三十話 三十一日目
この日は、スプリさんがいつも以上に僕を求めた。
食事中、入浴中、僕達は所構わずまぐわって、体力が尽きそうになればお互いに治癒魔法をかけて、ひと時も離れなかった。
僕の知らない彼女の日々で、何かがあったのだろう。
彼女の様子にそんな確信を覚えながらも、僕は理由を聞かなかった。
スプリさんは話す時間すらも惜しいというような様子だったから、僕もそれに応えたのだ。
夜になって、脱衣場で本日何度目かも分からない行為を終えた僕達は、本日二度目の入浴をする。
じゃれあうようにお互いの身体を洗いあい、また昂ぶりのままに身体を重ねる。
二人ともとうとう歩くのも覚束なくなって、お互い支え合うようにして湯舟に浸かる。
彼女を後ろから抱きしめながら、じんわりとほぐれゆく疲労感を味わう。
「グラフトくん」
少しだけ身体を傾けて、僕の顔を見上げていた。
「ん?」
彼女を優しく抱きしめながら、囁くように応える。
すると、少し間を置いてから、
「お坊ちゃまがね? もうすぐ、死んじゃうの」
感情が複雑に絡んでいるように聞こえた。
含まれる全ての環状を紐解くことは僕には出来ないけれど、しかしその大半が安堵、喜び。
そんな気がする言い方をしていた。
「そっか」
僕はお坊ちゃま――コウヌ・ポドストロマという男が彼女に何をしているのかを何も知らない。
スプリさんも何も話そうとはしないから、僕もあえて聞こうとはしなかった。
ただ唯一知っているのは、ポドストロマが彼女を酷く傷つけたことだけ。
「うん。だからね? もうすぐ、お屋敷から出て行かなくちゃなんだぁ」
彼女の言いたいことが分かった。
だから、僕は火照った彼女の頬にキスをして、彼女が欲しがっているであろう言葉を贈る。
「じゃあ他の人になって会いに行きますね?」
そう言うと、彼女は黒い眸を瞬く間に潤ませて、
「……うんっ!」
笑う。
僕達はまた抱きしめあって、お互いに愛を押し付け合う。
まるで見失うことのないよう印をつけるように。
この約束をを身体の奥底まで刻みつけるように。
風呂から上がれば治癒魔法をかけあって、ベッドの上で身体を重ねた。
しばらくして、僕達は汗と体液に濡れたまま余韻を愛し合っていた。
すると、スプリさんが息を整えながら、
「グラフトくん」
と神妙な面持ちで名前を呼んだ。
「どうしました?」
すると、彼女が躊躇いがちに何度か声を漏らしてから、
「グラフトくんは、私のこと好き?」
なぜ今更こんなことを聞いてきたのだろう、と思った。
でも、そんなの、決まってる。
「世界で一番愛しています。子供の頃からずっと」
「そっか……!」
彼女はそれだけ言うと、僕の胸に顔をうずめる。
「うふふ……ふふふっ!」
「どうしたのスプリさん?」
「んーん! なんでもないの。嬉しくてね? 笑っちゃうの……!」
彼女が笑ってて、嬉しくて。
「ふふっ」
僕もつられて笑ってしまう。
愛欲に溺れた一日は、そうして更けていく。
そろそろ日付が変わったか、という頃。
スプリさんは胸の中で寝息を立て始めた。
じっとりと濡れた頬やおでこに髪の毛が張り付いていたので、手のひらで優しく拭う。
彼女の寝顔は、あどけない子供のようだ。
一日中見ていた艶めいた表情も、乱れた表情も、まるで嘘のように思えた。
「おやすみ。スプリさん」
好きな人を愛しむ少年のように。
娘を見守る父のように。
妻を労う夫のように。
純粋で複雑な愛情を込めて、呟いた。
隣の穏やかな息遣いにつられて、倦怠感が眠気に変わりゆく。
うつらうつらとしながらもう一度彼女の頭を撫でて、まどろみの中に落ちていく。
一日が終わる。
そう思っていた。
「――ぎゃああああああああああ!!!!」
夜を裂くような絶叫が、僕の脳髄を激しく揺らした。
動揺するよりも先に身体を起こして、毛布を引き剥がす。
「スプリさん!!」
「――アアアアアアアアアアア!!!」
スプリさんが全身を激しく痙攣させ、眸を明滅させながら叫んでいた。
絶え間ない苦痛が彼女を襲っているのだと、すぐに分かった。
――よぎる。
彼女の下腹部に刻まれた、人間の悪意。
同時に、右手を濡らす熱さに気付いた。
僕はすぐさま彼女の下腹部に視線を走らせると、夥しい量の赤い液体が噴き出していた。
明らかに致死量。
それどころか、小柄な彼女の中に流れているはずがないほどの量だ。
純白のシーツが瞬く間に赤黒く染まり、染みきらなかった一部が鈍く照らされている。
彼女の人生を絶望に叩き落とした出来事が、今目の前で起こっている。
そう直感した。
凄惨な光景が僕の心をズタズタに引き裂いていくのを感じながらも、たまらず彼女の傷口を抑えようと動いた。
そして、これが僕が変えられない過去であることに気付かされる。
「またかよ……ッ!」
――触れなかったのだ。
決して超えることの出来ない薄い壁が、世界を隔てる境界が、再び彼女と僕の間に現れたのだ。
「くそっ……!くそっくそっ……!」
どれだけ力をいれようが、彼女に触れることが出来ない。
「スプリさんっ!スプリさんっ!!」
どれだけ声を荒げても、彼女の耳には届かない。
「光よ――! かの者を苦痛より救いたまえ!!」
どれだけ魔力を込めても、痛みから彼女を救えない。
「闇よ――! かの者をまどろみの檻に沈めよ!!」
彼女を休ませてあげられない。
これは過去の出来事を再現したものに過ぎない、ということは理解している。
彼女を叫ばせる痛みも、彼女から際限なく湧き出す血液も、「再現」されたものだろう。
だから、僕に出来ることが無いことも、頭では分かっている。
でも、スプリさんはまた、独りで絶望を味あわされている。
せめて、励ましてあげられないか?
