三十一話 三十二日目~三十三日目
朝が来て少しすると、分厚い雲が雨を降らせた。
スプリさんの五回目の絶叫を見届けた頃だった。
初めは弱かった雨音も、次第に激しさを増していき、束の間の静寂すらも奪われた。
衰弱しきった彼女の傍で、座っている。
無力で愚かな自分を責める一方で、彼女との約束から手を離せないでいる。
僕は、スプリさんと「ずっと一緒にいる」約束をした。
昨日も、「必ず会いに行く」と約束した。
約束は果たさなければならない、と思う。
でも、僕が約束した彼女は、「自分がこれから経験する絶望」を知らなかった彼女だ。
そして、今まさに絶望を経験している彼女が唯一望んでいるものが、
死。
理由は分からないけれど、彼女は死ぬことが出来ない。
彼女の体格からしてあり得ない量の出血をしていながらも生きていたことが何よりの証左だ。
僕はずっと、彼女が絶望していることは知っていた。
初めて顔を見た時点で彼女が闇を抱えていることを知り、ここ数日でそのワケを知った。
でも、彼女が死にたいと思っていたなんて、考えもしなかったのだ。
確かに僕は一緒にいることを彼女と約束したが、それは死にたくなる前の彼女とだ。
死にたいと願う彼女相手にその約束を果たそうとするのは、彼女が望むことなのか?
スプリさんの望み通りにしてあげることだけが、彼女の救いなのではないか?
「スプリさん。僕はどうすればいい……?」
気絶する彼女に質問をこぼす。
返ってくるのは消え入りそうな呼吸だけ。
それも雨音を押しのけることはできず、悲しさだけがそこにあった。
「――ぎゃああああああああああ!!!!」
しばらくすると、痛みがスプリさんを襲い始める。
僕は咄嗟に短剣をカバンから取り出して、自分の首にあてがう。
今僕が死ねば、彼女を救ってあげられる。
でも、彼女との約束を、僕を二度も救ってくれた彼女の想いを、踏みにじることになる。
悩んで、悩んで。
それでも答えが見つからなくて。
悩んでいる間にもスプリさんは苦しんでいて、可哀そうで、何とかしないといけなくて。
どうすればいいのか分からなくて、情けない自分が嫌いで、涙が流れる。
「誰か、教えてよ……」
この日、僕は死ぬことが出来なかった。
絶叫と虚無を繰り返す彼女を見殺しにしたのだ。
愛する人の悲痛な叫び。
死にたいという言葉。
一日中それらを聞き続けた僕は、何も出来ないただの抜け殻になった。
【三十三日目】
翌日になって、スプリさんは叫ばなくなった。
彼女は動かず、言葉を発さず、どこも見ていない。
生きているだけだった。
黒泥のように濁った眸をしていた。
初めてスプリさんと出会った日の、あの眸だった。
改めて、僕は彼女を救えなかったことに気付かされる。
僕はまた、彼女をここへ連れてきてしまったのだ。
僕の記憶の中にある彼女の笑顔が消えていくような心地がして、また涙が出た。
僕はただスプリさんを見ていた。
雨の音が聞こえる。
「ンゥ~ン」
まだ日が出ている頃、マルが側にいることに気が付いた。
彼は寝室には居なかったはずだから、いつの間にか入ってきていたのだろう。
そういえば、昨日からごはんをあげていないじゃないか。
「ごめんよ。すぐごはんあげるからね」
僕は力が入らないのを感じながらも立ち上がり、マルを抱えて扉を開ける。
「あれ……」
寝室の扉の外に広がっていたのは、雨の降る小庭だった。
頭が回らなくて、わけも分からないまま部屋に引き返す。
すると、気付いたことがあった。
寝室にあるはずのない物が、床に散乱していたのだ。
僕が買って厨房に置いてあった食材。
