも思っているに違いない。
イルダナはここ数日において、ハルミカの顔を見るだけで、口数の少ない彼が言いたいことが多少解るようになってきていた。
「つまり、きみの翼に助走は不向き。そういうことで、もしかしたら垂直上昇がハルミカの炎の翼には合っているのではないかと、個人的に私は考えています」
「……垂直上昇?」
「はい。ハルミカが精霊魔法を精密に操作し、さらに〈炎の翼〉が生じる熱を高度に高めます。すると、周りの大気も同時に熱せられ、大気が軽くなることにより浮力が生じ——上昇気流が発生するのです。この上昇気流を利用して、垂直上昇するのが、きみが空へ飛び立つのに一番安定するのではないかと。私の推測に過ぎませんが」
イルダナは肩幅ほどに両足を開いて、強く大地を踏みしめる。そして、片手を顔の高さまで掲げながら、首を大きく傾けて遥か遠い大空を仰いだ。
「大地を割るほどに踏みしめた後、飛び立ちなさい。その翼で、上へ昇る風を手繰ってゆけばいい。さすれば、あの大空へは行けるでしょう……といっても、空中の〈飛行〉となりますと更に風を読まねばなりませんので。その後は身体で覚えなければならないでしょうけど」
掲げていた片手を腰に当て、イルダナは大空から再びハルミカへと視線を戻す。イルダナの銀灰色の長い髪が軽やかに靡いて、風と共に踊った。
そこでようやく、ずっと黙っていたハルミカが重い口を開く。
「……貴様。翼も無いというのに、まるで本当に空を飛んだことがあるような口ぶりをしているが。そして、なにゆえかは解らぬが……人類による空の〈飛行〉とは、この世界における最大の禁忌。決して許される行為ではないとされている。ナーザにも、カシュガルにも止められた。斯様な行為を目指している僕に何も思わぬのか?」
ハルミカの言う通り、人間も異人類も問わず。〈人類〉による〈空の飛行行為〉は、この世界最大の禁忌とされている。だがどうやら、やはり世間知らずなハルミカは、その禁忌のわけをよく解っていないらしい。世間知らずだからこそ、生まれながらに魂にまで刷り込まれるはずの〈常識〉に囚われないのか。
ハルミカは世間知らずというより、むしろ——純然たる無垢なのではないだろうか。それは大変に稀で、素敵なことなのではないかと。そんなことをイルダナは密かに思いなおす。
イルダナは「実は私、アランロドの呪術を以て、空飛ぶ鳥と視覚共有をしたことが何度かあるんです。故に、空飛ぶ感覚は少しだけ解るのですよ」とハルミカの一つ目の疑問に軽く答える。
そうして再び大空を仰いで、無垢なハルミカが知らない、この世界の〈理〉について語り始めた。
「太陽こそが〈至上の王〉、〈最も貴きもの〉とされる太陽信仰が太古より根強いこのラナリエン大陸では、太陽の玉座である〈空〉は畏怖の象徴。この大陸で生まれた人々は皆、〈空〉は恐ろしいものだと言います。故に、空を飛ぶ鳥は忌み嫌われますし、更に親殺しの言い伝えがある〈梟〉は凶兆の印とされ……鳥のような肉体的特徴を持って生まれる異人類〈鳥人族〉は、絶滅へと追いやられました」
遠く、空の向こうに鳥が飛んでいるのが見える。あの鳥は、只人より何倍も鋭い五感を持つ〈梟の忌み仔〉たるイルダナだからこそ見えるもので、普通の人間には見えないだろう。それほどまでに、あの鳥は遥か遠い空に在る。
人類によって忌み嫌われ、狩り尽くされた空飛ぶ鳥たちは今や人類を絶大な天敵とみなし、人里周辺に降りてくることはない。
彼らの生存本能に組み込まれているのだ。人類に見つかってしまえば、殺されてしまうことは必然だと。
「そういった太陽信仰という常識の中で生まれ、生きてきた私ですが。私は一度たりともあの空を怖いなどと思ったことはありません。呪術を以て鳥の目を借り、擬似的に空を飛ぶ、という禁忌を犯す度……ひどく懐かしいと、何度も感じました。あの空へ、帰りたいと。妙な感覚です。私の前世は鳥だったのやもしれません。それをアランロドに言ってみたら、『あんたほどの変人、見たことない』と呆れられました」
