二十話 二十三日目
スプリさんとの甘すぎる生活、もとい甘やかされ過ぎる生活が始まって、はや五日。
母性のタガが完全に外れ、庇護欲の化身となったスプリさんの凄まじい攻勢により、我が軍は防戦一方であった。
母性に蹂躙された純情の屍が山のように積み上がり、数少ない生者は来るかも分からぬ好機を求めて耐え忍ぶ。
このような戦があと幾日ほど続くのか?
果たして勝機はあるのか?
甘えてぇなぁ!
長すぎる戦は兵の士気を奪い始め、武器をとらぬ者、敵方へ寝返る者まで現れ始めた。
もはやここまでか……。
ここ数日で習慣となった昼食後のお昼寝時間――
「お買い物まで一緒にごろんしてようねぇ」
僕は赤ちゃんになりつつあった。
スプリさんの胸に抱かれながらウトウトする――これが本当に好きになってしまったのだ。
無防備な彼女の肢体が、たった一枚の布だけが隔てて、手を伸ばさずとも触れられるような場所にある。
鼻孔をくすぐる彼女の匂い、じんわりと肌に触れる彼女の体温、慎ましやかだが確かに存在する膨らみの柔らかさ。
正直、それはもうとんでもなくムラムラする。
でも、そういった意味での好きではない。
ひとえに、落ち着くのだ。
彼女の心音がなぜか僕よりもずっとゆっくりで、背中を優しく叩く彼女のリズムと相まって、まるで時間が何倍もゆっくりになったような気がする。
その鼓動に耳を澄ませば、彼女の匂いも、体温も、肌触りも、情動を焚きつけるようなものでは無くなって、僕に安らぎをくれる。
ひたすらに優しい空間が広がって、少しずつ彼女の中にまどろんでいくような、そんな感覚が好きなのだ。
この感情は、おそらく恋心とは違うのだろうとは思う。
それに、彼女に異性として意識させるという目標とは正反対の位置にあるだろう。
でも、彼女の優しい心音が尊くて、愛おしくて、ずっと聞いていたいと思ってしまう。
まるで子守歌のように、優しく響く。
とく。 とく。 とく。
とく。 とく。 とく。
とく。 とく。 とく。
この時間が、たまらなく幸福だ。
スプリさんの心音が、大好きだ。
幸せでいっぱいになって、ふわふわとしてきて、眠りにつく。
―――
――
―
頬やおでこ、そして唇。
優しい熱が触れる。
じんわりと目覚めていく。
「ふふ……おはよぉ~」
眸の先に、スプリさんのとろけた表情。
「……おはよ……ございます」
「ちゃあんとねんね出来たねぇ」
彼女はそう言って僕の顔をぎゅうっと抱きしめる。
これは朝起きた時も、昼寝から目覚めた時も、ここ数日は毎回のことである。
だから、寝ぼけまなこの不明瞭な思考においても、僕は咄嗟に腰を引く。
彼女に抱きしめられると落ち着くというのは嘘ではない。
しかし、眠りから覚めた時のコレばかりはもうどうしようもない。
もう僕が何を考えていようが、大きくなってしまうのだ。
異性として意識させる、という意味では、腰を引かずに堂々としているほうが良いだろう。
だが、ダメなのだ。ダメだったのだ。
彼女と添い寝して迎えた初めての朝のこと。
身体を密着させた彼女は僕のソレに気付いて、こう言った。
『おっきくなっちゃったねぇ』と。
僕のソレはそれはもう張り切って、とんでもないことになった。
まるで強者に胸を借りる若輩が如く、漲らせ昂った。
ここか!? ここなのか!?
脳髄は瞬く間に桃色一色となり、心の臓がてんやわんやの繁忙期。
だがしかし、僕の苛烈な熱視線に微笑んだ彼女がこう言った。
『ママがごしごししてあげよっか』と。
お願いします!と僕の七割が大騒ぎする一方で、残り三割が落胆した。
落胆のワケを聞くと、僕の三割はこう答えた。
――初めてが赤ちゃんプレイは違うんじゃない?
確かにそうだ、僕の七割が頷いた。
僕には推定童貞なりの矜持がある。
推定童貞だからこそと言うべきかもしれないが、初めてというのは大事にすべきだと思うのだ。
ここで情欲のままに行動した場合、僕はたくさんのものを失うだろう。
彼女の母性を恋愛感情にひっくり返すことによる達成感。
彼女と迎える劇的な僕の初夜、という素敵体験の可能性。
彼女の母性が適用される範囲が拡大し、逆転が困難となる恐れもある。
ダメだ。ここで済ませてしまうわけにはいかない。
それに、彼女が僕に向ける愛情が母性から来ているものである以上、これは赤ちゃんプレイですらなく、
――特殊な育児だ。
僕は「大丈夫!」と言って逃げ出した。
あれ以来、僕は今の彼女とそういうことはしないと心に誓い、腰を引くようにしているのだ。
しかし、
「ぎゅ~!」
緊急事態発生。
彼女が足で僕の身体を引き寄せて、無理矢理密着したのである。
彼女の曲線が手に取るように分かってしまい、さらに漲ってしまったものが彼女の腹部に触れる。
またこの時が来てしまった。
煩悩の試練ともいうべきこの時間。
心の準備も出来ぬまま、彼女の第一声を待つ。
「……」
が、まさかの沈黙!
これは一体どういうことなんだ!?