抱きしめてあげられないか?
痛みを和らげてあげられないか?
意識を遠ざけてあげられないか?
彼女を救おうと努力することを、模索することを、諦めることなんて出来るはずがない。
「――雷よ!かの者の感覚を奪えっ! ――水よ! 清きその身で安らぎを与えたまえ! ――光よ!安寧の灯を示せ! ――風よォ! あらゆる障壁を断つ刃となりてその身を振るいたまえぇ――ッ!」
しかし、僕の全ての想いは見えない壁に遮られた。
スプリさんの役に立つことがあるかもしれない、と習得に励んだ魔法が、まるで意味を為さなかった。
世界に人生そのものを否定されているような気がした。
次第に、スプリさんはぐったりとし始める。
か細い吐息が少し漏れるだけで、微動だにしない。
「なんで……っ!」
僕は弱りきった彼女の傍らで、叫ぶしかなかった。
魔力が尽きて、諦めないことすらも出来ない。
「なんで誰もいないんだよッ――!?」
彼女はいつも独りだ。
辛い時、苦しい時、痛い時、耐えなきゃいけない時。
いつも彼女の周りには誰もいない。
「通りすがりでもいい! クズでもいい! 誰でもいいから側にいてくれよ……! 」
僕がその誰かになって、彼女を苦しませるものを取り除いてあげられるのに。
「どうしてスプリさんばっかり……ッ!こんな酷い目に遭わなきゃいけないだよッ!? 」
スプリさんを痛めつける世界を恨んだ。
「他に苦しまなきゃいけないヤツがたくさんいるだろう!? なんでスプリさんなんだよ……!?」
スプリさん以外を選ばなかった世界を恨んだ。
「もう酷いことしないでくれよ……もう止めてくれ……誰でもいいから……スプリさんを助けてくれよ……!」
涙が溢れた。
「たす……けて……」
僅かに言葉が聞こえて、涙も吹かずに彼女に耳を寄せた。
「たすけ……て……ぐらふと……くん」
縋りつくような言葉に、全身が熱をもった。
激情が駆け巡るまま、僕は彼女に訴えた。
「絶対に救う!! スプリさん! 僕が絶対に君を笑顔にするっ!」
僕の声は届かない。そんなことも分かってる。
でも、無視なんて出来るはずがなかった。
「いたい……よ……さび……しいよ……」
「会いに行くから! 誰になっても、君を独りにはしないからっ!」
無力感が、僕に責任を追及し始めた。
罪悪感が、僕に自死を強要し始めた。
憎悪が、僕を執拗に駆り立てた。
でも、叫び続けた。
彼女の声に答え続けた。
でも、
「……なん、で……たすけ、て、くれない……の?」
言葉が出なくなってしまった。
虚ろな目、消え入りそうな細い声。
苦痛に抗うことすら叶わない彼女が、僕を求めている。
それなのに、僕は届かない魔法を放って、聞こえない声を叫んでいる。
意味のないことを、意味がないと知ったうえで、やっている。
誰かが僕の耳元で囁く。
『死ね。今すぐ死ね』
『お前が生きている所為でスプリさんが苦しんでいる』
『死んで詫びなきゃダメだろ』
分かってる。
『この生活はお前の自己満足でしかない』
分かってる。
『スプリさんの過去は変わらない』
分かってる。
全部分かってる。
僕が今すぐ死ねば、彼女を苦しみから救ってあげられる。
僕が今出来る中で唯一意味がある行動。
それが死だ。
でも、僕はスプリさんと約束したんだ。
ずっと一緒にいるって言ったんだ。
だから、僕は死なない。
スプリさんがどれだけ傷つこうと、どれだけ絶望しようと、もう絶対に逃げない。
そう誓ったから。
過去を変えれなくても、今は何も出来なくても、きっと意味はある。
念じて、念じて。
僕は大きく息を吐いてから、叫んだ。
「ごめんスプリさん! 今はいけないんだ!! でも待ってて! 絶対に貴方を絶望から救い出すからッ!!!」
彼女とまた会える日を信じて。
絶対に笑顔にしてみせると決意して。
過去に流した彼女の血を握りしめ、再び闘志を燃やす。
「ころ……して……」
僕は、また誤った。
五百年近く生きたスプリさんに限ってそれはあり得ないと、頭から消していた。
「だれ……か……ころし……て」
僕がかつて見出した救いを、彼女は見出さない。
そう思い込んでいた。
「しにたい……しにたいよぉ……」
なぜ、思い至らなかったのか?
なぜ、彼女の眸から連想できなかったのか?
スプリさんは五百年も生きたんじゃない。
――五百年も死ねなかったのだ。
死にたいのに、死ねない。
だから、生きていた。
それだけのことだったのだ。
ほどなくして彼女の意識が刈り取られ、赤く染まった寝室に静寂が訪れる。
そして数時間後、痛みは再びスプリさんの意識を引きずり戻した。
目を覚ます度、スプリさんは激痛に苛まれ絶叫、衰弱して死を望んだ後、数時間の気絶。
それを延々と繰り返して、いつの間にか朝日が昇る。
僕はまた、どうしたらいいのか分からなくなった。




