二十八話 二十六日目④
大鷹の背に乗って夜空を飛ぶ。
しかし昼間とは違い、彼女は景色を楽しめない。
というもの、彼女には目隠しをしてもらっているのだ。
「ちょっと怖いよー」
「すいません。でももうすぐ着きますから」
飛び始めて数分。
目的地に降り立ち、闇夜にまぎれていく大鷹を見送る。
「目隠しとりますね」
「うん……」
今夜、どうしてもスプリさんに見せたい景色があった。
丸太小屋の北側を覆う広葉樹林の奥にある泉だ。
ドリフトの住民からは夜のデートスポットとして親しまれている理由は、この地に生息するヒカリムシにある。
ヒカリムシは夜になると活動を開始し、やがて淡い光を放ち始める。
無数の淡い光に優しく照らされた夜の泉は、まるで夢物語の一幕のように幻想的。
シンとした涼やかな泉のほとりで、幾人もの恋人たちが寄り添いあったのだろう。
この中では心を容易くさらけ出してもいいと思わせる、非現実的な光景である。
「あ……えと」
しかし、彼女は言葉を失う。
住民にとってのおすすめデートスポットであろうと、いくら幻想的であろうと、美しい光景であろうとも、彼女にとってはつい先日僕の死体を見た場所だからだ。
僕は当然その事実を覚えているし、うっかり連れてきたわけではない。
僕が彼女に残してしまった悲しい記憶を上書きする為に来たのだ。
「スプリさん」
「あ、ごめんね……? そ、その、ちょっと思い出しちゃって」
飛び交う淡光が彼女をほのかに映し出す。
笑おうとしている、そんな表情だ。
「キレイ、だね!」
「そうですね」
泉の方に視線を移した彼女の、いつものような明るい口調。
僕から顔を背けたのだと、分かった。
一呼吸。
目を閉じて、静謐な泉を心に落とす。
「スプリさん」
名前を呼ぶと、彼女が振り返る。
ぎこちない笑顔を浮かべていた。
「言いたいことがいっぱいあるんです。聞いてもらえますか?」
「うん……。どうぞ?」
「今日はありがとうございました。本当に楽しかったです。ずっと貴方とデートがしたかったので、夢が叶いました」
「私もこれまでで一番楽しかった。ありがとね!」
彼女の表情が少し和らいだように見える。
「デートが出来たのも、今こうやって貴方の笑顔が見れるのも、ここで貴方が僕を助けてくれたからです。本当にありがとうございました」
そう言うと、彼女は何度か頷いて、
「それでここに連れてきてくれたってことなんだね。 いいよぉ。もうさんざんありがと、って言ってもらったもん。それに……私だっていっぱいありがとうがあるんだよ? 小さい時にごはんを作ってくれたり一緒にあそんでくれたり、私の楽しかった思い出は全部全部グラフトくんだもん。ありがとね」
「いえ。僕も楽しかったですから。それに、僕が助けてもらったのは、あの時が初めてじゃないんです」
「そういえば、言ってたね? もしかして未来の私が、ってことなのかな?」
「はい。 僕は十年前の八歳の頃、未来の貴方に命を救われました」
「そうなんだぁ。なんか聞いてもあんまりピンとこないなぁ」
「そうでしょうね。だって未来の話ですから」
「そっか。未来の話だもんね」
スプリさんがようやく本当の笑顔を見せてくれて、僕もつられて綻んだ。
彼女は少し考えた後、
「でも、未来の私が貴方を助けたから、私は今グラフトくんと一緒にいられる、ってことだもんね! 未来のわたしにありがとうだね!ありがとうございましたぁ」
「ふふっ、そうですね。ありがとうございました。未来のスプリさん」
何故か遠くの空にお辞儀をするスプリさんに合わせて、頭を下げる。