彼女と一緒にルフタールで買って、彼女の寝室のクローゼットの中にあるはずの衣装。
どれも、彼女が魔法で作り出していない、本物ばかりだ。
「寝室以外を消したのか……?」
そうとしか思えなかった。
マルが突然現れたのも、おそらく同じ理由。
スプリさんは屋敷の寝室から動かなかったから、それ以外の部分を再現する必要が無くなったのだろう。
「ンゥ~ウ」
「あ……ごめんごめん。お腹空いたよね」
マルに急かされて、床に落ちていたパンをちぎる。
「はいどうぞ」
マルの前に差し出すと、マルがかぶりつく。
「ゆっくり食べるんだぞ……ってどこいくの?」
マルはすぐに食べず、緩慢な足取りで歩き出した。
マルネコの身体は転がりやすいように出来ているから、歩くのに向いていない。
それなのに、まるで大事なものを運ぶかのように、懸命に足を前へ進めていく。
目で追っていると、彼の向かう先が分かった。
「まさか……」
マルは真っすぐに――スプリさんを目指していたのだ。
「食べさせてあげたいのか……!?」
冷えきった身体が、熱くなるのを感じた。
僕だけじゃなかったんだ。
「マル……!」
スプリさんに笑顔になってほしいのは、マルも同じなんだ。
「一緒にいこう! スプリさんを元気づけるんだ!」
マルを抱え上げて、スプリさんの元へ駆ける。
気持ちの整理はついていない。
自分がどうすればいいのかも分からないままだ。
でも、マルがスプリさんを想っている。
この事実だけは、どうしても伝えたかった。
「スプリさん! 聞いて? マルがさ? スプリさんがお腹空いてるだろうからって、ごはん持ってきてくれたんですよ?」
「フゥ~ン」
横たわるスプリさんに見えるように、パンを咥えたマルを掲げた。
「マルだってお腹空いてるのに、スプリさんに食べてほしいって思って……それで……!」
しかし、黒ずんだ眸は何も映していないようだった。
「頑張って歩こうとしたんです……? ちっちゃい足で、スプリさんのトコまで行こうって……頑張ってくれて……」
伝えたいことがあって、伝えたい人がそこにいるのに、届けることが出来ない。
悲しくて、寂しくて、言葉が詰まる。
「だから……スプリさん……!」
でも、マルが頑張ってくれたから。
助けようとしてくれているから。
「死にたいなんて……言わないでよ……?」
自分の気持ちを絞り出した。
「……くそっ」
届かなかった。
身体に力が入らなくなって、マルをスプリさんの傍に降ろした。
やるせなさが込み上げて、涙がポタポタと透明な壁に落ちて、スプリさんの身体に沿って流れていく。
「………ゃ…」
雨音が響く中に、微かに別の音が聞こえた気がした。
「……ま……ゃ…」
ごく小さな、消え入りそうな音。
でも、それは確かに声だ。
「大地よ――!その身をもってあらゆる衝撃から守りたまえ!」
雨音が煩わしくて、丸太小屋を土壁で覆う。
「光よ――!安寧の灯を示せ!」
暗闇と静寂に包まれた周囲を淡く照らす光球を漂わせる。
「スプリさ……!」
声の主はスプリさんだという確信があった。
だから、彼女の口元に耳を近づけようとした。
名前を呼ぶのすら躊躇するほどの光景だった。
柔らかな光の中、僕は見たのだ。
「ンゥ~ン」
マルがスプリさんの顔に頬ずりをしているのを。
「ま……る……ちゃん……?」
スプリさんが首を傾けて、マルの名前を呼んでいるのを。
感動が涙になって、眸から溢れ出した。
胸が張り裂けそうなくらいに膨らむ気持ちを言葉にして叫びたいのに、嗚咽が邪魔をした。
スプリさんの孤独な記憶が、マルを受け入れたのだ。
理屈は分からないし、考えられない。
