四十六話 四十六日目
藍色を帯びた空を背に、丸太小屋の前に立つ。
最後に見た十二日前と何も変わらない無骨さで、林の手前に佇んでいる。
「ンゥ~」
マルを近くの林に放すだけのつもりだったのに、いざここに来てしまうと、吸い込まれるように身体が扉に向かう。
土の被った飛び石を踏みながら、かつての暖かな情景を扉の先に見る。
ドアノブに手をかけて、少しだけ、開くのを躊躇した。
外面通りの内観が広がっていることが分かっていたから。
けれど、ほんのわずかに、何かがあるんじゃないかと、思ってしまったから。
でも、扉の先には何も無かった。
彼女が魔法で再現してくれていた豊かな暮らしは、無情なほどに虚構だった。
夕暮れのわずかな光が、素朴な木板を照らしていた。
「ンゥ~ン」
短い足で懸命に何かを訴えるマルを床に降ろす。
「ンゥ~ン!」
彼も、スプリさんを探しているようだった。
「ママはもういないよ」
自分の言葉が狭い小屋に響く。
自分に言い聞かせているみたいに聞こえて、空虚な笑いを一つだけこぼす。
マルは、それでも小屋中を探し回った。
何度も何度も鳴いて、ママが迎えに来てくれると信じて。
僕には止めることが出来なかった。
もうそんな力は残っていなかったし、マルが諦めるまでやらせてあげたほうがいいと思ったから。
ただ、扉から入ってすぐの場所でへたりこんで、マルを見ていた。
しばらくそうしていると、僅かな光すらも闇に溶けていく。
夜が狭い世界に広がって、僕達から視界を奪う。
僕は、本当に疲れていた。
もう何もする気が起きなくて、息をするのも煩わしいと思えた。
現実が僕の身体を深い闇の中へ引きずり込むかのように、重い。
でも、本当は、元からこうだった。
僕の過ごした十年間は、常に絶望に押さえつけられているようだった。
年下の子供に囲まれた孤児院時代も、危険と隣り合わせの冒険者時代も、ずっと。
ワイバーンが僕の全てを燃やし尽くしたあの日から、この世界は僕に死を勧めている。
結局、僕は目を逸らし続けていられただけだった。
スプリさんという唯一の光を道しるべにして、黒泥の中をがむしゃらに走ってこれた。
それだけのことだった。
そのスプリさんが、もういない。
この世界は真っ暗で、何も無い。
だから、もう終わりたい。
まだやらなきゃいけないことはある。
マルとお別れして、マウントホークをフィユル島に連れて行く。
それまでは、終わっちゃいけない。
そう思ってたけれど、身体が動かない。
このままじっとしていたら、闇の中に溶けてしまえるんじゃないかと思ってしまう。
そのほうがずっと楽だ。
マルも鳴かなくなっていた。
冷ややかな夜の空気だけを感じながら、ゆっくりと静寂に沈む。
どれだけ時間が経ったのか。
目を開けているのか閉じているのかも分からない暗闇の中。
かりかりと、擦るような小さな音が聞こえてきた。
そのわずかな感覚が僕を世界に留めているような気がして、すぐに取り除きたいと思った。
「光よ――。安寧の灯を示せ」
光球を漂わせ、小屋の中をぐるりと巡らす。
すると、角辺りの床に懸命に爪を立てるマルが見えた。
「……マル? 何をしてるの?」
「フスフスフス」
しきりに床を嗅ぐマルの背中が、いつかを思い起こさせる。
たしか、僕がお坊ちゃまだった時。
スプリさんの寝室に入って、マルが僕のカバンを見つけてくれたのだ。
「何か……見つけたの?」
先ほどまでぴくりとも動かなかった身体が、嘘のように動いた。
光球の明度を上げて小屋中を明るく照らし、マルを少し横によける。
マルの下にあったのは、何の変哲もない無骨な木板。
他の床板と比べても、何も変わった点は見当たらない。
でも、マルはしきりに、一枚だけに強い興味を向けている。
それで、充分だった。
僕は、木板に手を触れて、魔法を念じた。
詠唱しなかったのは、なんとなく。
