十九話 十八日目②
一体僕はどこで間違えたのか?
スプリさんの僕に対する赤ちゃん扱いは、留まるところを知らなかった。
買い物から帰ってきたスプリさんを迎えようと玄関に向かうと、駆け寄ってきた彼女が言った。
「いい子にちてまちたか?」
耳を疑った。
つい昨日まで無表情で無機質だった彼女が、あろうことか赤ちゃん言葉を使いだしてしまったのだ。
正直なところ上目遣いが狂おしいほどに可愛いけれど、さすがにこれを許容してはいけない。
「スプリさん? それはさすがに……」
「ん~? どうちたの?」
「えっと……」
「な~あに?」
言えない。
彼女の慈愛に満ちた微笑みが僕を堕落させようとする。
その笑顔を壊してはいけないという使命感が僕を赤ちゃん沼に引きずり込もうとする。
抗え。抗うのだ名も知らぬ僕。
僕は誘惑に負けまいと踏ん張った。
でも、その沈黙が仇となった。
「寂しかったねぇ。よしよし」
彼女が僕の胴に手を回して、背中をさすり始めたのだ。
彼女の膨らみと体温が布越しに伝わってくる。
僕の抵抗心をぽっきり折って余りある、壮絶な威力であった。
夕飯の時間も、彼女は凄かった。
「はい、あ~ん……おいしい?」
夢にまで見たあ~んである。
もはや僕には「自分で食べれます」なんて言う気力も気概も度胸も理由も無かった。
「……うん」
「うん。おいしいねぇ。いっぱいあるからねぇ」
微笑みが眩しい。とっくにお腹はいっぱいなのだれど、いくらでも食べられる気がする。
異性として意識されたいなんて気持ちは至福の時間の邪魔だとすら思い始めた。
そして、遂にやってきましたこの時。
「お風呂入ろっか?」
――お風呂の時間である。
これまでは就寝前の身体を清める時間でしかなかった習慣が、今、僕を赤ちゃん扱いする美女:スプリさんという劇薬を投入することにより、健全な男児にとっては天界へ誘う霊薬とも強酸性の毒ともいえる刺激的なイベントと相成った。
右手と右足が一緒に出てしまうほどの緊張を抱え、マルネコに奇異の視線を投げられる屈辱を受けながら、スプリさんと浴場に向かう。
脱衣所に入ると、
「じゃあ脱ぎ脱ぎしよっか」
ともはや主人と従者という関係を忘れてるんじゃないかと思えるほどの発言である。
かと言って当然言われるままに服を脱ぐのだが。
「はぁ~い。よくできました。じゃあママも脱ぐから待っててねぇ?」
もう自分のことママって言っちゃってるよ、なんてツッコミはもはや無作法というもの。
僕は次なる光景に全意識をもって立ち向かわねばならない。
と、思った刹那、ある不安がよぎる。
――理性の強度問題。
記憶喪失ではありながら、僕はなんとなく自分の経験値について検討がついている。
おそらく、僕は童貞だ。
顔も悪くないし、身体も引き締まっていて、モテないことはなさそうとは思うが、しかし女性の一挙手一投足に対する反応がいかにもそれっぽく感じてしまう。
僕が童貞だったと仮定した場合、一糸纏わぬ彼女を見たとしてどんな反応をするだろうかと考えた時、考えられるのは二通り。
①興奮のあまり押し倒そうとしてボコボコにされ、関係に修復できない亀裂が入る。
②興奮と入浴による血行促進効果が相まって意識を失い、あまりの童貞っぷりに関係に修復できない亀裂が入る。
つまり、僕は彼女の身体を見ることは関係の悪化を意味する、と考えるべきだ。
「僕、先に入ってますね!」
僕は慌てて、浴場に駆け込む。
絶対に彼女の身体を見ないと心に誓ったこの瞬間、幸福と刺激に満ちた入浴イベントは己の欲求と彼女との関係性を天秤にかけた壮絶な果し合いと相成った。
決意を練り上げ、覚悟を研ぎ澄まし、全身全霊の理性を持って立ち向かわねばなるまい。
壁に刻まれた水の刻印に手をかざし、冷水を浴びる。
床に座し、無機質な冷感が地肌を引き締める。
……ダメだ。これだけじゃ負ける。
精神力ではどうにもならない戦い、というものは必ずある。
大戦で名を馳せた歴代の武人達とてそれは同じだろう。
彼らがそのような局面をどのようにして切り抜けたか?
