二十三話 二十三日目③
僕は生き返った。
全ての事実がそう告げていた。
失ったはずの身体の感覚がほとんど戻っていた。
握れなくなった左の拳も弾き飛ばしたはずの右脚も、確かな感覚と存在がある。
腹の開いた三つの穴も塞がっていて、中身も辛うじて機能しているように思う。
右目は何かに覆われているが、眼球の感覚がある。
身体が動かせず直接視認できないが、傷つけた場所が訴えかける痛みが何よりの証拠である。
スプリさんの魔法で蘇生した、もしくは瀕死の状況から回復した、そのどちらか。
どちらにしろ、僕は今死体ではない。
明確に死を感じていた。
それがただの臨死体験だった可能性はあるが、蘇生もしくは確実に死を迎えるという段階からの治癒が僕の身体に起こったことは事実。
夢物語とも思える不可思議な状況において、僕はただ一つの目標のみを見据えていた。
「……ころして、くれ」
生きている僕と彼女が空間を共にしているこの事態は、何としても避けなければならなかった。
彼女は死を覆せる力と僕に対する強い庇護欲を有し、対する僕は死を免れただけの状態とあって逃げる力はない。
今後、彼女は自死を図った僕を何としても生きさせようとするだろう。
そうなると、僕は彼女の前からいなくなることが出来なくなる。
その結果、彼女が僕を用いて誰かを『再現』し、彼女がまた辛い目に遭う。
だから、僕が今やるべきこと、出来るたった一つのことは、
「おねがいだ……! 今僕を殺さないと……大変なことになる……!」
――死を望むことだ。
たとえそれが、
「僕は知っているんだ! 君はこれから不幸になる! 僕のせいで絶望に落ちてしまうんだ! 今までよりもずっと、ずっと悲惨な目に遭う! もう立ち直れないくらいの最悪を迎えることになってしまうんだよ! だから……それを避けるためにはッ! 僕を殺すしか方法は無いんだよ……っ!!」
傷つけることになっても。
「なあスプリさん!? 君は今も覚えているだろう!? 子供の頃、君は父親に叩かれた! 蹴られた! 許してって懇願しても、何度も何度も暴力を受けた! 子供も産まされた! 無理矢理君を孕ませたんだよッ! そのうえで腹の子を蹴り殺したッ! 忘れられるわけないよなぁ!? だってそのせいで追放されて、この屋敷に来たんだもんなァ!? その全部……全部ぜんぶゼンブ――ッ! この僕がやったことなんだァ……! 君が不幸なのも絶望したのもこの僕の所為なんだよ……ッ!」
恨まれることになっても。
「なぁ!? そんなヤツを子供みたいに甘やかしてどうだったよォ!? 楽しかったかァ? ちょっとは気が楽になったかァ? ……全部僕の所為とも知らずになァ! なあ教えてくれよ? 子供を殺したヤツに甲斐甲斐しく世話を焼いてた気分はどうだったんだよォ!? なにが『えらいねえ』だ! はァ? 子供を殺してくれてえらいねぇ、ってコトかァ!? バカじゃねえの!?」
貶めることになっても。
屋敷の記憶になって初めて見た彼女の眸を思い出して、絶対的な確信を覚えた。
確かに、絶望がそこにはあった。子を失い、故郷を失った者の眸ではあった。
でも、僕がかつて見た彼女の眸は、そんなものでは無かったのだ。
光の届かない深淵だった。決して救うことなど出来ない暗黒だった。
僕如きがどう足掻こうが晴れることはないと思えるほどの絶望的な闇が、彼女の眸にあった。
屋敷に来てからの日々は、彼女にとっても平穏なものだったのだろう。
僕が過ごした中で見た彼女の表情は、とても穏やかで幸せに溢れているように見えた。
でも、この先で確実に起こるのだ。
彼女の心を叩き落とした父の虐待を超える、彼女を壊す決定的な出来事が。
だから、これ以上彼女に見せるわけにはいかないのだ。
――彼女をこれ以上傷つけない為に、僕が彼女を傷つける。
これが、僕が偽りの虚無を過ごして、生き返って、彼女の涙を見て辿り着いた、最終結論。