「それで、八歳の僕は貴方に一方的に約束をしたんです。僕はその約束を果たしにスプリさんに会いに来たんです」
「そっか。じゃあ、間に合わなかった、ってことなんだね……」
彼女は伏し目がちに頷いたあと、そう言った。
僕は一秒だけ目を閉じてから、答えた。
「いえ、間に合いました」
「え?でも未来の私とした約束でしょ?」
「そうです。あなたと約束したことです。だからこれから、その約束を果たします」
小首を傾げる彼女の前に立ち、跪く。
上着のポケットから豪奢な小箱を両手で差し出して、息を大きく吸ってから開けた。
「一目見た時から、貴方のことが好きでした。会えない十年間も、その気持ちは全く変わりませんでした」
ずっと抱え続けた思い。紛れもない本心。
今ここで、全部伝える。
「でも、僕は貴方のことを何も知りませんでした」
スプリさんとの再会は思いがけない形だった。
現実を信じられなくて、僕は思考に逃げた。
「子供になった貴方と過ごして、泣き虫で甘えん坊なところを知りました」
幼い彼女の父になった。彼女を傷つける無責任な男だった。
現実に打ちひしがれ、打ちのめされた。
僕は絶望から逃げた。
「侍女になった貴方と過ごして、世話焼きさんでちょっと強引なところを知りました」
逃げた先で彼女の主人となった。
目を逸らしたまま彼女との生活を楽しんだ。
でも思い出して、死ぬことを選んだ。
僕は彼女から逃げた。
「それ以上に、貴方の優しさと可愛さを知りました。貴方のことを知ることが出来て、僕の気持ちはもっと大きくなりました」
彼女に救われて、僕は彼女の想いを知った。
彼女には僕が見えていないのに、僕は確かにそこにいた。
想いから逃げていたことに気付いた。
「僕は貴方の全てを愛しています。だから、貴方の側で、貴方を幸せにする努力をさせてください」
もう逃げないと、心に決めた。
側にいると、彼女に誓った。
だから――
「僕のお嫁さんになってください」
プロポーズ。
十年前のスプリさんに誓った約束を、今ここでやり遂げた。
でも、本番はここから。
彼女の返答を貰わなければ。
刹那、視界を飛び交う光達が、一斉に道を開けた。
温もりに気付いて、スプリさんに抱きしめられていることに気付いた。
僕は指輪の箱を持ったまま、彼女を抱きしめた。
「ほんとに?」
わずかに震えた声が囁く。
「ほんとです」
「私は、ぐらふとくんの顔も知らないんだよ?」
「はい」
「それに、あと何回会えるか分かんないんだよ?」
「はい」
「私は、いなくなっちゃうんだよ?」
「……はい」
徐々に嗚咽が混じるスプリさんの言葉に、喉が閉まろうとする。
全部分かっている。
逃げていない。その上で想いを伝えている。
もっと向き合え。
彼女の不安に向き合え。
「それでも僕は貴方を愛しています。あなたが顔を知らないなら、そのぶん気持ちを知ってもらえるよう努力します。会える回数が少ないのなら、一回一回を最高の思い出にしてみせます。あなたが居なくなるのなら、いる間に僕の一生分を注ぎます」
非常な現実に向き合え。
「僕は貴方の長い人生のほんの一部にしか触れることが出来ません。僕は本来あなたの人生にいない人間で、貴方の過去や未来を変える力も持っていません。でも、貴方が思い出す一日一日に笑顔を添えることが出来ます。だから、貴方の五百年の中のほんの数十日を僕にください。五百年を丸ごとひっくるめて明るく照らせるくらいの数十日をあなたに送ります」
彼女を笑顔にすることが僕のすべきことで、
「改めて言います。スプリさん」
――したいことだろ。
「僕のお嫁さんになってください」
「うあああああああん――っ!!」
