第八話
「よぉ、祥介」
宿の廊下を歩くと、見知った人物が立っていた。咥えたタバコを吹かしている大柄な男だ。赤い着物に剃り込みの入った坊主頭。顔に刻まれた皺は、とても深い。
赤色の三白眼が、こちらの心を見透かすように見つめている。
「なんすか、宋秀のじっちゃん」
「いーや、久しぶりにお前の顔を見たくなってな。悪さしてないかと思ってさ」
彼はこの町の奉行所上部組織──赫灼組の重鎮だ。と言っても、よく上の命令を無視するため、組の中では厄介者扱いされているが。
「してないよ。いつも通り暇を持て余してる」
「持て余してるにしちゃあ、目が生き生きしてるじゃねぇか。前はもっと濁っていただろ」
相変わらず鋭い人間観察に、心の中で嘆息を漏らすしかない。
「んで、そっちのお嬢さんは誰だ? 初めて見る顔だな」
「あぁ、こいつは木下一葉だよ」
宋秀に隠し事をするのは無駄だ。むしろ隠せば隠すほど不利になる。だったら、一番手っ取り早いのは“嘘を言わない”。
「木下……一葉……。あぁ、木下重吉郎の娘か」
宋秀の言葉に、一葉がピクリと動いた。祥介が声をかける前に、彼女はどこに忍ばせていたのか忍者刀を手に突っ込む。
宋秀の首にピタリと当てて、一葉は睨見上げていた。
「お父さんの何かを知ってるの?」
しかし宋秀は、一葉に見向きもしない。
「おい祥介。犬は躾ておくもんだぞ?」
「宋秀のじっちゃん。そんな言い方を公的機関の人間がすると、問題になるよ?」
「ははは、部下にもよく怒られる」
刃を突きつけられているのに無視される現状に、一葉は不満の声を漏らした。忍者刀を握る彼女の拳が震える。
しかし、彼女は刀を振るうことができなかった。
宋秀は刃の部分を握りしめた。手から腕へと血が垂れる。その事を気にすることもなく、彼は力を込めた。
「嬢ちゃん。生き急ぎすぎだ」
腕が振られる。一葉は揺さぶられるように宙を飛ぶ。廊下で体を打ちつけながら、祥介の足元で止まる。
宋秀が刀を放り投げると、立ち上がろうと手をついた一葉の目の前に刀が落ちた。赤い血で刃が濡れるそれは、廊下に深く突き刺さり細かく振動している。
今の一瞬ですっかり萎縮してしまい、一葉の喉の奥から小さな悲鳴が漏れていた。
「それで、本当はなんのようだい? たまさか、本当に顔を見に来たわけじゃないよね?」
「はん、安心しろ。今は本当に顔を見に来ただけだ」
「今は……ね」
その含みのある言い方に、祥介は含みのある笑みを返した。
「ま、今回は──」
「あーー!」
そんな緊張感を突き破ったのは、静江の声だ。一気に宋秀の顔がやべって歪められる。
「廊下、傷つけたな! 宋〜!」
「ち、ちが……ご、誤解……ではないか。悪い、逃げるわ」
先ほどまであれだけ勇ましかった大男は、小さくなって走っていった。廊下の突き当たりの窓枠から外に出る姿は、何とも情けなさが際立つ。
その彼の後ろ姿を、静江は追いかけていく。
二人の背中を見て、祥介は笑みを浮かべて肩をすくめる。
廊下に倒れたままの一葉に、祥介は手を差し出した。その手を見つめ考え手を伸ばしかけて、一葉は取るのをやめた。
俯く顔に何を考えているのだろうか。
「ま、今まで生き残っていたのは、運が良かったってだけだね」
「……っ」
確信を突かれたかのように、彼女は表情を曇らせた。
「相手が本気で動いてたら、君は今ごろ死んでいただろうね」
世界には各違いがいる。それも数え切れないほど。
宋秀が会いに来たのは少し予定外ではあったが、一葉には良い刺激になったのではないだろうか。少なくとも、夜中に逃げ出そうなどと考えなくはなっただろう。
そう思いながらいつもの笑みを浮かべていると、一葉が祥介の着物の裾を掴む。
「……私に手を貸して」
その瞳に揺らぐ光を見て、にやりと限界まで口角を上げる。
「いい目になったじゃないか」
※※※※※※※※※※
「おかえりなさいっす宋秀さん。あれ、少し息が上がってません?」
近場に待たせていた瑞池の軽口が聞こえる。宋秀は汗を拭いながら、息を整えた。
「あぁ、ちょっと怪物に追いかけられてな……」
「宋秀さんを怖がらせる怪物って一体どんな奴なんすか? てか、宋秀さんも怖いもの──アイタタ! アイアンクローはやめて! パワハラ!」
「……軽口叩いてないで行くぞ」
調子に乗る部下を脇に捨て置いて、タバコをふかす。口の奥から舌打ちを漏らした。
「んで、犯人わかったんすか?」
背中にぶつかる声は、全然反省していない瑞池のものだ。
「あぁわかった。同時に俺らが手を出せる代物でもねぇ」
「予想通りっすかぁ? 世知辛いっすねぇ」
「は、まぁ八つ当たりくらいはしてやるさ」
彼が咥えるタバコの煙は、空気に溶け込むように消えていく。