僕の最後の役目だ。
これで全部終わるから。
これ以上苦しまなくて済むから。
さぁ、僕を殺してくれ。
そう祈りながら、叫んだ。
スプリさんはずっと黙ったままだった。
先行く未来に影を落とされ、抱える闇を暴露され、罵倒される間、ただ涙で頬を濡らし、唇を噤んでいた。
見ているだけで心が壊れていくようだった。
心臓がギリギリと悲鳴をあげて、脳が己への憎悪に発狂する。
でも、目は逸らさない。
これが罰だとか償いだとか、そういうことはもう考えていない。
僕が傷つけた彼女の姿を、目に焼き付ける。
それも僕の役目だと、そう思ったから。
「……ぁ」
思わず、声が漏れた。
彼女の取った行動が思いがけないものだったからでもあるが、一番の理由は肺が圧迫されたからだ。
スプリさんが僕を抱きしめたのだ。
力が入らない僕の上体を持ち上げるようにして、強く、強く。
とくとくとく、と彼女のいつもより早い、それでいて僕のよりずっと遅い心音が、密着した身体を通して伝わってくる。
「ごめんねぇ……?」
湿気を帯びる震えた声。
スプリさんのたった一言で、僕の罪悪感が溢れ出して、思考が遠のいてしまう。
「ずうっと……ずうっと……頑張ってくれてたんだねぇ? 気付けなくて……うっ……ごめん、ね……?」
僕は彼女に酷いことをした。
それなのに、彼女はまるで労うように言葉を呟く。
徐々に嗚咽が混じりながらも、彼女は懸命に喉を開こうとしているのが分かった。
「あな、た……だったんだね……?」
その言葉に、遠のいた思考が即座に引き戻される。
――僕は、勘違いをしていた。
「一緒にお絵描きしてくれたのも……ごはんを作ってくれたのも……」
彼女の眸に僕は映っていないのだと、思っていた。
「ピクニック……にも連れて行ってくれたねぇ……? ちょうどこんな泉の近くで……すごく、楽しかったんだよ……?」
けれど、違ったのだ。
「叩いてごめんね、って……言ってくれたもんね……? ずっと一緒にいるよ、って……言ってくれたもんね……?」
伝わってたんだ。ちゃんと。
「わたしの……あったかい思い出は……ぜんぶ、あなただったんだね……?」
僕は、いたんだ。
「あり、がとね……?」
彼女の世界に、彼女の走馬灯の中に、いたんだ。
僕は独りじゃなかった。
スプリさんを独りにしてなかった。
彼女はたしかに、僕といた。
「うああああああ……!」
安堵とか、興奮とか。
感謝とか、救済とか。
複数の思いが複雑に折り重なって、またたく間に心の中がいっぱいになって、溢れ出す。
産まれてきたこと。
生きてきたこと。
スプリさんに出会ったこと。
スプリさんに救われたこと。
スプリさんに会いに来たこと。
スプリさんを好きになったこと。
これまでの全部が許されたような心地がした。
これでやっと、僕は世界に産まれてきたのだと思った。
僕は産声を上げたのだ。
僕が泣く間、スプリさんも泣いていた。
スプリさんに抱かれながら、ずっと二人で泣いた。
まるで生きていることを叫ぶように、泣きじゃくった。
声が枯れて、涙が出なくなって、それでも二人で抱き合った。
生きていることを確かめるように、互いの心音を聞きあった。
互いの命を相手に分け与えるように、温めあった。
どれだけ時間が経ったか分からないくらいそうしていて、やっと互いの口が開いた。
「あのね……」
「スプリさん」
二人でぎこちなく譲り合って、僕が話すことになった。
でも、正直言いたいことや聞きたいことがありすぎて、何から手をつけていいやら分からない。
だから、泳いでしまった視線の先に見つけたものから聞いてみることにした。
「マル……マルネコも来てたんですね」
地べたで裏返るふわふわが、大人しく寝息を立てていたのだ。
「うん。おぼっちゃ……あなたが居なくて探してる時に、この子がずうっとお外に向かって鳴いてたから、それでここが分かったの。ね?」