ただ、彼女もそうしていたんじゃないかと、思ったから。
使ったのは、浮遊の魔法。
すると、几帳面にはめ込まれた床板の一枚が、易々と宙に浮いた。
床板の下にあったのは、両手で収まるくらいの大きさの箱。
豪奢な装飾が施された、青い宝石箱。
それが、床下に作られた縦長の空間にびっしりと積み重ねられていた。
「ンゥ~」
一つ手に取って床に置くと、マルが恍惚とした表情で頬ずりをする。
どうやらこれが、マルが取り出したかったものらしい。
すぐには開けることが出来なかった。
この宝石箱は、僕がここに来てから初めて触れる、走馬灯に入る前のスプリさんが残した物だから。
じっと眺めて、ようやく決心をして、蓋に手をかける。
中に入っていたのは、
緑の葉っぱ、桃色の花びら、青い小魚や赤い果物。
それらを刺繍で施した
――たくさんのアップリケだった。
一枚、二枚、三枚、四枚……。
一つ一つ手に取って、作り手に想いを馳せる。
スプリさんがどんな時にアップリケを作るのか、僕は知っている。
そんなアップリケが、こんなにもあるなんて。
手に取ったものを床に並べていき、最後の一枚を取り出したところで、十枚になった。
これが床下に積み上げた同じ箱に、同じだけ入っているのだろう。
スプリさんの最期の十年は、きっと幸せだったのだ。
「嬉しいこと、たくさんあったんですね」
じんわりと心が温かくなるままに、並べた十枚のアップリケに語りかける。
どこまでも空虚なこの世界で、唯一価値があるものだった。
スプリさんに早く会いたい。
会って、僕の知らない十年間のことを教えてもらおう。
だから、その為に。
もう少しだけ頑張ろう。
マルを放して、大鷹を島主に譲る。
それだけは、きちんとやろう。
またスプリさんから力を貰って、そう決意した。
並べたアップリケを丁寧に手に集め、宝石箱に視線を戻した時、マルはまだ、空の箱にじゃれついていた。
「そっちはただの箱だぞ?」
「ンゥ~」
感触がお気に入りなのか、それともスプリさんを感じているのか。
ちゃんとお別れが出来ていないから、もう少ししたいようにさせてあげよう。
そう思った時、マルが宝石箱を倒した。
「ぁ……!?」
倒れた箱は甲高い音を立てると共に、口から何かをばら撒いた。
箱の底面とちょうど同じくらいの大きさの古ぼけた紙が、いくつか。
一枚を手に取ると、それが何なのかすぐに分かって、涙が溢れた。
それは、封筒だった。
表には見覚えのある拙い字で、ここの住所と『スプリさんへ』と書いてあった。
封筒を開け、中の便箋を取り出す。
すると、そこにはスプリさんへの愛を綴った少年の文字。
忘れるわけがない。
これは、僕がスプリさんに宛てた
――最初のラブレターだ。
【手紙】
スプリさんへ
あなたのことがせかいでいちばんだいすきな、びーつの村のぐらふとです。
はじめておてがみをかきます。
およめさんになってください。
このまえはぼくをたすけてくれてありがとうございました。
ぼくはいま、こじいんというばしょで、まいにちたのしいまいにちをおくっています。
これもぜんぶ、すぷりさんがたすけてくれたからです。
ありがとうございます。
だいすきです。
きのう、とししたのおんなの子が、おねしょしちゃってないてました。
ぼくはおねしょしたときはもっといっぱいみずをかけたらいいんだよっておしえてあげました。
そしたら、みんなふとんをびちゃびちゃにするようになって、せんたくがもっとたいへんになりました。
でも、たいへんだーっていったら、その子がわらってくれて、よかったです。
だから、すぷりさんがもしおねしょしちゃっても、ぼくはぜったいおこりません。
いっしょにふとんをびちゃびちゃにして、いっしょにせんたくして、いっしょにわらいましょう。
はやくおとなになって、あいにいきます。
だいすきです。
ぐらふと




