四十話 三十九日目
トントントン。
まな板を叩く軽やかな音が、小気味良く鼓膜を揺らす。
甘い香りが鼻孔をくすぐって、緩やかに身体が目覚めていく。
「あ、おはよぉグラフトくん」
キッチンに立つスプリさんが優しく微笑んでいた。
「おはようございます」
笑顔を返して立ち上がり、窓を覗いて天気を窺う。
雲一つ見当たらない快晴だ。
「もう朝ごはんできてるよ」
スプリさんはまだ何か作っているけれど、食卓には朝食が用意されていた。
「久しぶりだなぁ。ありがとうございます」
「ふふふ! 元気ごはんだよ!」
彼女は得意気に笑ってから鍋の火を止めて、僕と一緒に食卓を囲む。
随分張り切ってくれたみたいで、とても量が多い。
鶏のソテーに魚肉団子の入ったスープ。葉野菜と果実のサラダ。
彼女の好きな卵焼きと、パン。
「あ~ん。おいしい?」
「美味しいです!」
それなのに、起き抜けで食べきってしまうのだから、僕の胃袋は彼女に鍛えられていたらしい。
食後、彼女は再び鍋に火をかける。
「何作ってるんですか?」
彼女の傍に立って聞くと、彼女は得意気に笑う。
「ジャムを作ってるんだよ! これを瓶に詰めてねぇ、パンと一緒に持って行って、お昼に食べるの!」
「いいですねぇ」
「そうでしょ~? お天気もいいし、今日はピクニックしよ?」
もしかすると、泉の畔でやったピクニックのことを懐かしんでのことだろうか?
思い出がちゃんと残っていることが分かると、どうにも嬉しくて堪らなくなる。
「分かりました! お昼はピクニックしましょう!」
「やた~!」
小踊りして喜ぶスプリさん。
最近の彼女は本当に無邪気で愛らしい。
「ん」
彼女が突然身体を寄せて、目を閉じる。
彼女の肩を抱き寄せるように唇を合わせると、ゆっくりと離れて見つめあう。
甘さがじんわりと唇に残っている。
スプリさんの潤んだ眸に吸い寄せられるように、また唇を合わせようとした時。
小屋の扉がノックもせずに開かれて、
「おはようグラフトちゃん! 昨日はよく眠れたかしら……ってアラアラおやおやまあまあ!」
島主が入ってくる。
島主は下卑た笑いを浮かべながら、硬直する僕に近づいてきて、
「続けてちょうだいな?」
続けられるか! と言いたいところだったのだが、
「グラフトくん? ちゅーは? 」
と、二人だけの世界にいるスプリさんによる、圧倒的上目遣い。
僕は一瞬の戸惑いの後、見られながらのキスを選んだ。
「若いわねぇ」とか「初々しいわぁ!」とか「アツアツゥ~!」とか、島主のヤジが本当に鬱陶しかったけれど、スプリさんが満足したのは七回目を終えた時だった。
僕は適当な言い訳をして、島主と外に出る。
「すいませんでした……彼女はその、手紙で書いた通り、見えてないんです」
「そうみたいね……。まだ腹落ちしないところはあるけれど、本当に貴方以外誰もいないみたい」
島主はそう言ってから大きなため息を吐いて、表情を繕う。
「それじゃあ今日の話をしましょうか!」
「はい。よろしくお願いします」
―――
――
―
島主との話し合いを終え、僕とスプリさんは島の中心に向かう林道を歩く。
島主は僕達を先導する形で、少し前を歩いている。
道はなだらかな登り坂だけど、木陰になっているから涼やかな風が心地よい。
「どこに連れてってくれるんだろうねぇ?」
「ンゥ~」
スプリさんはまた何かしらの魔法を使ったようで、マルは彼女の頭の上に座っている。
いつもより視界が高いからか、いつもより得意気な顔で鳥達に挨拶中だ。
「もうちょっとだけ歩けば見えてきます。期待しておいてくださいね」
「分かった! 楽しみだねぇ」
「ンゥ~ォ」
しばらく道なりに進んでいると、景色は変わらず林だが甘い香りが漂ってくる。
「なんか良いにおいするよ!?なにかなぁ!?」
