四十四話 四十四日目②
月が大きく見える夜だった。
あまりにも美しくて、それ故に凍てつくような怖ろしさがある。
凪いだ林道は時が止まっていると錯覚させるほどの静寂に包まれていて、自分の荒い息遣いだけが鼓膜を揺らす。
月下の青白い林道を駆け上がりながら、なだれ落ちてしまいそうなほどに大きな不安と共に、一つだけ確信を携えていた。
スプリさんがどのようにして居なくなったのか?
その答えは、空間転移の魔法にある。
彼女は以前、『再現』した自身の赤子を体内から僕の手の中に転移させたことがあった。
今思えば、彼女には胎児を世界に送り出す道を失っていた為、苦肉の策として空間転移を利用したのだろう。
今回の失踪も記憶を『再現』する過程で、あの小屋では不都合があったのだ。
だから、どこかへ空間転移をした。
その「どこか」こそ、僕の唯一の確信であり今目指している場所。
丸太小屋を三階建ての大邸宅に変容させるほどの『再現』を可能にした彼女が、なぜ屋外に出る必要があったのか。
それは、屋外でなければありえない状況を『再現』しようとしているから。
もしくは、もうスプリさんに『再現』する力が残されていないから。
僕はそのどちらもだと思っている。
だから、そこへ向かって走る。
足をひたすら前へ前へと押し出す。
なだらかな傾斜がついた林道は、まるで月に向かって伸びているように見えた。
どこまでも続いていて、僕はこのまま走り続けるんじゃないかとさえ思った。
幸いにして、僕の眸は林道の奥にある光景を映す。
林道を抜けたところで息を一つ入れて、改めて全景を捉える。
大月が覗き込むは広大な丘陵。
静寂が帳を降ろすは赤桃と淡黄を散りばめた神秘的な花園。
――日月花の丘。
僕は二色の花のカーペットを踏みしめて、なだらかな丘を進む。
一歩のたびに花弁が散って、一枚一枚を月光が照らす。
美しいとは思えなかった。
思いたくなかった。
灯が風に消えゆくような、儚さを感じたから。
奥へ進めば進むほど、不安が足枷のように僕を縛りつけ、引きとめようとする。
でも、スプリさんがこの先にいるという確信が、足を前へと進ませる。
「……ぁ」
丘の頂点が見えたところで、僕の足取りは加速した。
かつて愛でた花々をねじ切るように蹴り出して、世界を抉り取るように腕を振り抜く。
滑ろうが転ぼうがただちに起き上がって、決して進むことを止めない。
「スプリさん……!」
月夜に佇む、白い影。
踏み出すほどに全貌を垣間見て、叫んだ。
「スプリさん――!」
繊細な金細工のような髪が夜闇に艶めく。
「スプリさん――ッ!」
月光を吸い込んだ白肌が青い闇に滲む。
「スプリさん――ッ!!!」
喉を潰してもいいとさえ思いながら叫んだ。
もう歩けなくなってもいいと思って、走った。
花園に立つスプリさんの背中に。
一秒でも速く届くように。
「スプリさ……」
もうあと一歩で抱きしめられるのに、僕の膝が日月花を散らした。
スプリさんは、月に向かって手を差し出していた。
僕達を結ぶ翠玉の指輪をはめた、左の手。
「――ッ!?」
刹那、スプリさんを中心とした風が吹いた。
瞼を開いた時には、無数の花弁が空へと爆ぜていた。
赤桃と淡黄。
二色の花弁が入り乱れて、夜闇の丘陵を色づける。
まるで、揺らめく炎のようだった。
だから、気付いた。
ああ。そうか。
スプリさん。
あなたは今、
――あの日を生きているんですね。
僕の目に映るのは、愛する妻の背中。
部屋着の白いワンピースを着た、華奢な背中。
抱きしめたい小さな背中。
でも思い返すのは、村を襲ったワイバーンを氷槍で打ち滅ぼした、黒いローブの魔法使い。
僕を家族と同じ場所へ行かせてくれなかったと、救われたことを恨んでさえいたその背中。
そうだった。
あの時、風が吹いたのだ。
それで、僕は、
――恋に落ちた。
「……僕のお嫁さんになってください」
僕の呟きが、静寂に満ちた夜の丘にじわりと滲む。
独り言を言った時のような、静やかな雰囲気があった。
でも、独り言じゃない。
少しだけぎゅっと何かを押し込めるような間があったあと、彼女はゆっくりとこちらに振り返る。
穏やかで、それでいて儚げな、月の光に透けてしまいそうな佇まいだった。
美しい顔に嵌められた黒曜の眸が、僕を映していた。