――魔法である。
「闇よ。かの者の光を奪え」
一時的な視覚喪失。
これこそが現状に対する最適解。
恥も外聞も捨て置いて、ひたすらに勝利を求めることこそが僕のすべきことだ。
「おまたせ~」
彼女の声が合戦の合図となった。
「じゃあ頭から洗っていくからねぇ」
頭をわしわしと洗われる感覚。普段ならば心地いいと思えただろう。
しかし、
「ごしごし。ご~しごし」
背中に時折触れる、柔らかな感触。
彼女の動き、息遣いにより不規則な間隔で現れる感触が僕の意識を掴んで離さない。
「きもちいですかぁ?」
そしてその柔らかな中に微かな、しかし確かな二つの刺激が、鋭敏な僕の肌を撫ぜる。
――まずい。
僕は、己が犯した重大な失策に気が付いた。
視覚への暴力に対する防御策として選んだ魔法による視覚喪失――これはある副作用を孕んでいた。
ある全盲の武人曰く、不可視となりて不可視の剣筋を得たり。
これは、視覚を失ったことにより、見えなかったものまで斬ることができるようになった、という逸話である。
――感覚の鋭敏化
これが僕が事前に察知できなかった落とし穴。
日常から視覚頼りだった僕の全神経が、まるで助けを求めるかのように彼女を探してしまっているのだ。
今なら分かってしまう。
目が見えずとも、背中から感じてしまう。
彼女が織りなす曲線が、表情が、頂上に咲く花の色が。
衝動が、抑えきれない!
「……う」
「う?」
「うす……も……」
「ん?どうしたの?おしっこいきたくなっちゃったの?」
「うすももいろおおおおお!!!!」
「ええっ!? お坊ちゃま!?」
僕は走った。
壊れかけの理性を抱いて、懸命に走った。
ここではないどこかへ行きたくて。
いずこの安らぎを求めて。
いざゆかん。
「ぐ――ッ!?」
何か、とても強い、衝撃が、頭を……打ったような。
「お坊ちゃま!?大丈夫ですか!?お坊ちゃま!?」
―――
――
―
まどろみの中、ふわふわとした肌触りが顔を覆うのに気付いた。
これはマルネコだ。見えずとも分かる。
「ンゥ~ン」
目を開けたはずなのに、真っ暗だ。
別に僕の恋路の行先のことではなく、何も見えないという意味で。
まだ魔法が効いているらしい。
きっとマルネコが負けた僕を恍惚した表情で見つめているのだろう。こっちを見るな。
身体に触れるなめらかな手触りはシーツ。
僕が寝ていたのはベッドだ。
彼女が寝室まで運んでくれたのだろう。
また迷惑をかけてしまった。
「はぁ」
ため息をこぼすと同時に扉が開く音がした。
「お坊ちゃま、お目覚めになりましたか」
安堵が漏れ出したような声色に、心がキュッとなる。
「すみませんスプリさん。詳しくは言えないんですが、座っていられなくて」
「いえ、私のほうこそ申し訳ございませんでした」
「スプリさんは何も謝ることないですよ! 全部僕の問題であって……」
「いえ、もとはと言えば私が調子に乗って我が子のように扱ってしまったのがいけないのです!申し訳ございませんでした!」
「それは受け止める度量が無かった僕が悪いんです! 僕が耐えきれなくて、その……」
「侍女として敬意を欠く行動であったことはもとより、お坊ちゃまは既に精通を終えられているお年頃。私が配慮すべきでした」
互いの謝意のぶつけあい。
しかし直接的な表現を真摯にぶつけてくる彼女の謝罪と、羞恥心から弱弱しくなる僕の謝罪では形勢が悪すぎる。
精通、というあまりにも恥ずかしい部分を指摘されたことが決定打となり、気まずい沈黙が流れる。
スプリさんの謝罪の言葉を反芻して、ふと思う。
彼女は主人と侍女という関係性も、『お坊ちゃま』がそういう年齢であることも充分理解しているようだ。
それなのに、僕をまるで赤ちゃんのように扱ってしまった、と言った。
それはすなわち、冷静な彼女が色んな事情を踏み抜いて衝動的になってしまうほどの理由がある、ということだ。
もしくは今日の彼女が本当の彼女で、無機質な仮面を被る必要があった。
自分のことすら分からない僕に、彼女のことが分かるはずもない。
でも、そんな気がしてならないのだ。
僕を赤子のように甘やかすのは、笑ってくれるのは、彼女が垣間見せた弱さなんじゃないのか?
