十五話 十六日目
暖かくて柔らかい。
混濁した意識の中で、それだけが分かった。
このまどろみにずっと包まれていたい。
だって、ここから出るととても怖ろしい目に遭うと思ったから。
絶対に目を開けちゃいけない。
開けてしまうと、これが現実でないことに気付いてしまう気がするから。
でも、激情がそれを許さなかった。
お前が寝てていいわけがないと、強い感情が僕の頬を殴りつけた。
まるで誰かに無理矢理こじ開けられるように、僕は目を覚ました。
「……え?」
飛び込んできた光景に違和感。
天井を見ただけで、少なくともここが知っている場所ではないとわかった。
いや、違う。天井じゃない。
あれは天蓋だ。
視線を左右に振ると、天蓋からレースが降りていた。
これは、貴族の屋敷を訪れた時に一度見たことがある。
ベッドだ。それもかなり高級な、天蓋付きのベッド。
起き抜けにもかかわらず身体が全く痛くないのがその証拠と言えるだろう。
身体を起こし、周囲を見渡す。
気品漂う装飾が施された家具、雅な調度品の数々。
いくら幅をとるとはいえ、ベッド一つ置くには贅沢すぎる広さ。
やはりここはどこかの貴族の邸宅らしい。
しかも客間ではなく、お貴族様の寝室のようだ。
「一体なにがどうなってる……?」
ここに至った経緯を思案しようとするが、寝起きの頭が上手く働いてくれない。
思考が定まらないまま、なんとなく寝室の中を歩きまわる。
すると、一枚の油絵が目に留まった。
豪奢な椅子に座る、身分の高そうな男の絵。
鋭い目つきが獰猛な獣を思わせる人物。
この屋敷の主だろうか。
まずはこの人達に感謝を伝えなければ。
そう思いドアノブに手をかけた時、外からなにか聞こえた。
「ンゥ~ウ」
耳を澄ましてみると、何やら動物の鳴き声のようだ。
扉を引くと、ふわふわとした毛玉が転がり込んできた。
抱え上げてよく見ると、何も考えていなさそうな顔、役に立たなそうな手足がついている。
「フゥ~ン」
マルネコだ。
大陸南方の森林地帯に多く分布する動物。
その不便な体形と大人しい性格にも関わらず、何故か生息数を伸ばしている不思議な生き物である。
愛玩動物として飼う家庭もあるそうだが、そのだらしない姿が活力を削ぐ、として貴族が飼うことは珍しいと聞いている。
たまたま潜り込んでしまったのか、飼っているのか、はてさて。
しかし、本当にだらしない顔だ。
何か怠惰の中に恍惚としたような、うっすらとした笑みが含まれているようにも見える。
本当になんでこんなのが野生で生きていけるんだ。
いや、マルネコの相手をしている場合ではない。
早く家主にお礼を言わなければ。
マルネコを転がして、改めて家主捜索を始める。
どうやら本当に大邸宅らしく、寝室の外は長い廊下が伸びていた。
「ン~ゥオ」
マルネコが足元で転がって歩きづらい。
懐かれている、はずはないと思うけれど……。
仕方なくマルネコを抱いて廊下を歩いていると、下に続く階段を見つける。
階段を下るとさらに階段があり、どうやらこの屋敷は三階建てらしい。
扉の数が多く、そのうえ三階建てとなると、一つ一つ開けていくのは骨が折れるうえ家主に申し訳ない。
ここはひとつ、使用人か侍女を探そう。
これだけ広い屋敷であれば数人はいるに違いない。すぐに見つかるはずだ。
だが、歩けど歩けど誰もいない。
というか、人の気配が全くないのだ。
空き家、という可能性も考えたが、それにしては手入れが行き届いている印象を受ける。
部屋の角、家具の上面、窓のへり。
どこも埃ひとつなく、丁寧な仕事ぶりが伺える。
人がいないはずがないのだ。
根気よく探すしかない。
マルネコの重みに手がしびれはじめるのを感じながら、一階を捜索する。
「ン~ゥ。フゥ~ン」
扉の前を通り過ぎた時、しきりにマルネコが鳴き始め、みじろぎをする。
床に降ろしてやると、扉の先にある何かを欲しているようだった。
扉の先は広い厨房だった。
たくさんの調理道具は美しく手入れされていて、食器類はどれもが庶民にとっては家宝にでもなりそうな逸品。
高貴な方々の舌を喜ばせる為、十人規模で調理をする様子がありありと浮かぶ。
でも、肝心の食材があまりにも少ない。
パンが数個と野菜が少し。中身が半分程度のミルクの瓶。
広い厨房の一角にある食品棚のほんの小さなスペースに、たったそれだけがまとめて置かれていたのだ。
冷気の魔法が刻印されているから保存状態は問題ないとは思うけれど……。
「フンフンフン」
マルネコはどうやら腹が減っているらしく、食器棚の足元で恨めしく鼻を鳴らしている。