濁り一つない、柔らかな温度を感じる眸に。
――僕が映っている。
それが分かって、感情が、言葉が、溢れ出した。
「……僕を、助けてくれたから……優しくて好きです……! 魔法が上手で……強くて、好きです……! 長い耳も……ッ! 可愛くて、好きです……! 髪の毛が長くて……。 好きです……っ! だから……僕のお嫁さんになってください……!」
あの時のことは、全部覚えてる。
ホントは振り返ってもらうまでに三回告白したことも、彼女があの言葉を呟いたことも。
「僕は……ァ! 村の子供で……三番目に……力持ちです……。足は……五番目に、早いです……。文字も……書けるッ……し。計算もっ、できます……! だから……大人に……っなれば、貴方を守れます……!」
好きな人が出来たことが嬉しくて、離れたくなくて、乏しい手札で繋ぎとめようとしたことも。
スプリさんが困ってたことも。
そして冒険者らしき一団が来て、これ以上の告白を遮られたことも。
「僕の名前はグラフト……ッ!八歳です!」
孤児院に連れてこられたことも。
どうしても伝えたいことがあったことも。
「特技は家族に笑ってもらうことです……! お父さんも……お母さんも……っ! 僕といると楽しいって……いつも笑っててくれました! だから……ッ! あなたもきっと笑ってくれると思います……ッ!」
これは、人生が唯一交わったあの日の記憶。
スプリさんと僕の出会いの記憶であり、別れの記憶。
だから、これが最期なのだと、なんとなく悟った。
濡らした頬を袖口で拭って、立ち上がる。
ずっと静かに聞いてくれていた彼女の眸が濡れていた。
深呼吸をしてからもう一度視線を通わせて、
「僕はあなたに笑ってほしいです。 あなたが笑ってくれるためにたくさんがんばります。 あなたが嫌なことを全部忘れちゃうくらい楽しい毎日を過ごせるように、僕は僕の全部を使って頑張ります」
走馬灯を終えようとする彼女へ、あの頃と同じ言葉を贈る。
「でも、僕はまだ、あなたを幸せにはできません。 僕がまだ子供だからです。 お金が無いからあなたをお腹いっぱいに出来ないからです。 お家が無いからあなたがぐっすり眠れないからです」
僕を救ってくれたあなたへ、最大限の感謝を込めて。
「だから、僕が大人になったら、あなたに会いに行きます。 ちゃんとあなたを幸せにできるようになってから、もう一度お嫁さんになってください、ってお願いします」
僕を愛してくれたあなたへ、一生分の愛を込めて。
「それまで、お手紙をたくさん書きます! あなたが笑っちゃうような、面白いお手紙を送ります! 嫌なことがあった時に読めるように、辛くなった時に読めるように、毎週絶対に送ります!だから――」
あなたの次の人生が、優しさに満ちたものでありますように。
「待っていてください」
祈りを捧げるように、言った。
言ってから、彼女に微笑みかけた。
スプリさんは僕の顔や言葉を反芻するように目を瞑る。
そのときに雫がポトリと落ちて、赤桃色の花弁を揺らす。
そして、澄んだ眸を新しい涙で潤ませながら、僕を見据えて
笑った。
これまでに見た笑顔の中で、最も安らかで、愛に満ちた笑顔だった。
「スプリさん」
彼女の両手を掬い上げて。
僕を見上げる潤んだ笑顔に、僕が出来る一番の笑顔を返して。
「僕はあなたのことを愛しています」
抱きしめた。
互いの肩を濡らしながら、ずっと。
スプリさんの身体が力を失っていくのを感じても、抱きしめ続けた。
腕がだらりと下がって、膝が崩れて、ずり落ちそうになるのを、決して離さなかった。
離してしまうと、分かってしまうから。
とっくに気付いていることが、本当のことになってしまうから。
でも、抱きしめてるのに冷たくなり続ける彼女が可哀そうで、ゆっくりと花園に寝かせる。
胸元に耳を当て、確かめてから、彼女の穏やかな寝顔に向けて呟く。
「あなたとの四十五日間が、僕の人生でした」
一緒に過ごした四十四日に、出会いの日を加えて。
彼女の五百年の人生に触れ合うことができた、たった四十五日。
僕はスプリさんを抱き抱えながら、日月花の丘を下る。
――終わったんだ。
白みを帯び始めた空を見て、それだけを思った。
残り三話で終了です。
明日中に投稿いたします。




