四十二話 四十日目
夢を見た気がする。
僕が走り回る、いくつかの夢だ。
スプリさんがどこにもいなくて、知らない場所を駆け回った。
せりあがるような焦燥感と鈍重な不安が、今も頭の中で残り香を放つ。
笑わないスプリさんの手を引いて、色んなところを巡った。
ただスプリさんが隣にいるだけで嬉しくて、絶対にこの手を離さないと強く思っていた。
何かを求めて、搔き抱くように走った。
すごく息苦しくて、いくら走ってもそれに手が届かなくて、怖かった。
覚えのない記憶と感情に対し、ずっと疑問符を浮かべていると、身体がストンとどこかに落ちた。
真っ暗じゃなかった。
目の前に黒い幕があるのだけれど、うすぼんやりとした光が透けて見えていて、わけもわからずホッとする。
臀部が固い何かを踏んでいて、手の甲にも同じものが触れている。
少しだけ冷たくて、なんとなく心地よい。
背中の何かに体重を預けているようで、少しだけ痛い。
「…ラ……トくん」
耳障りの良い、朗らかな声。
鳥がさえずるように明るくて、じゃれつく子猫のように甘い。
「グラフトくん」
僕の名前を呼んでいる。
優しい響きが鼓膜を撫でて、まどろみの中をじんわりとすり抜けていく。
「ちゅーしちゃお」
頬とおでこに繊細な感触が触れ、最後に唇を優しく包む。
離れるのが嫌だな、って漠然と思った時、自然と瞼が開かれた。
「おはよ」
朝の光が差し込む小屋で、スプリさんが微笑んでいた。
小柄な身体を小さく畳むようにしゃがんで、ベッドにもたれるようにして眠っていたらしい僕を覗き込んでいる。
そうか。
僕は、死ななかったんだな。
安堵を抱きしめるようなまばたきをして、
「おはようございます。スプリさん」
二人でにっこりと微笑みあって、四十日目が始まった。
「いい天気みたいですね。今日はどこ行きましょうか?」
彼女は悩まし気に唸りながら、寄り添うように腰かける。
「えっとねぇ……今日はお家でゆっくりしたい」
少しだけこそばゆいような照れ笑いを浮かべ、僕の顔をちらりと窺う。
長い耳の先がほんのり桃色で、ぴょこぴょこ動くのが愛らしい。
「ゆっくり、ですか?」
「うん。……お裁縫したりね?」
「はい」
「お料理したり……マルちゃんと遊んだり……」
「はい」
「あとねあとね……? チューとか、ぎゅーもいっぱいしてね……? いっぱい……嬉しいなぁ幸せだなぁって……したいの」
彼女の小さな頭が肩に乗り、繊細な毛先が頬をからかう。
「どう……かな?」
ふわふわとした、眠たそうな声だった。
答えは決まっている。
彼女の頭に頬を乗せて、言った。
「今日はお家でゆっくりしましょう。スプリさんと僕とマル。家族一緒に」
差し込んだ朝日が光のヴェールになって、僕達の足元に温かい場所を作る。
マルがよたよたと歩いてきて、僕達にお腹を向ける。
ぽかぽかとした陽気が嬉しいのか、笑っているように見えた。
小屋の外では草木がそよぐ音がして、窓辺で小鳥が一休みしている。
優しくて、穏やかな、何の変哲もない一日の朝。
僕達に残された、限りある日々の一幕。
スプリさんが返事をすることは、無かった。
触れられる。
息もしている。
心音も聞こえる。
でも、目を覚まさない。
穏やかな顔で、優しい寝息を立てながら、深い深い眠りについた。
キャリアに貼った笑うマルのアップリケが、細かい粒子になって消えた。
スプリさんの長い人生が終わろうとしているのだと、分かった。