家主に無断であげるわけにはいかないが……しかしかわいそうだな。
仕方なくパンをちぎったものを手のひらに乗せてやると、緩慢でありながらも必死に食べ始めた。
もしかしたらずっと何も食べていなかったのかもしれない、と思う食べ様だったけど、それにしては太っている。
本当に不思議な生き物だ。
「すいません……いただきます」
空腹に勝てず、マルネコとパンを半分こした。
パン泥棒として投獄されないことを祈るばかりである。
家主が寛大な方でありますように。
食べ終えるとまた「運んで」と言わんばかりにまとわりつきだしたマルネコを抱きあげて、厨房を出る。
そうだ。屋敷の外に出てみよう。
家主へのお礼も大事だが、ここがどこで、僕が何故ここにいるのかも分かっていない。
少しずつ情報を収集していこう。
豪奢な玄関に目を奪われながら、扉を開ける。
僕はその先の光景に言葉を失った。
美しい花々が咲き誇る、手入れの行き届いた庭園。
眸を魅了し、やすらぎをもたらす噴水。
真っすぐに伸びる石造の歩道を彩る草花のアーチ。
まさに高貴なる者が己の権威を示す為の光景が――あるはずだった。
無かったのだ。
庭園も噴水もアーチも、石造の歩道すらも無かった。
あるのはまばらに生えた雑草と、古びた井戸、土の被った飛び石。
こんなものを貴族に見せれば権威を示すどころか、バカにするなと喧嘩になる。
そんなごく小さな庭だった。庭というのもおこがましいか。
まさに人里離れて隠れ住む老人の小屋の前、といったところだ。
家主はよっぽど庭にこだわりがなかったのだろうか?
「屋敷はこんなに立派なのに……え?」
僕は三階建ての豪華な屋敷から出てきたのだから、見事な面構えの玄関に背を向けているはずだ。
そうじゃないとおかしい。
なのに、また――無かったのだ。
振り返った僕の視線の中に納まらないはずの大邸宅が、物音ひとつ立てずに消失していた。
代わりにあったのはちんまいちんまい丸太小屋。
犬小屋にしては大きすぎ、人が住むにしては小さすぎ。
そんな中途半端なサイズのボロ小屋があるだけだった。
これはもう違和感、どころの話ではない。
そうだ。これは夢だったんだ。
さっき見た大邸宅は、きっと僕が寝ぼけ心地だったに違いない。
「そうだ。そうに決まってる。なあマルネコ。お前もそう思うだろ?」
「ンゥ~ン」
「そうだよなぁ。きっとそうだ。そうだよな?」
僕は念のため、丸太小屋の扉を開いた。
「う~ん」
「ン~」
夢じゃなかった。
一見丸太小屋にしか見えないこの建造物の中身は、貴族様専用のお屋敷だった。
不思議なこともあるものだ。マルネコの顔にもはてなが浮かんでいる。
僕とマルネコはとりあえず地面に腰かけた。
屋敷の中を歩き回ってくたびれた身体に摩訶不思議体験が起こると、もう座るしかないのだ。
ちょうど太陽が真上にある。
少し風が吹いていて木々がそよぐ音がする。
心地のいい日だ。
「気持ちいいねぇ」
「ナァ~ン」
―――
――
―
暖かな日差しが何かに遮られ、ウトウトしていたことに気付く。
そうだ。
僕は家主を探していると摩訶不思議現象に巻き込まれたんだった。
慌てて目を開けると、白いエプロンが飛び込んできた。
侍女だ。
この屋敷にはやっぱり人が住んでいたんだ。
そう思った僕は視線を上へとずらしていき、顔を拝見する。
「……あ」
彼女はただ黙ったまま、僕を見下ろすでもなく立っていた。
まるで人形のように無機質な表情で、何かを待っているようだった。
でも、僕は一目惚れをした。
彼女の全部が、この瞬間に好きになった。
後ろでゆるりと纏めた金髪の、月光を思わせる透明感。
あどけなさを残しながらも色気ある美貌。
地味な侍女服さえも可憐に着こなす流麗な身体。
何もかもが、僕の心を鷲掴みにした。
全身の血が沸騰するような鮮烈な感情が爆発して、これまで感じたことが無いくらい身体が熱をもつ。
なんといっても、美しい白肌に嵌められた黒い双眸。
吸い込まれそうなほどに深い深い輝きが、僕を虜にする。
僕は心のままに立ち上がり、彼女の眸に叫んだ。
「僕と結婚してください!」
彼女は僅かな反応すら見せなかった。
表情をピクリともさせないその冷静さが、またしても僕を虜にした。
「もう一度言います! 僕と結婚してください!」
彼女はしゃなりと僕の前を通り過ぎ、扉を開けて振り向いた。
客と不必要な会話はせず、あくまで侍女として対応する姿勢か。
なんて淡泊な反応なんだ。
好きだ。




