四十三話 四十日目②~四十四日目
眠る彼女を抱え上げて、ベッドに運ぶ。
広がった髪を整えて、寒くないように布団をかける。
食卓から椅子を引いてきて彼女の顔を見れるように腰かけ、
「おいで」
足元で裏返るマルを抱え上げた。
「ンゥ」
腕の中で、マルが不思議そうに僕を見上げる。
今日はどこ行くの?
そんな風に言っているような気がした。
「今日はお家でゆっくりするんだよ」
お腹を指の腹で掻いてあげると、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「お裁縫したり、お料理したり、マルちゃんと遊んだりしたいよって、スプリさんが言ってたんだ」
「チューとか、ぎゅーもしたいよって、言ってくれてたんだ」
優しく語りかけた。
「ンゥ~ォ」
優しく応えてくれた。
まどろみの中にいるみたいに暖かくて、頭の中がぼんやりしてて。
昨日もこんな天気だったなぁと思い返したりして。
彼女の爛漫とした笑顔を思い出して。
「ほんとに今日は暖かいなぁ」
昨日と、今朝と、そして今も。
世界はずっと朗らかで、明るい。
どうしようもなく優しい空気が僕達を包んでいる。
微笑み合えば、触れ合えば、語らえば。
僕達が何をしようと幸福になれる準備をしてくれているみたいだ。
それなのに、スプリさんは応えてはくれない。
どこかずっと遠くの場所に、一人で行こうとしている。
俯くと目がたまらなく熱くなって、急いで天井を見上げる。
「今日は温かくてお昼寝にピッタリな日だから、スプリさんも眠たくなっちゃったのかなぁ?」
自らを鼓舞するように、明るく努めた声を出す。
「ンゥ~」
返事をくれるのはマルだけで、それでも少しだけ待ってみる。
起きてるよ~って、顔をまん丸にして笑ってくれるのを期待して、少しだけ。
でも彼女は眠ったままで、僕は鼻から空気を吸う。
また天井を見つめて、二度三度息を吐いて、
口づけをした。
彼女の薄く開かれた唇が少しだけ乾いてた。
「マルはお腹空いたか?」
「ンゥ~ン」
返事をくれたマルを彼女の傍に置いて、立ち上がる。
「じゃあ朝ごはん食べようか。みんなで」
それから、僕は一日中彼女の側にいた。
スプリさんは目を覚まさなかった。
四十一日目。
ベッドに横たわるスプリさんはひどく安らかに見えて、何度も胸に耳を当てる。
すると、僕に幾度となく安心をくれた等間隔の心音が聞こえてくれる。
でも、彼女がぎゅっと抱きしめてくれないだけで、無機質な音に聞こえてしまう。
まるで意思を持った何かが彼女の心臓を叩いているような、そんな音。
ドリフトの酒場の店主はこう言っていた。
『エルフは脳が壊れる寸前、体内に蓄えた膨大な魔力を使って寿命を出来る限り引き延ばす』
スプリさんの穏やかさを象徴するような緩々とした心音は、止まるはずだった心臓を無理矢理動かした結果なのだろう。
――僕が寄り添ってきた彼女は、本当に生きていたのだろうか?
目を覚まさない彼女を見ているとついそんな考えが浮かんで、僕の心を暗い場所へ引きずり込もうとする。
だから、明るい世界に視界を移して、自分に言い聞かせるように言う。
「今日も天気がいいですよ」と。
しなやかな指先を掬い上げ、手のひらで優しく包みこむ。
彼女の手は陽だまりみたいに暖かくて、今にも握り返してくれるんじゃないかって、思う。
「目が覚めたら散歩にいきましょうね」
まるでスプリさんが起きているみたいに、言ってみる。
「でも焦らなくてもいいですからね。明日も明後日も、その次の日も、雨は降らないみたいですから」
そうだ。焦るな。
スプリさんの心臓はまだ動いてる。
息もしてて、温かい。
きっと、もう一度。
スプリさんと手を繋いで歩けるから。
「また日月花を見に行きましょう。この前作ってくれたジャムもまだ残ってますから、パンに塗って食べるんです」
「それか、夜に行くのもいいかもしれませんね。 夜の日月花もまた違って見えるらしくて、久しぶりにお酒なんか飲んだりしても絶対楽しいです」
「花冠を作ったりもしたいですね! スプリさんは妖精みたいに可愛いから、きっとすごい似合うと思うんです!」
「そうだ! 絵を描きましょう! 日月花の花畑を背景にして、笑っているスプリさんと僕が……手を繋いで……いる絵を……」
穏やかな沈黙が僕を冷やしていく。
無慈悲に時間が過ぎていく。
気付くと僕は俯いていて、唇が上手に動かない。