彼女の言葉に怯えるようで待ち望むような時間が、とくとくとくと流れていく。
無言のまま、僕と彼女の心音だけが刻まれる。
――少しだけ早い?
そう思った瞬間、彼女が腕をほどいて立ち上がる。
「……お買い物いってくるね」
彼女は目も合わせずにそう言って、足早に寝室を出て行く。
僕はそんな彼女をただ目で追って、扉が閉まった後も面影に思いを馳せる。
彼女が去っていく光景が頭から離れない。
頭の中で何度も何度も同じ光景が繰り返されて、その度にバクバクと心音がうるさい。
ほんの一瞬。去り際にわずかに見えた彼女の横顔。
少しだけ、赤いように見えたから。
真相を確かめるべく、買い物から帰ってきた彼女を出迎える。
「おかえりなさい。荷物預かります」
普段通りを装いながら、彼女の一挙手一投足に目を配る。
「ありがとねぇ~。やさちいねぇ~!」
彼女は僕を子犬にじゃれつくように撫でながら、甘ったるい声で優しく褒める。
誠に遺憾ではあるが、いつも通りだ。
荷物を持ち、彼女と並んで厨房に向かう。
「今日の夕飯はなんですか?」
「今日はねぇ、羊さんのお肉があったから、ラム肉のローストだよぉ。あとはお野菜をたっぷり入れたスープとねぇ……」
僕を赤ちゃん扱いするようになってからは健康に気を遣うべしと品数が減り、野菜が増えた。
正直貴族の食事は肉や魚ばかりで辛かったから、本当に有難い変化である。
いつも通り。
厨房についてからも、
「じゃあお料理するからお外で待っててね? ひとりで待てますか?」
「……待ってます」
「ん~!えらいねぇ!」
……いつも通り。
「気のせいだったのかなぁ?」
夕食を待つ間、僕は少し気落ちした。
夜、寝室の窓を全開にして湯冷まししていると、
「ンゥ~ン」
扉の外からマルネコの鳴き声。
仕方なく寝室に迎え入れようと扉を開いたものの、マルネコがいない。
確かに聞こえたはず、と廊下に出てみると、隣の部屋の前で鳴くマルネコの姿があった。
「そこはスプリさんの部屋だぞ?」
「ナゥ~ン」
声を掛けてみたけれど、どうやら彼は間違えているわけではないらしい。
そういえば初日もこうやって鳴いていたが、もしかして何かあるのだろうか?
スプリさんの部屋に勝手に入るのは抵抗があるものの、前を通る度に中が気になってしまっていたのも事実。
今スプリさんは入浴中だから時間はある。前回のように現行犯とはならないだろう。
そしてマルネコが入りたがっている、というおあつらえ向きな理由もあるし……
「少しだけだぞ~。も~!」
「フゥ~ン」
ゆっくりと、扉を開く。
すると、ころりころりと緩慢な速度で床を転がっていくマルネコ。
マルネコはまあ好きにさせておくとして、僕はじっくりと目に焼き付けようと思う。
「うーん。思ったより……」
物が少ない。
小ぶりなクローゼットと一人用のベッド。化粧台と椅子。
住み込みで働くのに必要なものを最低限揃えた、といったところだ。
可愛らしい小物や花、といった僕の創造していたものは何もない。
言い方は悪いが、殺風景な部屋だ。
母性が爆発する前のスプリさんのイメージにはピッタリだが、どうしても今のスプリさんが強烈なこともあり、肩透かしの感が拭えない。
「よし。そろそろ出るぞー」
収穫なしとあたりをつけて、共犯者に声かけ。
しかし、返事がない。
「どうした?何か面白いものでもあった?」
化粧台の横でフスフスと鼻を鳴らすマルネコを抱きかかえると、
「かばん……?」
そこにあったのは丈夫そうな革のかばん。
傷もなく、おそらく新品だろうけれど、気になることが一つ。
――男物だということ。
コウヌやその父の物?
それであれば何故スプリさんの部屋にある?
他の誰か……例えば恋人の物?
それにしてはただ床に置いていて、大事にしている様子ではない。
「……よし」
少し気後れする部分はあるけれど、中身が気になる。
クローゼットを見るわけじゃないから大丈夫だろう、と言い聞かせ、カバンを開ける。
中には、ざっと見ただけで驚くべきものがいくつも入っていた。
まず、カネ。
金貨がぎっしり詰まった袋が二つ。これから家でも買いにいくのかという額だ。
そして、装飾のついた小箱。
開けると深い緑色の宝石――おそらく翠玉がはめ込まれた指輪が入っていた。
確か大陸東方の地域では婚姻を申し込む際に好まれている宝石だったはず。
そして、短剣。
柄や鞘からはかなり使い込まれた印象を受けるが、黒い刀身は見事に研ぎ澄まされている。
材質は金属ではなく、龍の牙が用いられていると見える。
これも売れば大層なカネになるだろうが、そもそも龍の牙をナイフに加工するとはなんと勿体無いことか。
特別気になったものはそれくらい。
あとは小銭が入った財布と何かの鍵、整髪料など諸々……。
「ん……?」
カバンの内側に縫い付けたポケットの中に、平べったい木製の箱が入っていた。
特に貴重な木材というわけでもなければ、角も擦れていて古びた印象。
心躍るようなものが入っているようには思えないけれど、一応開けてみる。
「あ……」
入っていたのは、糸を編んで拵えた葉っぱ。
スプリさんからもらった――世界一大事なアップリケだ。