それを汲み取って、したいようにしていいよって、仮面をとってもいいよって、受け入れてあげるのが男なんじゃないのか?
暗闇に沈黙が訪れて、ようやく僕は彼女を見れている気がした。
そして、自分のことも。
結局、僕は子供だったのだ。
無機質だった彼女の背景も、そんな彼女が僕を甘やかすようになった理由も、深く考えようとしていなかった。
全部自分、自分、自分。スプリさんのことを考えている気になっていただけで、自分のことしか考えていなかった。
僕は大人にならなければならない。
長い長い沈黙を
――破る。
「スプリさんが良ければ、今日以降も僕を我が子のように扱ってくれませんか?」
「え……。いえそのようにはいきません! また今日のようにお坊ちゃまがお怪我を……」
「ですから、お風呂は別々に入りましょう。 正直に言ってお風呂は僕の理性が持ちませんから。……でも、僕は今日幸せだったんです」
「……しあわせ?」
「はい。スプリさんとたくさん話せましたし、笑顔がたくさん見れましたから。覚えているか分かりませんが、僕はスプリさんに一目惚れしています。だから、貴方が幸せそうに笑っていてくれるのが、僕の幸せなんです」
彼女の表情が見えなくて、怖い。
「僕はスプリさんに今すぐプロポーズをしたいくらい好きです。でも、残念ながらスプリさんに異性として見られていないことも知っています」
でも、躊躇ってはいけない。
「――だから、僕はここに誓います」
示せ。
「僕は絶対に貴方の旦那になってみせます」
彼女を支えても倒れない覚悟を。
「貴方が僕に向ける母性や庇護欲を、恋愛感情に変えてみせます」
彼女を真っ向から受け止める強さを。
「僕に対する貴方の評価を真っ向から覆して、貴方が子供扱い出来ないような立派な男になってみせます」
彼女が飛び込める勇気を。
「だから、もう一度言います。僕を子供扱いしてください。それくらいじゃないと――」
彼女が見せてくれた弱さを包む度量を。
「張り合いが無いですから」
……言った。言い切った。
噛まずに言えただけでもう百点満点だと思います。
それで、対する彼女の反応は?
長い長い、沈黙……。
全部ぶちまけて空っぽになった全身に、悪い意味で染み渡る。
このままなら風邪を引く。そんな気がする。
頼む。何か喋ってくれスプリさん。
この際高笑いでバカにしてもいいから。まあそんなことされたら泣くんだけれども。
とにかく何か頂戴。もう温かいスープとかでもいい。
お願いお願い。もうなんでもいいの。
もう、マルネコでもいいから何か言ってくれ。
いつもみたいに「ン~」って言ってくれあのだらしない顔で鳴くやつ。
結構好きなんだよなあれ。可愛くて。
……マルネコとは大陸南方の森林地帯に多く分布する動物である。その不便な体形と大人しい性格にも関わらず、何故か生息数を伸ばしている不思議な生物として知られる。かつては巨大な体躯と獰猛な気性から竜種と並ぶ脅威とされていたが、ある時を境に急速な小型化、攻撃性の喪失が――
「――?」
彼女の返事を耳から手やら足やらがまろび出るほど待ち望み、マルネコに思いを馳せていた、ほんの刹那。
熱、それから湿度。
僕の唇がわずかな時間で感じたものだ。
正体を知りたくて、反芻しようとした時、鼻腔を抜ける柔らかな香りと――
「いまのは、さきばらい」
耳元で響く、甘い囁き。
「えっ!? 今のなんですか? どういう意味ですかっ!?」
鋭敏なはずの感覚が、何故か答えを見出せない。
「ないしょだよぉ~」
彼女のとろけた声が聞こえるけれど、まだ光は戻らない。
「な、内緒ってそんな……」
「いいのいいの。そんなことよりもうお休みの時間だよぉ?」
彼女がどんな顔をしているのかが気になって気になって、とてもねているばあいでは……
「あれ……なんか……」
だんだんまどろんできて、ふわふわとしてきて。
「今日はママと一緒にねんねしようね?」
「えっと……あれ……?」
ぬくもりに包まれて、優しく遠のいていく。