自分の膝が滲んで見えて、急いで天井の先にある晴天に思いを馳せる。
「……だから……!」
でも、気持ちが大きすぎて、零れる。
「早く支えてくれないと……倒れちゃいますよ……?」
この日も、スプリさんは目を覚まさなかった。
四十二日目。
お昼頃、島主が食材を届けに来てくれた。
事情を説明すると、悲し気に「そう」と呟いた。
「グラフトちゃん。ちゃんとご飯食べてる?」
島主を外まで見送りに出た時、そう言われた。
「えぇ。ちゃんと食べてますよ。スプリさんにも食べさせてます。野菜とお肉を柔らかく炊いて……」
「じゃあ、ちゃんと寝てる?」
言葉を返すことが出来なかった。
島主は黙って頷いた後、僕を小屋に押し込めた。
そのままベッド傍の椅子に腰かけて、
「私がスプリちゃんを見ててあげるから、グラフトちゃんは寝てなさい」
「でも」
「でもじゃないわよ。この子が起きた時にグラフトちゃんがフラフラじゃあ寂しいでしょ?」
また何も言い返せない。
「私のフィユル島を堪能し尽くしてもらうまで、どこにもいかせないんだから。スプリちゃんもグラフトちゃんも、マルちゃんもよ?」
「ありがとうございます」
島主に甘えることにして、深くお辞儀をした。
床に布団を敷いて、その上で少し目を瞑る。
次に目を開けた時には外が真っ暗になっていて、飛び起きた時に島主がクスクス笑っていた。
「よく眠れたかしら?」
「はい……。ありがとうございます……」
また深くお辞儀をすると、「なら良かった」と快活な声と共に肩を叩かれて、そのまま背中を見送った。
あの人にはお世話になりっぱなしで、申し訳ない。
まだ温かい椅子に腰かけて、スプリさんの頬を撫でる。
二日前から何も変わらない寝顔が僕を安心させて、不安にさせる。
でも、少し眠ったからか気持ちが少し落ち着いていた。
この日もスプリさんは目を覚まさなかった。
四十三日目。
朝からマルがたくさん鳴いた。
いつも抱きしめてくれるスプリさんが抱きしめてくれなくて、ずっと寝ているから何度も頬ずりして、それでも抱きしめてくれなくて、鳴いた。
その様子があまりにも悲しげで、寂しそうで、僕も泣いた。
マルはスプリさんの傍を離れようとしなかった。
大好きな蒸鶏も我慢して、彼女が抱きしめてくれるのをずっと待っていた。
でも、マルが抱きしめられることは無かった。
四十四日目。
未明のこと。
「ニャアア!」
マルが突然叫んだ。
これまで聞いたどの鳴き声よりも悲痛な感情を帯びているように思えた。
僕は彼女の手を握りながら少しだけウトウトしてしまっていて、まるで警報のように聞こえて飛び起きた。
スプリさんに何かがあったのだと、瞬時に理解していた。
「……スプリさん?」
彼女が起きたらすぐに分かるように手を握っていたはずだった。
それなのに、彼女の姿がどこにも無かったのだ。
心が急くままに小屋の中を見渡す。
窓から注ぐ月明りが冷たくて、石棺の中にいるみたいな息苦しさを覚えた。
扉も窓も開いていなかった。
天井も床も、いつもと何も変わらない。
違うのは、スプリさんが居ないということだけ。
悲しいほどに、それだけだった。
全身の血が凍り付いたようだった。
指の先まで冷え切って、震えた身体では呼吸すらままならない。
「スプリさん……。スプリさん……!」
焦燥感が心臓を痛いほどに高鳴らせるのに、恐怖が思考を鈍らせる。
脳髄が脈打つような感覚がして、今にもまろび出して何もかもを忘れてしまいそうだった。
でも、手の中にじんわりと残る彼女の温度が、僕を辛うじて正気に留めてくれた。
スプリさんを探さないと。
身体が強張るのなら引きずってでも、彼女の元へ行かないと。
そう考えて、ようやくぼんやりと浮かぶものがあった。
それに縋るように心を固めて、夜の世界に飛び出す決心がついた。
「ンゥ~! ンゥ~!」
悲哀に満ちた鳴き声がシンとした夜の空気に滲む。
マルは眸に大きな涙を湛えながら、彼女の温もりを探す。
「マル!」
彼を目線まで抱えあげる。
小さな身体がひどく震えてて、言葉が詰まる。
泣いている暇はない。
涙を腹の底に沈めるように息を整えて、マルの眸を見つめ返す。
「ママは僕が探してくる! だから……もし入れ違いでママが戻ってきたときの為に……待っててくれる?」
マルは黙ったまま、大粒の涙を零した。
お互いの恐怖を押し込めるように抱きしめてから、
「いってきます」
僕は小屋を飛び出した。