スプリさんも気付いたようで、興奮気味に飛び跳ねる。
「もうすぐ見えてきますよぉ……!」
やがて林を抜けると、日なたの明るさが視界を一瞬真っ白に染め上げ、思わず目を瞑った。
彼女の手もぴくっとしていたから、多分同じ反応をしてる。
慣らすように瞼をゆっくりほどいていくと、徐々に景色が露わになる。
「えぇ~!? なにこれぇ!?」
スプリさんが驚きを全身で表現しながら、目を白黒とさせた。
思わず笑ってしまった僕は、得意げにして答える。
「スプリさんが小っちゃかった頃、僕がアコニットくんだった時に話した花、覚えてますか?」
彼女の景色に恍惚とする横顔がハッとなる。
「もしかして日月花!?」
「その通りです!ここは世界でたった一か所しかない日月花の群生地なんです!」
僕達の視界の下半分を覆う雄大な丘。
そこを少しの余白すら逃さず咲き誇るは、淡い黄色と赤みがかった桃色、二種類の花弁を空へと向ける日月花。
「もっと近くに行きましょう!」
「うん!」
僕達はお互いの手を引っ張り合うようにして丘へと向かって走る。
近づけば近づくほどに香り立ち、幸福な笑みが込み上げる。
「すっごいすっごいすっご~い!!」
彼女は花の側まで近寄って、爆発的に笑顔を振り撒いている。
「お花畑が見たいって言ってましたもんね?」
そう言うと、彼女の中から何かが込み上げているような間があって、
「うんっ!」
最高の笑顔を見せてくれた。
「触ってもいいかなぁ?」
と花の前にしゃがみ込み、待ちきれない様子のスプリさん。
島主の方を振り返ると、
「したいこと全部やっちゃいな!」
手で大きな丸を作って破顔していた。
「それならもっと中まで行きましょう!」
「わわっ」
スプリさんの手を引いて、勢いよく駆け上がる。
すると、花弁が風に舞い上がる。
細長い黄色の花弁、幅広の桃色の花弁。
それぞれがまるで僕達を包み込むように、ひらりふわりと空を踊る。
「ははは! すごいですよスプリさん!」
「うんっ! すごいすごいっ!!」
花のカーペットの上。
昂るままに抱きしめあって、何度も飛び跳ねた。
もう感情が爆発して、キレイな言葉なんて何も出なくて、二人とも「すごい」とばかり連呼して、笑いあう。
笑い疲れてその場に倒れ込むと舞い上がる花弁のヴェールに包まれて、また幸福が込み上げる。
――ようやく。
ようやく、この景色をスプリさんに見せてあげられた。
幼少の彼女と約束した二つのこと。
一緒に旅をすることと、綺麗な花畑を見ること。
この二つを叶えることが彼女の幸福に繋がると、ずっと考えていた。
彼女の傷を知った日から、笑顔を取り戻す為にとずっと計画し続けてきた。
だから、あの日アコニットと呼ばれた時、僕は運命だと思った。
かつてアコニットとして約束したことを、アコニットの皮を被った僕が叶えられるのだから。
「スプリさん! ここで結婚式をやりましょう!」
息を整えてから、空に叫ぶ。
「け、けっこんしきって?」
スプリさんはまだ息が上がったまま。
「夫婦になった二人で神様に『結婚します!』って宣言するんです! 真っ白なドレスを着て、キレイにお化粧して、僕とキスをするんです!」
「わ、わかった……! けっこんしき、するぅ!」
「了解しました! ……じゃあちょっとこのまま休んでから、やりましょう……!」
「うん……!」
花の丘で、彼女を待つ。
十日ほど前に手紙と共に島主に送っておいた礼服を着て、髪をバッチリ後ろに流した。
汚れないよう不動の心を胸に抱き、それでいてソワソワと身体を揺らす。
「お待ちどう!」
島主の快活な声が聞こえ、僕の心臓が唸りを上げた。
ただ振り返るだけなのに、大鷹から飛び降りた時よりも高鳴って、呼吸すら難しい。
何度も深呼吸して、それでも空気が足りない感覚を抱えながら振り返る。
