二十五話 二十六日目
「……痛くない」
目覚めてすぐに身体を動かして、呟いた。
完全復活。
頭の中でそんな言葉が仰々しく輝いて、たまらずベッドを飛び降りる。
「マル! おいで!」
「ンゥ~」
この感動を、僕を見つけてくれた恩猫と分かち合いたい。
そう思った僕はマルの前で跪いて、両手を広げる。
彼も意図を汲み取ってくれたらしく、僕のほうに向き直る。
「ほら!おいで!」
「ンゥ~オ」
が、彼の動きがなんて緩慢なことか。
のろのろと起き上がり、よたよたと短い足で這うようにして、ごく短い距離を動いて裏返る。
ごめんだけど、もう待ってられない。
僕はマルを抱き上げて、
「ありがとうマル! 君がいてくれてよかった!」
ありったけの感謝を込めて抱きしめた。
「フスフスフス」
マルはしきりに鼻を鳴らしながら、身体を預けてくれる。
彼にこの感謝が伝わっているかは分からないけれど、だらしない表情にホッとした。
マルとの交流を終え、最も感謝を伝えなければならない人の元へ走る。
この時間であれば朝食の準備だろう。
階段を駆け下りて、まっすぐ厨房に向かう。
「スプリさん!」
勘違いで一度木っ端みじんにしてしまい出禁になった場所。
そんなことなど頭から抜け落ちて、勢いのままに扉を開く。
「……ぁ」
鍋をかき混ぜていたスプリさんが、こちらに気付く。
彼女の表情がみるみる鮮やかに色づいて、
「おはよ! もうどこも痛くないの?」
「はい!この通りです!」
「そっか。そっか……!」
すぐにくちゃくちゃになっていく。
そんな彼女をたまらず抱きしめた。
「スプリさんのおかげで、元気になりました……!」
胸の中から水音混じりに「うん」と聞こえて、目頭が熱くなる。
「ありがとう……ございます! スプリさんが、いてくれたから! スプリさんの、おかげで……僕は!」
「うん」
「怪我だけじゃ無い! ずっと昔、昔から……! あなたのおかげで生きてこれたんです! あなたからは返せないくらいたくさんのものをっ……貰ってて、それで……!」
「うん……」
「ずっと、ずっと恩返しがしたいと思ってて……!でも、失敗ばっかりして……! 困らせたり、悲しませたりしてばっかで……!だから……!」
伝えたいことがたくさん溢れてきて、頭の中がいっぱいになって言葉をうまく紡げない。
それでもなんとかして彼女に送りたくて、もどかしい。
「よかった。よかった」
スプリさんがそう繰り返しながら、僕の顔に手を伸ばす。
「元気になって……良かったねぇ」
僕の頬を優しく撫でながら、彼女の眸が穏やかに濡れる。
彼女の微笑みが僕の心をなだらかにしてくれて、ようやく、すべきことに照準が合った。
歪みそうになっていた顔をそれなりに整えて、一呼吸。
言え。言え。
自分の背中を押すように念じて、口を開く。
「スプリさん」
「なあに?」
「一つ、お願いがあるんです」
「うん。教えて?」
感謝や罪悪感、恋愛感情や欲望。
彼女に対する僕の心はかなり複雑で、それでいて全ての感情が一つの方向に向いている。
「僕とデートをしてくれませんか?」
彼女を幸せにする。ただその一点を僕の全てが渇望する。
そんな僕の内側をありったけ込めた、デートのお誘い。
彼女の反応は――
「あわわ!」
とても慌てていた。
胸の前で手を揉んでいると思えば忙しなく身体を動かしたり、僕にちょっと抱きついてみたり。
長い耳が羽のようにパタパタと動いていて、目なんかずっと泳いでいて時々しか目が合わない。
「あわわわ!」
スプリさんの新たな一面が見れて嬉しい反面、しばらく待っても落ち着きそうにない。
時間が経つにつれ、徐々に僕の中に不安が募っていく。
――もしかして、行きたくないんじゃ?