ハルミカが細く吐息を漏らす。その吐息には微かに笑いが入り混じっていた。
それを感じ取ったイルダナも真顔のままではあるが「ふ」と笑いの混じった息を漏らし、遠くの空から視線を移してすぐ隣にいるハルミカの方へと振り向く。
「ですので、禁忌を犯そうとも空を飛ぶことを強く望んでいらっしゃる——私と同類な『変人』のハルミカとは、そういうところだけは気が合いそうですね」
「……そうやもしれぬな。貴様と理解し合える思想、思考が一つでもあったとは。思わなんだ」
ハルミカがそう言って、ゆるりとその場に立ち上がり、イルダナと向き合う。
やっとまともに口をきいてくれるようになったハルミカに、イルダナは内心で安堵する。また、己と同じ「空を飛びたい」という奇異な思想を持つハルミカへ今まで以上の親近感を抱きつつ、目の前に立ち上がったハルミカを見上げた。
「だが僕は貴様に対して——如何にしても理解できぬことが、一つある。それは最悪の場合、貴様を本気で殺したくなるほどに。耐え難きこととも言える」
「は……」
ハルミカの意図が読み取れない発言に、イルダナは思わず間の抜けた声を吐息と共に漏らした。その瞬間——ハルミカが腰に帯びていた剣を目にも留まらぬ疾さで引き抜き、一切の躊躇なく、イルダナの頸を刎ね飛ばす勢いで振るう。
鋭く風を切る音が耳に入ったのと同時に、イルダナは反射的に身体をすとんと落とし、地を這うような低い姿勢で剣を躱した。それでもハルミカが息を吐かせる間もなく、イルダナへと剣を振り下ろしてくる。
紛れもない殺意がイルダナに突き刺さる。それを無意識下で感じ取ったイルダナは、防衛本能ゆえか身体が勝手に背負っていた長杖を引き抜き、それを鋭く振るい上げてハルミカの剣を遠くまで弾き飛ばした。
「貴様は杖術とぬかしていたが。それは、違う——おそらく、矛戟の術か」
ハルミカの鋭い推察にイルダナは我に返って、嫌な汗が噴き出すのを感じた。
そんなイルダナにも構わず、剣を失ったハルミカは炎の翼から無数の火球を放ち、再度イルダナへと攻撃を仕掛けてくる。イルダナは大きく飛び退き、ハルミカから距離を置いて素早く辺りを駆け回ることで火球を躱していくが、いつかのスレンの如く足だけで躱していくには、この裏庭は少しばかり狭い。
このままではハルミカをも巻き込みかねないと、イルダナはその場に立ち止まって、襲い来る無数の火球を真正面から迎え撃つことにした。
「コォ」
振り向きざまにイルダナは口を軽く開け、異音を立てて尋常ならないほどに息を吸う。同時にこちらを赤く照らし出す火球に向かって、大きく長杖を振りかぶった。
「——!」
おそらく人間の耳では音として殆ど聞き取ることができないほどの高音——超音波を凄まじい大音量で腹の底から轟かせ、振り下ろした長杖は「ゴウ!」と唸るほどに突風を生み出した。
イルダナから発せられた超音波と突風が無数の火球と衝突し、その全てを見事に打ち消す。
それらを肌で感じ取ったのであろうハルミカが、今までに見たことがないような——額に冷や汗を滲ませた、愕然としたような顔をして独り言ちる。
「この音は……奴隷市で聞いた〈歌術〉というものと同じ……? まさか、〈歌術〉の音圧と杖を振るった風圧だけで、僕の炎を全て消し去ったのか……とても人間の業とは思えぬ……」
ハルミカが零した通りだった。
〈歌術〉と〈矛〉を使った戦闘。これをかつて、イルダナは最も得意の技としていた。
〈歌術〉の音と振動は、人の脳と魂をも侵し。イルダナの扱う〈矛〉は、〈歌術〉によって正気を失った数え切れないほどの人々を——そして、たった今。もしかしたら、ハルミカをも——そこまで考え至って、イルダナは全身が恐怖で粟立ち、気が付けばその場で胃の内容物をまたぶちまけていた。