すると、スプリさんが立っていた。
「お、おまたせ……!」
頬を染め、チラチラと窺うようにこちらを見つめる彼女は、ウエディングドレスに身を包んでいる。
透け感のある繊細なレースが彼女の華奢な身体を優美に包み、たわわなフリルを花房のように広げたスカートが優しく日月花の花びらをそよがせる。
かつてルフタールでデートした際に購入した白いドレスを島主が仕立て直してくれたのだ。
あまりの美貌に膝から崩れ落ちそうだ。
でも、それだけじゃない。
彼女本来の美貌を底上げするお化粧。
デートの際に彼女自身がしてくれたものとは異なり、島主が世界一の花嫁をテーマに施してくれた華やかなメイク。
普段よりもずっと大人っぽいのに、それでいて可愛さは損なわれていない。
やや居心地の悪そうなスプリさんに歩み寄って、薄いレースに包まれた心細そうな手を取る。
「すごく綺麗です。スプリさん」
「なんかね……? 自分じゃないみたい……!」
ちょっとだけ恥ずかしそうにしながらも、笑顔を見せてくれた。
「さっきね? 服とかお化粧とか全部勝手に動いてね? 立ってるだけでキレイになったの。マルちゃんも魔法使ってないのに浮いてるし」
少し離れてこちらを見守る島主はマルを前後左右に動かしながら、ケラケラと笑っている。
そんな島主と目配せをしてから、
「そういう魔法なんです」
「ウソだー」
「ホントかもしれませんよ?」
「「ふふふ」」
二人で見つめ合っているだけで幸せが込み上げて、すっかり緊張がほぐれてしまう。
ずっとこうしていたかったけれど、島主の咳払いが近づいてきて、にやけた顔を整える。
「それでは、結婚式を始めましょう」
「うん」
「まずは、僕達の家族であるマルさんに祝詞を上げてもらいます」
「のりと?」
「お祝いの言葉です。おめでとう!ってやつ」
スプリさんにはふわふわと空を歩いているように見えているであろうマルが近づいてきた。
普段と違う装いのスプリさんの香りを執拗に確認する。
「マルちゃんに出来るかなぁ?」
「できますよ。マルは気持ちが優しい子だから」
そう言うと、スプリさんが「そうだね」と笑う。
「マルさん、お願いします」
「おねがいします」
二人で声を掛けると、マルが恍惚としながら、
「ンゥ~ン」
祝詞を上げてくれた。
「よくできたねぇ~!」
すぐさまスプリさんが頭を撫でて、マルも心なしか達成感を漂わせている。
スプリさんが喜んでくれているから、この祝詞は大成功だ。
「ありがとうな。マル」
「フゥ~ン」
心からの感謝を、彼に贈った。
「それじゃあ次は、誓いのキスです」
「ちかい?」
彼女の可愛い顔に疑問符。
僕は、よぎる思いを無視して答える。
「これからずうっと夫婦でいる、っていう約束です」
すると、彼女がほのかな笑みを浮かべたあと、
ゆっくりと目を閉じた。
僕は半歩だけ近づいて、空いた手で彼女の肩に触れる。
身長差の分だけ上を向く彼女の唇へ、顔を寄せていく。
でも、止めた。
目を閉じるのがあともう少し早ければ、気付けなかっただろう。
スプリさんの閉じられた瞼から、穏やかな光の粒が零れ落ちていた。
それはゆっくりと頬を伝って、音を立てずにドレスに染み込んでいく。
彼女が泣いているのは、なぜだろう?
そう考えた途端、僕の目からも零れ落ちた。
彼女と同じ、穏やかな光の粒。
だから、彼女が泣く理由がなんとなく分かった。
――幸せだから泣いているんだ。
今この瞬間一緒にいられることが、嬉しい。
そう思ってくれているから。
だから泣いているんだ。
僕は彼女にキスをした。
長い時間唇を触れ合わせ、目を開けると、僕達は二人とも笑っていた。
涙は拭かなかった。
全部全部分かち合っているこの時を、ありのままで過ごしたかったから。