ネガティブな思考がすぐに口から洩れる。
「い、いやだったら無理し」
「行くもん!!」
しかし、ここでスプリさんからの待望の返答が、「僕の言葉を遮るくらい大きな同意」という形で返ってくる。
「よ、よかった……。でもなんでそんなに困ってるんですか?」
「だ、だって……」
「だって?」
言い淀む彼女を覗き込むと、顔を真っ赤にした彼女が叫んだ。
「だってデートなんかしたことないからっ! わっかんないんだもん!!ど、どうしたらいいのかな? 何か準備とか……えとえと! あわわわ!!」
「デートプランは僕が考えてきっちりエスコートしますから、安心してください。スプリさんは……そうだな。侍女服だとアレなので、おめかししてくれると嬉しいです」
「おめかし、したらいいの?」
「してくれたら、僕はすごく嬉しいです」
彼女は何度も「そっか」と言いながら頷いて、
「じゃあおめかししてくるから……ちょっと待っててね!」
と、朝食の準備をほっぽり出して行ってしまった。
しばらくして調理中だったことを思い出したらしい彼女が戻ってきて一緒に朝食を済ませたあと、各自準備してお昼前に玄関に集合する運びとなった。
彼女は最初こそバタバタと行ったり来たりしていたけれど、自室に籠ったっきり出てこなくなった。
僕は一張羅の礼服(スプリさんが見る僕には反映されないのだろうけれど)を着て髪の毛を整えるくらいだから、浮いた時間でデートプランを見直す。
昨日練りに練ってバッチリだと思うし、今日は快晴で暖かい。
しかし念には念を入れて、最高のデートを実現させなければならない。
……むちゃくちゃ緊張してきた。
緊張と戦い続けた二時間。
長いようで一瞬だったような不思議な感覚を残したまま、玄関に向かう。
万が一転んでしまわないように階段をゆっくり降りて、急に足元に来るマルをすかさず撫で回避。
またしても玄関までの距離に遠いような短いような感覚を覚えながら、無事に集合場所に立つ。
まだ彼女は来ていない。
そわそわとしてカッコ悪いと思われたくないから、直立不動で玄関扉を睨みつける。
動くな。全然待ってないよ感を出すことが、最初のポイントだ。
そうして、数分かもしくは数時間か、はたまた数秒だったかもしれない時間を過ごした後、
「お、おまたせ!」
と背後から彼女の声。
全然待ってないよ、と言うだけの、ほんの些細なこと。
それしきのことで、誰が躓くというのだろうか?
「あわわわ!!」
僕である。
新鮮な装いのスプリさんに心を打ち抜かれた僕は、半ば狂乱する。
「ど、どう、かな……?」
淡い空色のワンピース。
華美な装飾がなく、一見シンプルで大人しい印象でありながら、だからこそ彼女の華奢ながら女性らしいラインを引き立てるデザイン。
露わになった鎖骨が魅惑的で、大人でありながら子供でもある彼女の相反する二つの魅力をどちらかを立てすぎることなく、絶妙な力加減で支えている。
まさに彼女の為だけに作られた衣装であると言えるだろう。
いつもと違う髪型。
長い後ろ髪を一つに束ねて、肩の前にゆったり垂らしている。
働く女性がしがちな髪型で彼女のあどけなさ残る可憐な風貌にはちょっぴり背伸びした印象を受けそうになる。
だが待ってほしい。彼女の髪型にはたっぷりと可愛さが含まれているのだ。
――さりげない編み込み。
一見楽な髪型を思わせるが、潜ませた編み込みに気付けば最後。
見た者に与えるキュートさを各段に跳ね上げ、油断した心を鷲掴みにしてしまうのだ。
そして、これは彼女の子供時代を知る僕だからこそわかる。
ぶきっちょだった彼女の成長と努力。髪型に込められた想いと手間。
僕の心は鷲掴みどころか握りつぶされて無くなっちゃった。
しかし自失するにはまだ早い。
彼女の容姿で感謝せねばならない部分はあと二百はあるが、あえて残り二つだけ言おう。
ほのかな化粧。
彼女は産まれ出でた時から持つ完成された未成熟な美貌により、普段化粧気はない。
がしかし今日は違う。
桃色の唇にごくわずかなツヤ。
そして頬がうっすらと色づいている。
これは、確かに微々たる違い。男にとってはあっても無くてもほとんど気にすらしないだろう。
しかしその微々たる違いを施したるは何用か?
そこを考えれば、彼女の可憐さが一生際立つ。
――少しでも可愛く。
これは、彼女のそんな想いが秘められた、決して見逃してはいけない最高のおめかしだ。
そして最後は足元。
ヒールである。
貴族様が履くような高さを出すものではなく、歩きやすさとのバランスを考えられたもの。
それゆえに彼女の視点や僕から見る印象にはさしたる影響は無いだろう。
しかしそのわずかな高さが、確実に彼女と僕の顔の距離は縮めるのだ。
ただ小柄な彼女が背を少しでも高く、と思っただけなのかもしれない(勿論それだけでも可愛いが)。
ただよそ行きの履物としているだけなのかもしれない。
だかしかし、もしかすると彼女が僕の隣を歩くことを考えてくれたのかもしれない、と思うだけで、世界が丸ごと変わって見える。
『おしゃれは足元から』という言葉があるが、今この瞬間言葉足らずとなってしまった。
『世界は足元から』――この言葉を新しく贈ろうと思う。
普段よりもずっと華やかに着飾った彼女は本当に綺麗で、だからこそ僕とのデートの為に頑張ってくれたのだと思うと可愛くて仕方が無い。
隣を歩くのが畏れ多いような美貌と、今すぐにでも抱きしめたくなるような可憐さ。
その二つを併せ持つ今の彼女は、
「物語に出てくるどんなお姫様よりキレイです」
この言葉が、僕の語彙力の表現可能上限。
「そ、そんなことないよぉ」
照れてる。可愛い。
「いえ! 誰が何と言おうと、スプリさんが世界でいっちばんキレイです! いっちばん可愛いです!」
「……うぅ~!」
赤面するスプリさんを思うままに褒めちぎり、小一時間が経過。
デートはまだ、始まってすらいない。