手に持つ長杖から、かつて握った〈矛〉の柄の感触が生々しく蘇る。その感触こそが、イルダナの恐怖そのもの。こわくて、こわくて堪らなくなって、視界が歪み、光が点滅する。
呼吸の仕方は忘れ去ってしまったようで、ぶるぶると大きく震えるイルダナは胸を押さえて、何度も息をしようとして嘔吐く。
そんな中でもふと、遠くから聞こえてくるハルミカの声だけは、何故かはっきりと解った。
「カシュガルが言っていた。〈梟の忌み仔〉は怪力を持つと云われているが、それは少しばかり常人を上回るほどで、人を幾人か同時に抱えられる程度なのだと。だが、貴様の持つ力はそれ以上だ。常軌を逸し過ぎている。なにゆえか……それは、貴様自身が鍛錬を積んで会得した力と技術ゆえであろう」
恐怖に吞まれ切ったイルダナのもとへと、ハルミカの声が徐々に近づいてくる。
「今、貴様と手合わせしてみて確信した——貴様、スレンよりも強いな? 奴を遥かに超えて」
併せてその声は、徐々に低くなってゆく。
「そして、今まで僕は貴様の言う『恐怖』とは、貴様が戦う強さや術を持ち得ないゆえの不安かと考えていた。否、違うな? 貴様の言う『恐怖』とは……貴様自身か? ゆえに、戦うことを拒むのか?」
「……!」
イルダナの恐怖の核心を突いてきたハルミカに、イルダナは思いがけず呼吸が一瞬止まる。図星だった。
それを耳聡く呼吸音で察したのだろうハルミカが、足早にイルダナのもとに近づいてきたかと思えば、イルダナの首を掴んで締め上げながら、今までにない剣幕で怒鳴った。
「貴様……貴様! 何が己は『到底戦力にはならない』だ! それだけの戦術の才と圧倒的強さを持ち得ながらなにゆえ、戦うことを恐れる!? 貴様の強さは、鍛錬の積み重ねあってのもの。つまり貴様の強さは、貴様自身が望んで手に入れたものであろう!? だというのになにゆえ貴様は逃げ続けている!」
ハルミカに掴まれた首ごと、強く揺さぶられる。
イルダナは沸々と苛立ってきていた。
いきなり攻撃を仕掛けられ、己の最もたる弱点である恐怖を無理やり引きずり出されたかと思えば、ついには何故か怒鳴り散らされている。締め上げられている首も痛いし、苦しい。下手をすれば死ぬ——誰が?
「く……っは……私、は……」
一言でも怒りの文句を言わせてもらわねば。一発ぐらい殴らせてもらわねば、気が済まない。
何故、己の〈恐怖〉が理解されないだけで「本気で殺したくなるほど耐え難い」などと思われなければならないのか。
そう思い至ったイルダナは、ようやく重い口を開くが——その口から溢れ出たのはやはり。どうしようもない恐怖と本音だった。
「こわいに、決まってるでしょう。逃げ出したいに、決まってるでしょう。私は、生まれながらの人殺しです。意図せずとも反射的に、誰彼構わず殺してしまうほどの……どうしようもない、人殺しなんです。たった今も、一歩間違えればハルミカを殺していたやもしれない。今この時、殺すやもしれない。そう、考えると……こわくて堪らないに、決まってるでしょう」
イルダナの常なる無表情が崩れて、微かに顔が歪められた。しかしそれは、呪いによって縫い付けられたハルミカの双眸には映らない。
ハルミカはますます眉間に皺を寄せて、声を震わせた。震えるその声は怒りと共に、どこか困惑しているような、しかし歯痒そうな。心底悔しそうな色も混じっているように思えた。
「貴様の言う恐怖とは、紛れもない甘えだ。そして、反吐が出るほどの……甚大なる、傲慢だ。やはり貴様のそれだけは、恐怖などというものは、到底理解できぬ——殺してしまいたいほどに」
そう吐き捨てると、ハルミカは首を掴んで持ち上げていたイルダナを放り出して、足早に裏庭を後にする。
一人取り残され、裏庭の柔らかい土の上に倒れ込んだままのイルダナは、もう何も考えたくなくて、そのまま意識を手放した。




