十二話 十一日目
「マルちゃん。ほら見て。 ここに赤ちゃんがいるんだよ?」
「マァ~ン」
「すごいよねぇ? 嬉しいねぇ?」
「ンゥ~ン」
一晩明け、スプリさんのお腹は大きくなっていた。
椅子に腰かけた彼女は慈しむようにお腹をさすりながら、足元で裏返るマルネコに話しかけている。
幸福に満ちた光景のはずだった。
かつて見たいと思っていた景色だった。
でも、僕は喜べなかった。
上手く表情を取り繕うことも出来なくて、ちゃんとスプリさんと接することが出来なくて、マルネコがいて本当に良かったと思った。
昼になると、僕はアコニットになった。
スプリさんを孕ませた男で、幸せにした男で、僕の知らない男。
彼女は僕にお腹の音を聞かせる。
聞きたくない音が聞こえる。
でも、彼女を悲しませたくなくて、なんとか笑顔を作ろうとして、出来ない。
「赤ちゃんがいるから、今日は遊べないの」
彼女は残念そうに言いながらも、内側は幸せでいっぱい、そんな顔をしていた。
「……じゃあお話しよう!」
僕は直視出来なくて、彼女の状態とは一切関係のない話をした。
「それでさ?そこには大きな洞窟があって……」
「そうなんだぁ」
「その鳥の鳴き声が面白いんだ! こう『ぶるるるるっ!』って!」
「すごいねぇ」
「それにそれに! ユーラ海のずっと先のテスローって島では……」
彼女は相槌を打ってくれたけれど、彼女の意識はずっと彼女のお腹に向いていた。
僕が黙ってしまうと、彼女は気付いて微笑みかけてくれる。
でも、彼女の笑みは僕じゃなく、アコニットに向いているのだと気付いて、寂しくなる。
僕は一体、どうしたいんだろう?
彼女の幸せだけを望んでいたはずなのに、僕は他の何かを望んでいる。
それはきっと、彼女を幸せに出来た自分、なのだろう。
店主にあれだけ言われて、怒られて、殴られたのに、僕はまだ自分に酔っていたいと思っている。
こんな僕に、彼女の隣にいる資格なんてあるのだろうか?
きっと無いのだろう。
彼女は記憶の中にいて、その中の誰かを投影する人が必要で、たまたまそこに僕がいた。
それだけなのだ。
幸福な彼女と、それを喜べない僕。
そこには大きな隔たりがあって、彼女が遠ざかっていくような気がした。
その日の夜のことだ。
僕は父親に戻っていて、家事に没頭しようとしていた。
スプリさんを見ていられなくて、僕は「疲れただろう」とか「身体に障る」とか言って彼女を寝室に寝かせた。
いつまでも頭の中を巡る思いを振り払って、彼女に向いてしまう気持ちを押し殺して、食器の汚れを落とす。
「うっ!……ああああッ!!!」
突如、悲痛な叫び声が家中にこだまする。
「スプリさん……?」
スプリさんに何かあった。
そんな確信と動揺を胸に、寝室の扉を開いた。
「スプリさんッ!」
彼女はベッドの上で、腹を抑えてうずくまっていた。
「ああああああ――ッ!」
――もしかして、子供が産まれようとしてるんじゃないか?
僕はすぐに現状を理解した。
けれど身体が思うように動かなかった。
別に彼女との現状に思い悩んでいたからではないし、知らない男の子供を取り上げたくないと思ったからではない。
ただ単に、僕は出産に立ち会ったことなんて無かったからだ。
どうすればいいか分からなかった。
子供は母の子宮から産道を通って出てくる、ということは知っていたけれど、それだけだ。
僕に、十八歳の男に、出来ることがあるとは到底思えなかった。
「だ、大丈夫!?」
僕は入口の前に立ったまま、苦悶を湛える彼女に声をかけた。
でも返ってくるのは絶叫と呻き声だけ。
「あ……あぁ……どうしよう……!?」
何も出来なかった。
何も思いつかなかった。
僕はただ、呆然と立ち尽くした。
その時、彼女の手のひらが、中空を泳いだ。
何かを掴もうとしているのだと分かって、ようやく僕の身体が動いた。
「大丈夫!大丈夫だから! 深呼吸して!ゆっくり、ゆっくりでいいから!」
彼女の手を強く握りしめて、絶叫にかき消されないように叫んだ。
「う゛ううううッ!!!」
昔見た本を思い出して、何をすべきかを考える。
お産の時の姿勢は確か、仰向けになって、股を開いて、それで……!
思考を巡らせながら、僕は改めて彼女を見て、自分自身を俯瞰する。
彼女を寝かせてから時間にして数十分。
彼女の叫び声が聞こえてからはまだ数分。
僕は床やベッドを見た。
無い。
下着がどこにもない。
つまり彼女は下着を履いたまま!