スプリさんは眠るマルネコに優しく声を掛けた。
姿隠しと遮音の魔法を使った僕を見つけることが出来たのは、マルが教えてくれたから、ということらしい。
野生で生きてきたコイツの嗅覚を侮った僕の手抜かりであり、今となっては僕の恩猫だ。
「ごめんなさい。スプリさん」
一番言わなきゃいけないのは、謝罪だ。
「酷いことをたくさん言ってしまいました。たくさん傷つけてしまいました……! 酷いことを言って、辛いことを思い出させて、ごめんなさい……! ごめんなさい。ごめんなさい……!」
謝って済むことじゃないのは分かっている。
本心じゃないことも彼女は気付いてくれているのかもしれない。
でも、僕はなんてことをしたのかと、自責の念が言葉を震わせる。
枯れたはずなのに、また視界が滲んでくる。
すると、彼女が僕の頭を膝に置いて、
「ちがうでしょ!」
と、眉を吊り上げた。
「最初にあやまらなきゃいけないのは……勝手に……出て、行って……! 勝手に……ううぅ!」
彼女は初めこそまくし立てるような剣幕だったけれど、すぐに嗚咽が混じり初め、口元が歪む。
「なんで死んじゃおうとしたのよぉ……」
大粒の涙を僕の頬に落としながら、弱々しく怒鳴った。
「ずっと一緒にいるって言った……! わたしの旦那さんになってくれるって言った……! やくそく、やぶろうと、したんだ……っ!」
もちろん覚えている。
父として彼女と約束した。男として見てもらいたくて約束した。
でも、僕がどれだけ彼女と約束をしたところで、過去が変わるわけじゃない。
「それは……本当に悪いことをしたと、思ってます。……でも、僕が生きてるとスプリが辛い目に遭うのは本当のことなんです……っ! だから……」
「そんなの知らない……!」
「知らないってそんな……。貴方も知っているんでしょう!? エルフの……最期のことを」
「そういうことを言ってるんじゃないもん!」
彼女がこの日一番の大声を出して、僕の肩がピクリと跳ねた。
彼女は少しの間黙って僕を見下ろして、言った。
「わたしが血まみれのあなたを見つけた時、どれだけ辛かったと思う……?」
考えていなかった。
見つからないと思っていたから。
「わたしがあなたの脚とかを集める時、どれだけ怖かったと思う……?」
自分をどうやって壊すか、ということしか頭に無かった。
「わたしがたくさん治癒魔法をかけてもあなたの心臓が動かなかった時、どれだけ悲しかったと思う……?」
死んだ後の世界のことなんて、考えている余裕が無かった。
「 いままで生きてきた中で、一番辛かったんだよ……? 一番怖くて、悲しかったんだよ……?」
そうか。
僕は考えていなかったのだ。
僕が考えていたのは、僕が思う僕と、僕が思うスプリさんのこと。
スプリさんが思う僕のことを考えていなかった。
僕はもう、とっくに、
「ごめん……なさい……ッ!! すぶりざん……! ごめんなざい……っ!!」
――彼女の走馬灯の一部なんだ。
「もうどごにもいがないで……っ!」
「うん……っ!うん……っ! ごめんなざい……っ! もうじないがらっ! どごにもいがないがら……っ!」
また、二人で大声で泣いた。
今度は僕の頭しか彼女に触れてなくて、心音が聞こえない。
でも、彼女が子供みたいに泣いていて、愛おしくて、また涙が出た。
僕はバカだ。
彼女を守ってあげないといけないじゃないか。
辛い目に遭うのなら、それ以上に笑顔をあげなきゃダメじゃないか。
だから、僕は決意した。
何度も何度も折れてきた、頼りない心だけど、今度こそ絶対に守ると誓った。
彼女の走馬灯を、少しでも明るいものにする。
彼女の悲しい記憶に、僕と彼女で紡いだ明るい記憶を張り付けていくのだ。
最期に貴方が振り返った時に、貴方がにっこり笑えるように。
そんな願いを込めて、これからの一日一日を、貴方と紡いでいこう。