でも、確かに僕の眸はマルとスプリさんが触れ合う様子を映している。
マルはパンを咥えてみせたあと、スプリさんの目の前に置いた。
「……ぱん? もってきて、くれたの……?」
「ンゥ~ウ」
「そっか……ありがと、ね……?」
スプリさんはまるで久しぶりに動かしたようなぎこちなさでマルを撫でた。
絶望し、衰弱し、それでもマルに優しく接する様子は、あまりにも痛ましくて、あまりにも嬉しかった。
「ンゥ~ン」
「どう……したの……?」
「フスフス」
「ぱんを一緒にたべたいの?」
マルはしきりにスプリさんにパンを握らせようとして、いざスプリさんが握ろうとすると咥えて引っ張ろうとした。
スプリさんはわずかに眉をひそめた後、パンをちぎった。
「どう、ぞ」
「フゥ~ン」
彼女がちぎったパンを受け取ると、お礼を鳴いてからベッドの上をよちよちと歩く。
彼は少しずつ、少しずつ前に進んで、
――僕の元へ辿り着いた。
「僕にも……くれるの?」
「ンゥ~ウ」
「そっかぁ……! ありがとう……! ありがどう……ッ!」
堪らなくなって、マルを抱きしめる。
マルは僕のことも心配してくれてたんだ。
僕はここ数日スプリさんに付きっきりで、何もしてあげれなかったのに。
「ごめんよ……!マル! ありがとう……!」
マルの顔をちゃんと見て、お礼を言って、また抱きしめた。
この気持ちが、感謝が、伝わってくれるように、祈りを込めて。
「そこにいるの……?」
スプリさんの声だった。
顔を上げると、スプリさんと目が合っているような気がした。
でも、そんなワケがない。
これまで僕が出来うるあらゆる手段を費やしても、彼女の視界に入ることは叶わなかったのだ。
ありえない。
ありえない。
そのはずだった。
「グラフトくん……なの?」
彼女が僕の名前を呼んだのだ。
こちらに僕を映さないはずの眸を向けて、彼女の世界から締め出されたはずの、僕の名前を。
「……はい! 僕です!グラフトです!」
衝動的に叫んだ。
でも、彼女には届かなかった。
「マルちゃん……グラフトくんと一緒なの?」
「ンゥ~ン」
スプリさんは僕が見えているわけではない。
僕が抱きかかえているマルを見ていたのだ。
落胆はしなかった。
それどころか、身体中に熱が迸った。
――伝えられる。
僕が見えなくても、話せなくても、触れることが出来なくても。
僕がここにいることを、ずっと一緒にいたことを、伝えることが出来る。
「スプリさん!僕です!僕はここにいますよ……!」
スプリさんに近づいて、マルの小っちゃな手を左右に振る。
「ンゥ~ン」
まるで僕が言ったことを代弁するかのようにマルが鳴いてくれた。
「ぁ、ああ……。ぐら、ふど……ぐんっ――!」
スプリさんの眸が僅かに艶めいて、大粒の涙が流れ落ちた。
消え入りそうだった声が力を帯びて、僕の名前を必死に呼ぶ。
「スプリさん――!スプリさん!!」
マルを彼女の胸元に押し当てて、彼女の眸に存在を叫ぶ。
お互いに名前を呼び合って、泣いて、叫んだ。
泣きじゃくりながら、二人でマルを抱きしめた。
マルが、僕達を隔てる境界に、橋を架けてくれたのだ。
「フスフスフス」
心なしか、マルも誇らしげに見えた。
しばらく泣いた後、スプリさんにマルを預けて立ち上がる。
「……マル。少しの間スプリさんを頼んだぞ?」
「ンゥ~ン」
マルの返事に頷いてから、
「ちょっと喝を入れてもらってくる」
雨空の下に飛び出した。
土壁に籠っている間に、雨は少し弱まっていた。
雨中を走ると、疲労でぼやけた身体が引き締まるような気がして、気持ちよかった。