どれだけ視野が狭くなっていたんだと自分を責めながら、彼女にもう一度視線を移す。
その瞬間、僕の目の前に何かが現れた。
それは浮いたまま急速に形作られていき、突然支えを失ったように落下する。
僕はそれを反射的に両手で受け止めた。
「ひっ……!?」
それは、残骸だった。
肉と骨、小さな歯、金色の髪。
まるで手元を見ずに泥人形を作った時のような、あまりにも歪な形をした人間の残骸。
ハッとして、スプリさんを見る。
僕は何が起こったのか、なんとなく分かった。
憔悴しきった様子で荒い息をする彼女。
膨らんでいたはずの彼女のお腹が、へこんでいたのだ。
彼女は「再現」したのだ。
記憶の中にある妊娠と出産を。
「光よ、かの者を癒せ」
治癒魔法をかけると、彼女は穏やかな寝息を立て始めた。
僕は小さな小さな「スプリさんの赤ちゃん」を抱えたまま、音を立てないように外に出る。
「マァーン」
足元に転がってきたマルが、物珍しそうにこちらを見上げていた。
疲労感を引きずりながら椅子に腰かけ、手の中に視線を落とす。
この子はおそらく、彼女が魔法で作り出した「赤ちゃん」なのだ。
記憶の時期に応じて身体の中で大きくしていき、出産のタイミングで体外へ空間転移させた、と考えられる。
おそらく再現元である当時も彼女の父親が取り上げた為、転移先を僕の手元にしたのだろう。
理屈はだいたい分かる。
丸太小屋の中身を何倍も広い邸宅に「再現」した彼女ならば、肉や骨を作り出した上で空間転移させることは可能だろう。
だが、この赤ちゃんはどっちだ?
性別の話ではない。
というよりも、この赤ちゃんの話ですらない。
当時のスプリさんが産んだ赤ちゃんは生きたまま産まれたのか?という話だ。
この子はたしかに人間を作ろうとしたもののように見える。
しかし、よく見れば肉も骨も精巧に作られているだけの偽物――つまり、生物じゃない。
これまで彼女はインク、裁縫道具、様々な家具、果ては空間に至るまで、あらゆるものを魔法で作り出してきた。
でも、その中に生物は無かった。
おそらく彼女は生物を作り出すことが出来ないのだ。
仮に出来るなら父親やアコニットも作り出せばよく、僕という代役を必要としないはずだからだ。
よって、この子は二つの可能性がある。
生きて産まれた赤ちゃんを「再現」しようとして失敗したもの。
もしくは、本当にこのようなものが産まれてしまっていた、ということ。
スプリさんには、一体この子がどう見えるのだろう?
僕はこの子をどう扱ったらいいのだろう?
「なあマル。僕はどうしたらいい?」
「ン~ォ」
「どうしたら、いいのかな?」
「ゥ~ン」
マルが答えを教えてくれるはずもない。
「僕は何やってるんだ」と立ち上がり、バスケットに布を敷く。
その上に手の中のものを寝かせ、自問する。
――こんなものをスプリさんに見せてしまって、本当にいいのか?
僕は見たくなかったのだ。
これを見て悲しむ彼女も、喜ぶ彼女も。
どちらにしても、僕は必ずおぞましいものを見るとこになってしまうから。
いっそのこと……
いや、ダメだ。そんなこと、絶対にしてはいけない。
でも……
考えが浮かんでしまう。
振り払っても振り払っても、頭にこびりついて離れない。
スプリさんの赤ちゃんを、アコニットとの子を、この小さな肉の塊を、埋めてしまえば……。
どうしても、目の前の肉塊を愛せない。
人間だと思うことが出来ない。
情を抱くことが出来ない。
今なら、きっとバレない。
明日、彼女にこう言うだけでいい。
『残念だけど、産まれた時にはもう……』と。
たったそれだけのことをすれば、僕はこの忌まわしきものを見なくて済む。
そうだ。
そうしたほうがいい。
そのほうが、きっといい。
彼女の為にも、きっと……。
肉塊を掴もうと手を伸ばした時、
「――!?」
足元に温かな感触を覚えて、ハッとする。
「ヌゥ~ウ~」
そこには、僕の足で身体をこするマルがいた。
僕は我に返って、打ちのめされる。
まただ。また僕は見失っていた。
スプリさんの為になるわけがない。
スプリさんが慈しみ、愛を注いだこの子を、彼女から奪う。
それが彼女の為になるなんてことが、あってはいけない。
僕は己の狭小な心を守る為だけに、彼女の幸福を犠牲にしようとしたんだ。
彼女を笑顔にしたいなんて言っておきながら、彼女から笑顔を奪おうとした。
「僕は……っ、最低だ……!」
悔しくて、腹立たしくて、涙が出た。
床にしずくが落ちて、自分との約束すら守れない自分を嫌悪する。
「死ね……っ。死ねよ。なんで生きてんだ、僕は。なんでスプリさんが死ななきゃいけなくて、僕が生きるんだ……!」
自分のことが嫌いで嫌いで堪らないから、三つだけ決めた。
絶対に破らない掟を、自分に課した。
一つ、スプリさんの幸せだけを考える。
一つ、自分のことは一切考えない。
一つ、スプリさんを看取った後に
――自殺する。