言い切る前に、スプリさんが泣き始めてしまった。
返事を欲する気持ちを抑えながら、彼女の背中をさする。
シンとしているはずの夜の泉に、彼女の泣き声が響く。
ヒカリムシは静けさを求めてか、どこかにいってしまった。
わずかな月明りだけが僕らを照らしていて、僕らだけが生きているように思えた。
しばらく抱きしめあったまま、彼女が落ち着くのを待った。
彼女が静かになってすぐ小さな声で囁いた。
「はい。私も、グラフトくんのお嫁さんになりたいです」
僕達はお互いに手を離して、彼女の薬指に指輪を通した。
少しだけおでこを合わせて笑いあって、
初めてのキスをした。
長い長いキス。
互いに求めるように身体が密着して、次第に絡み合うキスになる。
「グラフトくん」「スプリさん」
月光が雲に隠れ、泉のほとりは暗闇になった。
僕達はこれまでの分をむさぼるような情熱的なキスを交わす。
互いの手を絡ませ合って、強く繋がる。
「約束」
唇を離して、彼女が言った。
「ん?」
「私も守らなくちゃね?」
彼女はそう言うと、僕の耳元で囁いた。
「いっぱい……しようね?」
それから、僕達は互いの身体を情欲に委ねた。
まさぐりあって、キスをして、キスをしながら触れ合う。
次第に彼女の声が艶を帯びてきて、互いの手が下腹部を這う。
彼女の淫靡な声を吸い込むように舌を絡ませながら、下着越しのお互いを愛でる。
「脱がして……?」
感触だけを頼りに彼女を紐解いて、闇の中で彼女は全身を晒す。
彼女も僕を脱がせると、またむさぼるようなキスをする。
互いに身体を愛撫して、昂る気持ちを更に高め合う。
指先が違和感を触れたのは、その時だった。
彼女の吸いつくような瑞々しい生肌において、臍あたりから感じる妙な異物感。
まるでそこだけ別物に触れているような感覚が、高揚感に僅かに滲む。
でも、彼女の嬌声に情欲を煽られて、僕はまた行為に耽る。
下へ下へを指を這わして、彼女の秘部を囲うようになぞる。
誘うようにあえぐ彼女に合わせ、少しずつ中心を目指していく。
ぬめりを帯びた液体に触れ、そこをこすり上げると彼女が身体を震わせる。
ここだ。
指を中へ滑り込ませようとして、またしても違和感が滲む。
「もっと触って?」
違和感を振り払うように、指先で水音を奏でる。
彼女が甲高くあえぐ度に情欲がせり上がり、その時を今か今かと待ち構えている。
「もう……我慢できません」
「きて?」
囁いた彼女の脚を手探りで広げ、陰部同士をあてがう為に姿勢を変える。
――その時、雲を抜けた月光が降りた。
月が、僕達のお互いを露わにする。
彼女の煽情的な姿が、初めて僕の視界に触れる。
しかし、僕の理性は保たれた。
目を背け続けた闇の中の違和感に、相まみえたからだ。
彼女の臍から下、足の付け根までの一帯。
そこにあったものは、紛れもない「人間の悪意」だった。
熱された剣でずたずたにされたのか、無数の切り傷を炎で溶かし固めたのか。
そんな、夥しい数の古い傷。
そして、傷口に文字が添えられていた。
傷を彼女に与えた張本人が刻んだであろう言葉が、彼女の肌を汚していた。
『ポドストロマよ永遠なれ』
それら「だけ」が、そこにはあった。
かつて、彼女は僕にいくつかの言葉をくれた。
言葉達は少ないながらもずっと僕の側で勇気づけてくれた、大切な僕の宝物だ。
全ての言葉を、一つたりとも抜けることなく思い出せる。
でも、一つだけ、聞き取れなかった言葉があった。
彼女が初めて僕にくれた言葉だ。
それが、今やっとわかった。
彼女は僕を遠ざけようとしていたのだ。
『私には膣がありません』
彼女はそう言ったのだ。




